第六章

打ち沈んだ雰囲気

 一ヶ月あった内の残りの半月(その二週間ほどは期間としては何気ないものだったが、自分にとっては密度の濃い、人生にとても意味合いのある二週間となった)。自分はその二週間ある内の半分ほどをトレーニングに充てた。その為にコールド・オブ・ナーの拠点に何度も行ったし、その度に〝彼〟は自分の為にトレーニングに付き合ってくれていた。


 それがどのような思案を重ねてそこに辿り着いたのかは分からないけれど、自分は上手くいけば一発で人を殺すことが出来る〝銃〟を手で構え、それを撃ったりもした。乾いた心拍音が今でも耳元に残っていた。銃は人を殺すだけではなくて、雰囲気まで打ち沈める事が出来るのだと思った。そうしてしまうとそこに味はなくなる。ただ色の付与されていた絵画からその重要な色を剥奪してしまうのと同じであると、ただただ感じた(それが凄く重要な事であるならばまたあれかもしれないけど)。


 潜在意識の世界で銃を使うだなんて意味が無いのだと思ったが、そんな事を組織の人間は微量たりとも考えていなさそうだったし、またそれが逆説的に〝自分がコールド・オブ・ナーの目を欺くことに不安を覚えなくても良い〟という決定因子にもなってくれた。けれど勿論コールド・オブ・ナーだって実弾で弄ぶだけを武器としている訳じゃなかったし、それは自分がこの数ヶ月間で自分の目で見てきた〝現実〟が物語ってもいた。


 自分はトレーニングに参加した時に、フィジカル面という単一的な一つの側面に限った話であるならば、コールド・オブ・ナーのメンバーに確実に負けてしまうし、でもまた単一的な一つの現実の側面として〝そんなことすら無に帰してしまうのが潜在意識の世界〟であるとも思った。


 世界そのものの潜在意識の世界で、銃が使えるかどうかも未知数なのだ。それがどうなるのかは誰にも分からなかった。不安など覚えていなかった。自らの苦悩をエンターテイメントにしてしまっていたら絶望を完全には語りきれないように、もう洗いざらい全て自己完結に墜落する感情に苛まれていたから。それが良いのかどうかも分からない、そんな中で一つ分かる事がある。それは〝人間は成長していくにつれ、未熟になっていく〟ただ、それだけだった。



 ――半月の内の残りの一週間は蓮花と過ごした。常日頃から家に帰れば蓮花は少なくともいたし、別にそんな状態に特別な感情を抱いていたわけでもなくそれが日常になっていたけど、自分は蓮花とまとまった時間を過ごすことに決めた。と言っても何か特別な事をしようだなんて思わなかった。それは蓮花も同じ様だった。ただ気ままに、本能のゆくがままに、自分達は互いの未完全で未熟な部分を互いに舐め合うように、自分自身の気持ちを晒し合った。


 露呈された感情は不均一を保っていたし、それはある種の不細工な面をした感情であったことは確かだけれど、よい一体になれた気持ちになったし、それを蓮花も心から望んでいるようだった。自分達は何もかもに不満を抱いていたし、それは出会った頃から変わらなかった。その時はまだ記憶フロッピーディスクの売人とその買い手という関係性だったけど、今の自分達は互いに互いをそんな無責任な存在であるとは思ってもいなかった。だからこそ、自分は蓮花と〝他人が押しつけた無用で鬱屈としたテクノロジーや、無責任な戯言や、大人が決める歪んだ認知からの逃亡〟をはかろうしていて、そしてはかった。鬱屈とした日常から抜け出した。仮にこの世界の大部分が――仮にこの世界の殆ど全てが虚構だとしても、自分達の感情だけは誰にも奪われない、奪わせることは絶対にさせない、その気持ちだけは本物だろうと思ったから。


 自分達は日常の言いなりになる事から抜け出して――色々な所に行った。時間を忘れて互いの本心を露呈させながら、手を繋ぎながら、まずはフードコートに行った。自分達が初めて出会った場所に行ったのだ。フードコートはいつも通りのボリュームに留められていたし、でもそんな事は今の自分達には関係なくて――自分達の世界に入り込んでいたから(どれだけ現実が自分達の喉元にまで到達しようとも、自分達の狭い、けれど深い大事な見地だけは大事にしたい、そんな言葉も蓮花はいつかのタイミングで言っていた)。


