第二章 糸井マオリ

第4話 彼女のランドセル

 彼女には赤いランドセルがよく似合っている。


 放課後、小学校の下駄箱の前にある大きな鏡の前を横切る時に、マオリはちらりと鏡に目線を移して自分の姿を確認した。


 灰色の薄手のトレーナーの上に白いカーディガンを羽織り、濃い青色のジーンズ。古い野球帽の下の長いきれいな黒髪は、ランドセルを半分ほど覆っている。


 黄色い帽子をかぶって走り回った一年生のころから比べれば、もちろん身長はだいぶ伸びているけど、でもまだ体とランドセルは釣り合いがとれている範疇だ。


 このランドセルというものは、どうしても自分が子供であることの象徴にしか思えず、本人はあまり気に入っていない。


 とは言っても別に、早く大人になりたいと思っているわけではなかった。


 自分はまだ子供である。それを背伸びして無理に否定するつもりなどない。ただ本人が十分理解しているにも関わらず、自分以外のものによって改めてそう決め付けられると、押し込められると、なんだか癪にさわるのだ。


 これから宿題に取りかかろうとした矢先に親から「早く宿題やれ」といわれると腹が立つ感覚と少しだけ似ているだろうか。


 マオリは近頃日に日に自分の眼差しが大人びてきていることを自覚しており、そういうものなのだろうとは思いつつも、鏡のなかで憂いがちな表情でこちらを見つめる少女に、お嬢ちゃんまあそう深刻になりなさんな、少し肩の力を抜くといいよ、と声を掛けたくなる。


 無理もないけどね。マオリは現在自分が置かれている状況を思い、小さな溜息をつく。溜息をつくとその分だけ幸せが逃げてしまうよ、とはさぞかし幸せなのだろう誰かが言っていた言葉だが、そんなこと言われてもしようが無い。


 下駄箱で真新しい白いスニーカーを手に取る。良かった。今日は隠されなかった。どうせ短い付き合いだろうけど、しばらくの間よろしくね、白い靴。


 右足にスニーカーを履いた時に、指に鋭い痛みが走る。しまった、これがあったか。


 急いで靴を脱いで、足を確認する。白い靴下の親指のところに赤い血が滲んでいる。ランドセルに確か絆創膏が何枚か入っていたはずだ。スニーカーを片手に顔をしかめながらマオリは一旦上履きに履き替え校舎の中へと戻り、怪我した場所をなるべく地面につかないように気をつけて歩いて女子トイレへと向かった。


 トイレの入り口から、近くに知っている顔がいないことと、トイレの中にも誰もいないことを確認した。それからマオリはすばやくトイレの中へと駆け込み、鍵をかけた。靴下を脱いで、親指に絆創膏を巻きつける。傷のあたりがじんじんと鈍く痛む。絆創膏にも僅かに血が滲み出していた。家に帰ったら消毒もしたほうがいいかな。


 それから靴の奥を覗き込む。中には画鋲が一個。靴を振っても出てこない。仕方がないので一度靴紐をほどいて、広げると、なんとか指が届き、画鋲を取り出すことができた。画鋲は両面テープで貼り付けられていた。


 よくこんなつまらないことに手間をかけられるものだ。左の靴の中も覗き込んで確認する。こっちには何も入っていない。ごめんね白い靴。わたしのものになったばかりにいやな目に遭わせちゃって。改めて説明するまでもないだろうけれど、あなたの持ち主はいじめられっこなのよ。


 トイレを出て廊下を歩いて下駄箱に戻る途中、クラスメートの女子が三人、向こうから歩いてくるのが見えた。マオリは走り出した。向こうが気付く前に立ち去りたかったのだが、駄目だった。スニーカーを履いて玄関口から出て行くときに、後ろから笑い声が聞こえた。


