第一章

重症患者

 経験と呼ぶには優しさが少しばかり乏しい経験(それを、経験と呼んでいいものかと思ってしまうような経験)が自分にあったことは確かだけれど――だからか、昔のことをほじくり返されるような事は嫌いだし、ハッキリ言って〝やめてほしい〟と突っぱねる事が今までも多かった(だから〝経験と呼ぶには優しさが少しばかり乏しい経験〟のことを〝障害〟と呼んでもいいと思っているし、それで救われる人間がいるのならば、幸せだろうと考えてきた)。

 

 人付き合いは狭く深くの人生だけれど、自分には音楽が友達として生きていることは確かだし。


 十代の前半を少しだけ早とちりして生きていた時くらいから音楽がずっと付き合っている素敵な友人であることも確かだし、それに〝生かされている〟と言っても紛れもなく〝そうだろう〟と自分は言葉を重ねることが出来る。けれどその友人である音楽ですら狭く深くの聴き方を好み、同じ音楽、気に入った〝音〟を、ずーっと身体の中に流し込むように聴く方法を好んでいるのだ。


 ――いつまで自分はこの時代に拘るのか、そう考える時がたまにある。


 それは自分の深層にまで音楽をつたって降りていったときに聞こえる心の声である事はそうなのだろうが、それ以上わかりきったことと言えば〝この、自分の存在している世界そのものに、上手く接続できない感覚がある〟ということくらいで、そのほかを明瞭化することはとても難しかったしそれを感覚的に自分は拒んだ。


 昔〝友達らしい友達〟が自分にはいて、でも彼は死んでしまった。彼は――〝シビト〟という名の青年は、死んでしまった。そのように記憶しているはずなのだけれど何故だか自信があまりないのだ。


 補完してしまった部分がどこで、どこまでが自分が本当に生きてきた現実で、どこまでが自分の〝現実〟であるのかさえ紛れさせた。


 自分の認識の外にも世界が続いていると知ったのは五年前のことだった。それはとても驚いたし、だからこそ――なのかもしれないが、自分は〝昔〟に留まり続けているのかもしれないということを最近、ずっとずっと、思い続けていた。



 ***



 身体の感覚が自分が感じられるほどの浅瀬に引き上がってきたタイミングで――自分の身体が酷く疲弊を溜め込んでいることに気がついた。夜が灯る街並みを歩いたのだろう。都会と呼ばれる、人工物の列挙を歩いて帰ってきたのだと思う……。


 ワンルームの部屋がとても広く感じられた。部屋の壁の一面のガラス窓を覆い塞いでいた遮光である意味の無い遮光カーテンを開けると、街の全体像を見ることが出来た。そしてベットに自分は身を落とした。散らかっている部屋の大部分はベットに占領されている。自分は一呼吸したあと、人工フルーツジュースを一口、口に入れた。とてもマズかった。朝の残りの人工フルーツジュースをお腹の中に頑張って落とし込んで飲みきると、すぐに眠ってしまった。


 けれどこの世界での〝眠る〟ということが〝夢の中にいくという事ではないことを〟改めて体感したし、けれどできるだけ休もうとした。陽が上がったり下がったりする光景を、見てみたいと素直に思った。だからそういう意味では自分が自分の人生の中で〝眠る〟事はなかった。一部を除いては。(正確には、眠る必要もないのだけれど)。


 自分が寝返りを打つ分だけ、女の子に腰を振る人間もいれば、静脈にシャブを打つ人間もいるのだろう。自分が〝本当の睡眠〟を果たす分以上に〝本物の睡眠〟を手に入れる事が出来る人間もいるはずだ。というか、いるのだ。それを提供しているのが自分だから。


 自分は、人々に本物の睡眠を提供していた。けれど今日は〝それ〟を手にすることをやめておくことにした。少しばかり、夜の街並みに耳を傾ける日にする事に決めた。


 少しだけ身体を起き上がらせた。未だに身体は気怠さを抱えてはいたけれど、それ以外は大丈夫。カーテンをかき分けて窓際に移動する。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえる。人を運んで搬送先の病院で手当をするのだろう。ここ最近の医療は目まぐるしい発達を遂げているし、だから殆ど死ぬ可能性はないから、安心して運ばれればいい。――そんな感想を色々なものに対して浮かべていくとあっという間に、時間が経った。


 こうして自分の日常は繰り返されていくのだ。朝、目覚めたら、また同じ飲み物を口に入れるし、また同じ服を着る。また、同じ街で商売を、睡眠を売ることをし続ける。色々な人々を本物の睡眠へ誘わせることが出来る。


 ――私たちは、たくさんの日々を乗り越えてきました。そして、沢山のことが変わり続く世の中にいます。人間は、様々な概念を信じる事によって意思を統一し、マクロな事象を成してきました……。でも、今くらいは、その統一からの乖離をしましょう。


 今日の消息を夢の中に――おやすみなさい。

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