 フードコートでは互いの過去の事についての話しをした。自分は、蓮花に対してだからとかは全く関係なく、ただ純粋に〝そのような人間〟であるという事なのだけれど――自分は、過去を他者に話すことが本当に嫌いだから、これまで蓮花を含んだほとんどの人にそんな大々的に過去を話すことはなかった。けれど、自分はこのタイミングで内在する自分の過去の大部分を話すことにした。それがいいのだと耳元で囁かれていて、そして自分もそうするしかない気がして、そして自然と自分もそんな気持ちになっていっている。フードコートの端っこの席に座った自分は、蓮花に向かって話し始めた。


「自分がこんな事を言うのは珍しいかも、というか初めてかもしれないけどさ、……自分の過去を話すことは苦手なんだ、知ってた?」


「もちろん、そんな気がしてたよ、だからでしょう? いつも私しか喋らない」


「そうだね。それは本当に申し訳ないと思っているよ。ごめん。でもさ、それにも理由があるんだ。長い話しは嫌いだから単刀直入に言うよ。――自分には過去がないんだ。過去がないって言ってしまったらよく分からないかもしれないけど、なんて言えばいいんだろうな……その、でも……本当にその言葉のままなんだよ。〝自分には過去がない〟。覚えていないんだ。何もかも。ただ自我として意識が自分の管轄内に落ちてきた時には、もう十歳を越えていた。多分年齢はその位だったと思う。違うかもしれないけど、まぁ、なんとなくその位だと記憶しているよ。十歳までの自分はどこに行ったのだろうって思う事がよくあるんだよ。だから過去を話すのは嫌いなんだ。話したくない過去があるんじゃなくて、話せるだけの過去が存在しない。それは最近気づいた事なんだけど、蓮花と蓮花のお母さんに会いに会いに行ったときがあるでしょ? その時にさ、思ったんだよ。〝普通の人間は親がいる〟ってね。自分の親は誰なんだろう、そんな気持ちが湧き上がってくるんだよ。でもそんな気持ちもここ最近まで、蓮花のお母さんに会うまで気づかなかった。まぁ、元々そんな感情の色を自分は持ち合わせていなかっただけなのかもしれないけど。」


 そう言った自分に、蓮花はどんな反応も示さなかった。


 それから自分達は、また、色々な会話をしながらただただ街を歩いた。けれど現実が背後を練り歩き、自分達を(少なくとも自分を)追いかけている感覚を否めなかった。

 それは自分に妙な高揚感を与えた。落ち着いている蓮花とは反対に、自分の気持ちは浮いていた。蓮花はフードコートに辿り着く前よりも神妙な面持ちを保っていた。そして、事情を知らない人間からは酷いと言われても可笑しくないほどに気持ちは落ち着いていた。


 蓮花の手を握っているだけの自分が、蓮花が今何を考え、何を感じ、何どのような本心を抱えているのかは分かりやしないが、ただ手を握っているだけの自分でも、今の蓮花が何かしらの〝迷い〟のようなものに苛まれているような感覚を得ているという事だけは分かった。蓮花は冷静さを失っていた。自分が手を少しだけ強く握ると蓮花もそれに対して強く握り返した。蓮花が突然立ち止まると自分もそれに連なるように足が止まった。蓮花は地面を見つめ何か頭の中で都合の悪い現実に都合の良い解釈を施そうとしている様な表情をしていた。ただ身体に当たる風が冷たかった。そして、何かしらの〝妥協〟なのか、〝納得〟なのかは分からないが、蓮花は二度自分に向けて頷いた後、再度歩き出すと自分もそれに連なるように歩き始めた。蓮花は家に帰るまで何も喋らなかった。


 何故自分が今の今まで(詳しく言えば蓮花のお母さんに会いに行った時だけれど)自分に〝親〟というものが存在しない事に違和感を覚えなかったのだろうか? それが不思議で堪らない。忘れていたのかと訊かれても、そういうわけではないとただ端的に言ってやるし、忘れていたのではなく〝そのような概念〟の損失が先ほどの(気づくまでの)自分には行われていた、それ以外にどんな言葉を見いだせば良いのか、自分には分からない。


 肉体言語の損失から回復した〝両親〟という概念は、自分に遙かなる絶望を与えました。

 絶望、緩慢としたずっと同じ様相の日常がぼろぼろと崩れ落ちる音が聞こえた。マンネリとした日常の口寂しさの解消が絶望でなくてもいいのに、そう思った。自分は、今まで廃墟と化していた(それとも概念自体が、存在自体が失われていたのかも知れない)、そんな自分の〝心〟のある一部の領域が解き放たれた様な感覚になった。清々しい気分だった。天井はない、僕は何処まででもいける。世界の心骨音のその本体にまで飛べそうな気がした。心の蓋が外れたのだ。