「糸井さん、ばいばーい」

 そしてまた笑い声。マオリは振り向かずに早足で学校を出た。


 悪意の固まりのような笑い声。分かっているのに、それでも名前を呼ばれるとほんの少し嬉しくなってしまう自分が情けない。


 あの三人がマオリの靴に画鋲を仕込んだ犯人かどうかは分からない。しかし、もしそうではなかったとしても今日はやらなかったというだけで、明日かあさって、彼女たちがふと退屈を感じるようなことがあれば、彼女たちは、マオリのスニーカーが真新しいことに気付くだろう。ランドセルに新しいキーホルダーがついていることに気付くだろう。


 今日の休み時間、聞きたくもないのに彼女たちのおしゃべりが耳に入ってきた。

彼女たちは学校が終わったら、近所の私立中学を見物に行く約束をしていた。彼女たちは来年そこに進学するつもりで、毎日塾に通っている。


 塾に行く前の僅かな時間を割いてわざわざ中学まで出向くのは、言ってみれば受験勉強に望む為のモチベーションをあげる意味合いもあったろう。


 もっとも彼女たちの心を躍らせているものは綺麗な校舎でも、かわいい制服でもなく、ある男子生徒が部活をしている様子を金網越しに熱いまなざしで見つめて、きゃあきゃあと騒ぐことであった。


 その男子は、さわやかな容貌をもち成績優秀、サッカー部では二年生ながらエースストライカーと、マオリたちの地区ではなかなかの有名人らしく、何度かその一部の隙もない評判を耳にしたことがある。


 知ったことか。マオリが望もうと望むまいと、自分にそんな出木杉くんのような人とは縁があろうはずがない。それともマオリがガラスの靴を履いてこびへつらった笑顔でも見せれば、心やさしき出来杉くんは慈しみにみちた救いの手を彼女に差し伸べて一緒に踊ってくれるのだろうか。


 足の先が痛む。マオリは歩みを緩めて空を見た。十月の空には雲ひとつない。


 彼女には未来のことなど考えられなかった。わかるのは、今夜はきっと一晩中、空は澄み渡っているだろうということくらいだった。マオリの表情が少しだけ和らぐ。今夜が楽しみだ。


 マオリはこのままの状態で小学校を卒業したくなかった。中学生になって、いつか平穏な生活を手に入れて、あのころは大変だったけど良かった、というのではなく、色々あったけど振り返ってみればいい小学校生活だった、と最後には締めくくることをあきらめられずにいた。


 彼女は赤いランドセルがまだ似合っていたかった。


 長くて緩い坂道の途中にマオリの家はある。

 赤茶色のレンガで造られた小ぶりの門を通って、玄関のドアノブに手をかけた時「マオリ、おかえり」と庭から声がした。


 マオリがそちらを振り返ると白やピンクの花を咲かせているコスモスの間から母の笑顔が覗いていた。


「お母さん、ただいま」

 マオリも笑顔で応える。母は頭にはサンバイザー手には軍手と、ガーデニング仕事の格好。額には汗が滲んでいる。だいぶ涼しくはなってきているが、今日は日差しが強かった。そんな日に表で動き回ればそれなりに暑い。伸びをしてから腰を拳で叩きながらマオリに近づいてくる。


「おやつ食べようか。今日は一日庭の手入れしてたから疲れたわ」

「お母さん、その格好とそのしぐさが似合いすぎだよお」

 マオリは楽しそうに笑う。

「エレガントさに欠けてるかしらね?」

「かけらもないわよ」

 

 玄関のドアを開けると、こげ茶色の木製のドアについた鐘がカランとなった。

 母が冷蔵庫から、お手製のプリンの入ったプラスチックの容器を二つ出した。マオリはそれを受け取ってテーブルに運んだ。


「マオリ、コーヒーでいい?」

「えっとね、牛乳がいい。夜中まで寝ておきたいから」

「ああ、そうだったわね。夜食にサンドイッチ作っておくから持っていきなさい」

「うん、ありがと」


 プリンは美味しかった。マオリは甘苦いカラメルのほかに、ホイップクリームをのせて二つ食べた。母はカロリーの過剰摂取を気にして、クリームはのせなかった。お母さん、全然太ってなんかいないのに。


