第一歩 ⑨

 自分の家の、蓮花の姿が見当たらない事以外はいつも通りの日常と外界を繋げるパイプラインのような部屋のベットに、自分は寝転んだ。優しく身体が包まれるのを感じることが出来た。

 やけに静かに感じられた。いいや、静かなのだ。それが蓮花がこの場に――いるべき場所にいないという事実に基づいた感覚であるということは自明だし、けれど頭の片隅ではただ、出かけただけなのかもしれないという真っ当な考えも浮かんでいたけれど、でも、胸の奥にいる自分の本音はその真っ当な考えをはね除ける。


 駄目だった、出て行かれたのだ。確定した現実なのかは分からない。けれど胸のモヤモヤは自分の考えが間違っているという絶対的な直感を奇しくも与えた。出て行かれた、その言葉を反芻すればするほどそう思わずにはいられなくなった。


 自分は蓮花の匂いが染みついたベットに身を預けながら考えた。なにも浮かばなかった。ただ肉体的な自分がベットに寝転び、現実に対する逃避行を仕掛けようとする様子を俯瞰的な自分が見ている図を思い浮かべる事が出来ただけだ。やけに時間に置いてけぼりにされている感覚が自分を苛む。自分は一度ベットから起き上がり、水を口に含んだ。それを少しだけ口元に漏らしながら飲み込んだ。そしてまたベットに戻った。


 窓の外を眺める。また視線を天井に戻した。今、蓮花はどこで何をしているのだろう。もし他人の身体を受け入れていたとしても、それを自分は受け入れるしかないのだろうか。そのような現実を目の当たりにしても、多分自分は受け入れる。蓮花も一、女性だし、その前に一、人間であるわけだから、別に他人の身体を受け入れていようとも、しょうがない。部屋の中を歩き回りながら気分を落ち着かせた。そしてまたベットに寝っ転がった。


 自分は遠く、遠くになにか宝物があるみたいに天井のその奥の奥を詳しく観察する。

 いつも通りの天井にいつも通りの匂いが蔓延る。そして、いつも通りでは無い孤独な肉体をやけにありありと感じ取っている。と、その時だった。


 自分は見つめ続けている天井が〝高くなっている〟事に気がついた。それは一定量変化を成した、というわけではなくて、進行形で奥へ奥へと進んでいく様は、まるでエネルギーがそのまま具現化した生物がそこにいるかのような印象を自分に与えた。自分は驚きのままにベットから身を上げた。どこまで行くのだろうと思った。どこに進むのだろうとも。

 自分は手を伸ばして伸びを続けている天井を掴み取ろうとする。けれど届くはずが無かった。音も何も無い。ただ川が高きから低きに流れるのと同じ様に自然な、ナチュラルな仕草で天井は伸びを続けている。天井が溶けているとも言えそうだった。


 驚いている間にも、天井は伸びを続け、そして、ある一定の部分にまで到達すると天井は自分の驚きを無視するかのように自然体な形でその伸びを止めた。

 もうこの頃には自分はベットの上で立ち上がっていた。そして、自分はある一つのものを目にする。〝それ〟は自分を睨み付けていた(暗がりの中、視認性が悪い中、少なくとも自分にはそう見えた)。〝それ〟が今の今まで天井の内部にいたのかは分からないけれどもしそうであるならば自分は今すぐにでも〝住処〟を手放さなくちゃならない……。


 〝それ〟を見つめながら頭には様々なことが思い浮かんだ。〝それ〟は人の形に近しい生物であるように見えるけど実際のところなんなのか? 自分はこれまでの間ずっと監視され続けてきたのか? こいつが存在している事と、蓮花が自分の元からいなくなってしまったこと、なにか関係があるのだろうか? ……今の自分に理解できる事など何一つなかった。


 〝それ〟は自分をただ眺めていた。壁に張り付いたまま――浮いているのかもしれない。空気が淡々と肺に吸い込まれ口から吐き出されていくのが分かる。自分は何故か妙に落ち着いていて、ふと窓際の方に目線を向けると本来あるべき場所に風景が存在しなかったり、そもそも窓が消えていたり、自分の日常の全ては非現実な姿へと置き換わっていた。

 〝それ〟の独特な呼吸のリズムに、自分も飲み込まれてしまいそうになった。けれど、それによってなのかは分からないけれど気持ち悪いくらいに気持ち良く心が落ち着いていた。ふと、手を握られている感覚が自分を襲った。そしてそれは、自分をより深い、海の深層を越えた低層へと連れて行った。


 まるで羊水の上に浮かんでいるような気持ちになれた。もう身体に力が入ることはない。身体の神経という神経の経路が目の前にいる人間なのかも分からない生物によって掌握されてしまっているようだった。実際にそうなのかもしれない。


 〝それ〟は自分の方へ降りてきた。なんら驚きは無い。〝それ〟を目の前に――鼻先ほどの距離に捉えて自分は初めて、やっと〝彼〟が〝誰〟なのかを知る事が出来た。瞬間的に理解する――彼は……。頭に思い浮かべた人間の名前を口に出そうとしたとき、目の前にいる生物に自分は口を押えられてしまった。


 そしてまた、睡魔が自分を捕まえたんだ。そうして自分は、夢を見たんだ。


 太陽は何故か透明で暖かく、


 退屈な午後は俺に妙にやわらかく、


 当たり前のように鳥や虫が鳴き、花が咲く、


 女の鼻歌が耳をからかう――

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