第5話 夜の公園
特に目覚ましはかけなかったが十二時頃に自然に目を覚ますと、帽子をかぶり部屋の片隅に立てかけてあったケースを両手で担いで、あくびをしながら階段を下りた。ケースはなかなかの重量があり、途中で少しだけふらついたが持ちこたえた。学校から帰ったままの格好で眠っていたので、そのまま外出できる。
「気をつけてね。お母さんはそろそろ寝るから」
そういってサンドイッチと水筒の入った青い手さげ袋を渡す。母は自分の夕食は一人で簡単に済ませたようだ。
玄関に向かうマオリの背中に母が「明日、お母さん警察に行くわ。マオリが帰る時間までに戻らないかもしれないから、家のカギをちゃんと持ってってね」と声をかけた。
マオリが振り返って、「お父さん、見つかるよね?」と言うと、母は黙って頷いた。
この辺は坂道ばかりで、十キロ近いケースを肩紐で吊るして歩くのは大変だ。深夜の住宅地をマオリは歩き続ける。右足の親指はまだ痛むが、歩くのに支障はない。途中立ち止まり、肩紐を右から左に担ぎ替えて、また歩く。
母にしてみれば、女の子がこんな時間に一人で外出するなんて、本当はやめてほしいと思っているに決まっているのだが、何ひとつ我侭を言わないマオリの唯一の楽しみを心配しながらも認めてくれて、こうしてサンドイッチとコーヒーまで準備してくれている。
そろそろ寝るとはいっていたが、マオリが戻るまでは寝床で本でも読みながらなんとなく起きて待っていてくれるはずだ。ありがたい。
終電間近の時刻なので人通りはちらほらとある。車も結構走っている。気温は下がっているが、重いケースを担いで坂を上っているので寒さは感じない。
目的地である公園の敷地内に入り、マオリは大きな池のほとりで白いケースをよっこいしょと言って下ろした。
道路からほんの少し入っただけでも静寂が深まった。この辺りにはあちこちに公園があるが、ここはその中でも大きい方だ。池の周りをたくさんの樹木が取り囲んでいる。
桜の木も結構あって、ブランコとか簡単な遊具が並んでいる横には割りと広いスペースがあるので、春先にはここでお花見を手っ取り早く済ましている人たちもちょくちょく見かける。
秋の虫の鳴き声が、闇の向こうからほんのわずかに聞こえてくる。好きな雰囲気だ。
ケースの留め金を二つ外して蓋を開こうとしたとき、マオリは懐中電灯のまぶしい光に照らされた。やだなあ、まただ。そう思いながら光のほうを見ると、懐中電灯の持ち主である制服を着た警官がこっちに近づいてきた。
「どうしたの? 君、こんなところで何やっているの?」
小柄な警官は早口で問いただす。暗闇だからということもあるだろうが顔色が青白く、不健康に見える。年は若いようだ。
神経質そうな目で睨まれて、マオリは答えに窮して下を向いてしまった。そのときもう一人警官がやってきた。
中年で少し猫背のその警官はしゃがんでマオリの顔を下から覗き込むと「やあ、久しぶり」と、人の良さそうな細い垂れ目をいっそう細くして笑った。マオリもそのあったかい笑顔につられて笑う。
怪訝そうな顔で先輩を見る若い顔色の悪い警官に、中年の警官は微笑んだ。
「この子はいいんだ。別に悪いことしているわけじゃない」
「でもこんな夜中ですよ。家に送り返さないと」
「いいから、いいから」
「良くないと思いますけどね」
不満気な若い警官。中年の警官は彼の肩をぽんぽんとたたく。
「もちろん何かあったら大変だ。だから俺たちがしばらくこの辺を巡回して、へんな奴が寄ってこないようにしよう」
「はあ?」
「あまり懐中電灯を振り回さないようにな。この子の邪魔になる。さ、行くぞ」
中年の警官は「今夜はいい天気だ」と、もういちどマオリに微笑みかけ、ゆっくり歩いて去っていった。
若い警官もちらちらマオリを振り返りながらその後ろをついていった。制服を着ていなかったらあの若い警官が一番怪しく見えそうだ。
ああ良かった。マオリはふうと息をつく。夜のこの公園で何度も顔を合わせている中年の警官に感謝しながら、夜空を見上げた。
いい天気だ。
マオリはケースのふたを開いて、中から直径八十五センチの白い天体望遠鏡を取り出した。三脚を立てて、望遠鏡をセットする。いつもやっているので手馴れたものである。
白い鏡筒を東の空に向けて、二十ミリ接眼レンズを覗きながら微動装置を回して位置を調節する。懐かしい友達の姿が見えると、マオリはそっと呟いた。
「また会えたね、オリオン」
横浜は天体観測には不向きだ。マオリの住んでいる市の端っこのほうでも街が一晩中明るすぎるし、一時期よりはましになったと言われているが空には常に薄い霞が掛かっていて、等級の大きな星は全く見えない。
それでも今日のような精一杯に晴れた夜には、中型の天体望遠鏡でもある程度の観測をすることができた。
マオリは一度レンズから目を離して、池の向こうの東の空に浮かぶ、久しぶりに見るオリオン座の姿全体を眺めた。
蛮勇が過ぎて神の遣わしたサソリに殺された勇者オリオン。そのベルトの位置にあたる、ミンタカ、アルニラム、アルニタクの横一列に並んだ三ツ星。