 マオリはスプーンでプリンを口に運びながら、テーブルに片肘をついて庭のコスモスを見ている母の姿を上から下まで眺めた。薄い品の良い紫色のサマーセーターに、茶色のハーフパンツ、マオリと同じくらい長い髪の毛を、さっきまで庭仕事をしていたのでグレーの髪止めでまとめている。


 実に丁度いいじゃない。

 マオリは心の底からそう思っていた。プロポーションだけでなく、落ち着いた佇まいも、朗らかな笑顔も、庭に咲く花や、娘と一緒に食べるプリンに心からの愛情を注いでいる、彼女のささやかな生活も。


 マオリはいつか自分もこういう女性になりたいと願っていた。恥ずかしくて本人にはとても言えないけれど。


 おやつを食べ終わると、ランドセルを持って二階の自分の部屋へと上がった。マオリの部屋は、本人以上に子供と大人の中間をさまよっている状態だった。

 具体的に言えば、幼い頃に父や母が買ってくれたピンク色のぬいぐるみの群れが並んでいるその隣の本棚には、ファッション誌や全八冊の読み応えのある時代小説の文庫本が並んでいた。(現在、六巻まで読了。第二次長州征伐の最中)


 そして昨年マオリの好みで買い換えてもらったシックなベージュ色のカーテンの上には、人の身長よりも大きな黄色い物体に囲まれて三体の恐らく人間だと思われる頭と体のバランスが悪い生物が全員万歳のポーズで笑っている、二年生のとき絵画コンクールで銀賞をもらった、横浜港海岸通りのイチョウ並木を描いた絵が額縁に入って飾られていた。


 それから部屋の片隅立てかけられているのは、白くて長細いケース。


 マオリは算数の宿題をぱっぱと片付けた。もとい、片付けようとした。したのだが思いのほか時間を食ってしまった。


 理科と社会は好きなのだが算数はどうも苦手だ。でも昔からよくテレビなどでは、詰め込み型受験勉強の弊害とやらについて語られているが、マオリはそういう話を聞くたびに首を傾げてしまう。何が悪いのかが分からない。


 自然や、歴史についてどんどん知識が増えていくことはマオリにとってとても楽しいことだった。低学年のころは、学校で教えてもらったことを、その日の一家そろっての夕食のときに、箸とお茶碗を手にして目をきらきらさせながら両親に話して聞かせていた記憶がある。


 二人とも、小さな自分のとりとめもなかったであろう説明を、にこにこしながらいつまでも聞いてくれていた。


 算数は多少苦手でも、マオリの成績は総合的に見れば例の私立受験組の子たちなどよりも良かった。自分は何の疑いもなく公立の中学校に進むつもりだったが、教師に私立を受けるつもりはないのか聞かれたことはある。親も、行きたいなら行ってもいいと言ってくれた。


 教師いわく、私立の学校は公立と比べてそりゃ学費は掛かるけど、程度のいい生徒が多くて不良なんて少ないから、とてもいい学校生活が送れるのだそうだ。


 そうはいいますけどね、先生。わたしの知っている私立希望者はこれがもう揃いも揃ってタチ悪い子ばっかりなのですよ。あなたは知らないようですし、わたしも知らせるつもりはないのですが。


 その教師にとって公立中学は、私立に行けない者が仕方なく行く場所のようであった。しかしマオリにしてみれば私立に行くメリットが感じられないので、お金の掛からないで済む公立に行く。ただそれだけのことだった。


 宿題が済むとマオリはベッドに入った。ここしばらくは母が家を空けていることが多く、そういうときマオリは早い時間にたっぷり眠って、夜中にもぞもぞと活動している。だから今日もすんなりと眠りにつくことができた。

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