 裁縫の取れた心を手に入れた自分は、手の温もりがなくなりかけている蓮花に、呟いた。


「大丈夫だよ、なにも心配することないさ」


「何が大丈夫なの? もしかして、私が混乱してるの分かったの?」


「まぁね」


 何が大丈夫なのか分からない、私が悩んでいるのは紛れもなく貴方のことだし、貴方の存在が今すぐにでも消えてしまいそうで怖いの、そう蓮花は呟いた。自分の内在する言葉が濁るのが分かった。なんと言えばのか、分からない。今の自分には言葉を濁すことしか出来ない。


「貴方はいったい、なんなの?」


 突然の言葉に、自分は強く驚いた。


「なんなのって、なんだろう」


「だから、貴方は〝何者〟であるのかっていうことよ。どこで誰から生まれた人間で、親は誰と誰で、そして〝どこが貴方の本当の部分で本当ではない部分なの?〟私はそれが気になるの。そしてさっき貴方が言った〝過去がない〟という言葉に、私は激しく混乱している……」


 自分にはその言葉の意味が全く分からなかった。どこが蓮花を混乱させる要因で、蓮花が何故そこまで混乱をしているのかが。


「貴方は誰なの?」


「otibaだよ、それが自分の名前だよ」


「知ってるわ。でもね、そういうことじゃないの……確かに今の私の混乱っていうのは貴方には分からないものかもしれないけど貴方の言葉に私は確かに混乱しているし――ねぇ、思ったことを言ってもいいかしら? ……本当は怖いのよ? ……実際、その事を言うのもね。」


「ああ、勿論いいよ。言えるなら言ってほしい」


「ねぇ、貴方って〝この世界の人間なの?〟……もしかしたら違うんじゃないの? だから、私は貴方が本当に今すぐにでも消えてしまいそうで怖いの……」


 そうなんだ、自分はそう言うことしか出来なかった。


 自分の裁縫の取れた心に、一つの滴が垂れた気がした。そして、耳元にふと女のからかいが聞こえた気がした。


 自分は勿論それを気のせいとして流そうとした。けれどそれは出来なかった。感触の良い耳鳴りでも無かったし、それは確かなる〝囁き〟であった。確かに聞こえたのだ、耳元に女のからかいが。けれど自分は混乱しなかった。何故だかその囁きも〝心地良く〟感じられた。からかいと共に自分の耳に生温かい吐息が感じられた。細かな息遣いすら感じられた。自分は、ここ、ではない、そこ、に世界があるのならば、もしかしたら自分がこの世界の人間ではない、といった直感は確かものになるな、そう思った。自分はそっちの世界に引っ張られない様にした。それは自分なりの内心最大限の抵抗だった。けれど、向こうの女は自分の耳をからかい続けたし、自分もろともそっちの世界に引き込んだ。


 何故か太陽は透明で暖かく、


 退屈な午後は俺に妙にやわらかく、


 当たり前のように鳥や虫が鳴き、花が咲く、


 音の鼻歌が耳をからかって、自分はそのような世界に少しだけ迷い込んだ。


 そこがどのような年代の世界なのかは分からない。さきほどまでの蓮花と繋いでいた手の感触はとうの昔の出来事の様に感じられたし、実際そうなのだろうなと気持ち悪いほどに納得出来た。自分は一体誰なんだ? そう素直に思った。自分は、女の口元を耳元に感じた。すぐそばに女がいるのだ。もう一瞬気を抜いてしまえば耳と口が触れあってしまうほど近距離に女の口の感触を自分は感じた。そして、女は囁いた。


「お帰りなさい」


 それがどちらの意味で言った言葉なのか、考えた。早く帰ってくれと言っているのかもしれないと思った。けれど、女の口と手は抱擁的に自分の耳を包み込んだ。自分はずっと目を瞑っていた。そうしているのが心地良かった。


「もう帰らなくてもいいのよ。ずっとここにいなさい」


 そう言うと、女は自分の口にキスをしてきた。


「口づけありがとう、覚えのあるキスだ。でも、自分は帰らなくちゃいけないんです。待っている人がいるから。待っている世界があるから」


「そう、わかった」


 女はただそれだけを言うと、自分を、また元の世界に戻した。

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