第七章 直行の挑戦

第33話 セントジュリエットのラストラン

 福島記念が始まる前のこと。


 五階の馬主席からパドックをまわるセントジュリエットを優雅に眺めていた時、直行は吹き抜けの正面、自分たちよりも更に上に人影があるのを見つけた。


 それまでくつろいでいたのに突然駆け出した直行に、マオリは驚いた。


「直くん、どうしたのよ?」

「出た、二人いっぺんに」


 マオリは追いかけてくる。


「誰が」

「ねずみ男とクモ小僧」

 間違えた。逆だ。


「東京ドームの?」

「そう、それ。マオリは祐樹を見ててよ」

「わたしも行く!」


 マオリは走ってついてきた。


 そうだ、この子はあいつらのせいで、平和な生活を乱された。恨みつらみは、直行以上のものがあるだろう。祐樹も二人の後ろから訳もわからず追いかけてきた。


「くそ、どこからあんなところに出たんだ」


 やつらは吹き抜けのてっぺんに並んでのんきに腰掛けていた、紫の頭巾と、黄色の頭巾。


 フロアを駆け回ったが、道は見つからなかった。そのうちに二人の頭巾は姿を消していた。


 下を見ると馬たちは無事のようだ。

「俺を挑発に来ただけかよ。腹立つ連中だな」


 その言葉をマオリは不思議そうな顔で聞いている。


 直行たちは一度、一般出口から競馬場の外に出て、レースのスタート地点の真裏に当たる場所へと向った。


「直くんはここが危ないと思っているの?」

 マオリが尋ねる。


「スタートの時間が来るまで、何分かこのへんでうろうろするじゃん。外にも近いし、もしかしたらと思って」


「でも、本当に何か起こったら、警察の人に任せたほうがいいんじゃないかな?」

 確かにその辺にもパトカーが数台止まっていた。


「そういうわけにもいかないんだ。マオリだって、あんな連中にこれ以上生活を引っ掻き回されるのは嫌なんだろ?」

「嫌よ、でも」

 彼女はうつむいて口をつぐんだ。マオリの背後ではパトカーの赤いランプがいくつも瞬いている。


 待機地点の裏ではなにも起きなかった。馬たちがスタートゲートに小走りで向うのを見届けてから直行たちは競馬場の中へと急いだ。


 三人が階段を駆け上がり広い屋外席へと出た時、レースは最後の直線に入ったところだった。


 先頭のセントジュリエットに乗った騎手が二発ムチを入れた。二番手の馬との差が開く。


 直行たちの目の前を、地面を震わせながらセントジュリエットたちが駆け抜けた。


 オーロラビジョンを見る。『2』と書かれた標識を過ぎた。残り200m。

 セントジュリエットに近づいてくる馬はいない。


 マオリが手に抱えた縫いぐるみを強く抱きしめた。

「もう少しだよ、ジュリエット」


 そのとき、一番外側から灰色の毛並みをした馬が突っ込んできた。


 凄い加速。最後の一発に賭けて力を溜め込んでいたのだろう。あっというまにセントジュリエットに接近する。


 セントジュリエットにもう一発ムチが入る。しかし差は更につまる。


 危ない。直行は背中に寒いものを感じた。剣道の試合でちょくちょく感じる敗北の予感。


 『1』の標識の手前でセントジュリエットと灰色の馬の差が半馬身になったとき、それ以上差が縮まらなくなった。


 灰色の馬が息切れしたのではない。後ろの馬との差は開き続けている。


 歓声が更に大きくなる。

 セントジュリエットが、競走馬としての生涯最後のひと伸びを見せ始めたのだ。


 オーロラビジョンに写るその様子を見ながらマオリと祐樹が叫ぶ。


 直行は昨夜の鏡子の言葉を思い出していた。

 最善の結果が得られることは、既に決まっている。


 あの栗毛の馬がその言葉を聞いたらどう思うのだろうか。


 そして直行は見た。

 セントジュリエットの秘めたその生命力が、はじけ飛ぶ様を目の当たりにした。


 最後の最後、芝をまきちらしながら走るセントジュリエット。


 彼女以外のこの世の全ては時間が止まってしまったかのような、それほどの脚で後続をはるか彼方へつき放す。


 直行は思った。死ぬ間際には走馬灯のように人生の思い出が蘇ってくるそうだが、彼女のこの走りをきっとそのときに自分は思い出すのではないだろうか。


 セントジュリエットは命の強さを古橋直行にも見せてくれた。


 もう勝利は間違いない。「やった」直行は呟いた。


 直行はふと自分の横にいた客のほうを一瞬だけ見た。

 それから向き直って、ゴールの瞬間を見届けた。

 

 騎手はゴール板を通過すると、馬の首元をそっとなでた。セントジュリエットはこともなげに、それに応えた。


 マオリはセントジュリエットのぬいぐるみをもう一度抱きしめた。

「わたし、これお守りにとっておく。ずっと」


 突然三人の横で怒鳴り声がした。


 見ると年季の入ったジャンバーを羽織ったおじさんが、大声をあげながら新聞を床に叩きつけ、壁を蹴りつけている。


 そのおじさんは駆けつけたふたりの警備員に両腕をがっしり掴まれて、ずるずるとどこかへ連れられていった。


 周囲のお客たちは苦笑している。マオリもあちゃー、というような表情でその捕り物を見ていたが、直行の沈んだ顔に気付いたようだった。


 あんなものを見なければ、直行も恐らくは率先して笑う側だったろう。


 でも直行は見てしまった。聞いてしまった。ゴール直前のあのとき、彼の顔に浮かんでいた希望の輝き。そして呟いた言葉「やっと俺にも幸運が来たんだ」


 もし彼の買っていた馬券が当たればすごい配当がついていたようだ。それをいくら買っていたのだろう。


 しかし三着の馬がゴール前、最後の最後でするりと入れ替わっていた。

 彼の馬券は外れた。


「どうなってんだよ。俺の人生どうなってんだよお!」

 取り乱して暴れる男をみて直行は無性に悲しかった。


 金さえあればついに許される苦しみが彼にはあったのではないだろうか。


 金さえあればついに開ける道が彼にはあったのではないだろうか。


 しかし現実には、そのすべてが閉ざされてしまった。

 運などという不確かなものによって。


 彼は肝心な場面で幸運を取り逃がすに値するようなまずい行いを何かしたのだろうか? 


「いやなものをみた」

 直行はそれだけ言って歩きだした。きちんと説明すればマオリは理解してくれるかもしれないが、言葉にしたくはなかった。


 彼女はなにも聞かずに黙って直行についていった。

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