この三つの二等星は多くの人が星に興味を持つきっかけになっているのではないだろうか。星座の知識がまるでない人からしても、まっすぐ並んだ星を見ればなんだこれ? と当然思うはずだ。
小さいときのマオリもそうだった。世の中には星座というものがあるそうだとはなんとなく聞いたことがあった幼いマオリは、三ツ星とその下に離れて光る星とをつなげて『信号機座』と名づけた。
この三ツ星や、常に北を指し示して航海の道しるべとなってくれるポーラスター。これらに気付いた古代の人が、星の配置がただばら撒かれているのではなく何か大きな存在の意思によってさだめられているのではないかと考えるのは至極当然のことであったろう。そして占星術や、神話が世界中に生まれた。
宇宙については今では色んなことが分かってきて科学的な説明が為されているけれど、分からないことはその何倍もあって、その星がその場所にあることに意味がないとは、誰かが決めたのではないとは、まだ言い切れないのだ。
「勇者オリオンは、腰に剣を差しているんだ」
父はそう教えてくれた。幼き日、夜空の星をマオリと父で見たときのことだった。彼女は父に信号機座の場所を教えてあげた。そしたら父は笑って感心してくれて、それから、あれを大きな人間に見えるって言った人もいるんだよ、とオリオン座の説明をしてくれたのだ。
「人間? なんで、なんで?」
「ほら三ツ星のこっちのほうに大きな星が見えるだろ、それとこっちの・・・・・・」
「えー? 分かんないよう」
父は縦にも横にも大柄な人だ。その大きな体を屈めてマオリに視線の高さを合わせて、父は根気よく教えてくれた。マオリが信号機の柱に見立てた星はリゲルという名前だった。父と星を見たその日もよく晴れていたので、三ツ星の下に斜めに並ぶ小三ツ星もぼんやりと見ることができた。
「見えるかマオリ? あれがオリオンの剣だよ」
あのときの父の声を思い出しながら、マオリは望遠鏡をオリオンズソードとも呼ばれる小三ツ星に向けた。
父がとても重大な秘密を打ち明けるように「実はなマオリ、剣の真ん中の星は、本当は星じゃないんだよ」とささやいたときの神妙な表情が目に浮かんできて、マオリは小さく笑う。
あのやさしい目を最後に見てから、もう何ヶ月も経ってしまった。
あれはその晩のうちにだったか、それとも何日か後のことか、その記憶は定かでないが、父の双眼鏡で小三ツ星を見て、その真ん中にあるのが、鳥が羽を広げる様にも見える、オリオン大星雲であることを知った時の感動は今も忘れることができない。双眼鏡だと緑色に見えた星雲は、この望遠鏡で覗くと赤く輝いている。
星が流れた。この季節は毎年発生するオリオン座流星群の時期にあたる。微動装置で鏡筒を動かして、馬頭星雲に目を移す。オリオン座は面積が大きいこともあって、見所の多い星座だ。ガス雲の陰が馬の頭に見えることからそう名づけられた馬頭星雲。冬の大三角の一つベテルギウス。
M78星雲はウルトラマンの生まれ故郷だという。それを聞いたマオリは父に疑問を呈した。
「星雲ってすごく大きいんでしょ? だったらそこの何星で生まれたのか、もう少し詳しくいってくれないと」
「もしお前が住所を聞かれたとき、相手が学校の友達とかなら、駅から何分歩いて、コンビニを右に曲がって、とか細かく教えるだろうけど、外国人に聞かれたのなら、横浜です、で済ませちゃうだろ? 日本です、でも十分かもしれない。それと同じだよ。多分ウルトラマンは地球人にはその程度でいいと思ったんだろうな」
「そっか。どうせ分かんないから大体の説明でお茶をにごされたのね。一生訪れることもないでしょうし」
人が聞いたら、何を疲れる会話をして時間の浪費をしているのだと思うかもしれない。しかし、マオリにとって父とのそういうひとときは、何にも勝るとびっきりの素敵な時間の使いみちだった。
また流星が空を横切った。星空とマオリだけの静かな世界に少しでも長く浸っていたいのだが、ちょっとした拍子に彼女の胸中には現実がよぎってしまう。
今朝の新聞に、そんなに大きくはないが財前誠一の動向についての記事が載っていた。マオリは新聞をすぐに畳んでラックに放り込んだが、おそらくその記事は母の目にも留まってしまっただろう。
二ヶ月前の新聞に財前誠一の名前を久々に見たときは鉛をお腹一杯飲み込んでしまったような気分になった。野球の試合中に乱入した謎の覆面男が(記事ではクモ男の再来と書いてあった。何のことだろう?)広げた大きな垂れ幕にその名前が書いてあったのだ。
『財前誠一ハ必ズ滅ビル』
蒸し返さないでよ、お願いだから。
数年前にも財前の名が新聞に踊った時期がしばらくあった。それがやっと沈静して、当人たちはともかく、世間の人々が忘れかけていたころにあの垂れ幕によってその名がまたクローズアップされてしまった。それからは定期的にあの事件についての記事が載り続けている。
そして財前の名前が出るたびに、マオリの願いも空しく彼女の父の名もまた、あの事件の重要な関係者として紙面を賑わすこととなったのだった。
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