第6話 星のつるぎ

 マオリに父を恨む気持ちはなかった。彼が世間の騒ぎ立てるさなか姿を消してしまったことによって、糸井家に残されたマオリと母が、この数ヶ月いやな思いを色々としてきたのは確かだ。

 学校でのマオリはそれまで特に目立つ存在ではなかったが、平穏に日々を過ごしていた。それが近頃また騒がれだした、あの糸井元刑事の娘だと言うことで本人の人格とは関係無しにクラスメートから嫌がらせを受けるようになってしまった。


 教師は公正にマオリに接してくれるが、それは寛大な善意により、穢れたマオリのことですら公正に扱ってくれているという類のもので、その本心は子供であるマオリにだって察知できた。


 介護士の資格を持つ母も長年勤めた老人介護施設を辞めざるをえなかった。それでもマオリと母に父を恨む気持ちは少しもなかったのだ。ただその無事な姿を早く見せてほしかった。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。父の昔の仕事仲間の刑事さんなどから経緯は聞いていて、理解できることもできないこともあった。


 父のパソコンで事件について検索してもみた。出てきたのは父への中傷の嵐。どこの誰だか分からないものたちの残酷な言葉の羅列に打ちのめされながら、マオリはそれでも情報を集めようとした。


 星は一つ、二つと流れ続けた。オリオン座流星群は、ハレー彗星を母天体とする。彗星がその通り道に残していった塵が、地球の引力に引っ張られて流星となるのだ。マオリが生まれる前に地球に接近して、次に回帰するのは2061年と言われているハレー彗星。今頃太陽系のどの辺を飛んでいるのだろう。


 オリオンの剣のあたりから長い尾を引く流星を見たとき、マオリの瞳は涙で曇った。

 星に祈りならば何度も捧げてきた。それでももう一度願わずにいられない。


 わたしたち家族を救ってください。


 わたしたちが滅びなければ、世は正しい姿へと導かれることはないの? 

 母も、わたしも、ただ穏やかに暮らしたいだけなんです。


「おいお前、何を持っているんだ?」

 突然の大声にマオリは飛び上がりそうなほど驚いた。声のするほうを振り返ると懐中電灯の光。自分ではなく、少し離れたところに立っている誰かを照らしている。

 誰だろう? 声を上げたのが誰かはわかる。さっきの若い警官だ。


「おい!」

 返事がないのでもう一度、さっきよりも強い調子で呼びかける。

 マオリがそろそろと近づくと、懐中電灯で照らされている人の姿かたちが彼女にも認識できた。


 そこにいたのは男の子だった。背が高い。マオリよりも年上なのは間違いなさそうだが、中学生か高校生かは判別できない。


 黒い上下のジャージに、白地に赤いラインの入ったジョギングシューズ。髪は短髪だ。自分を無遠慮に照らし続ける光に顔をしかめている。


 両手はだらりと下げているが右手には竹刀を握っていた。

 おっと、これは穏やかでないですよ。


「し、竹刀を地面に置きなさい!」

「え、これっすか?」

 男の子はなんだかとぼけた声で竹刀をかざした。

「やめろぉ!」

「いや、なんにもしてないっす」


 若い警官は、そんなに大げさに反応しなくてもとマオリですら思うほど後ずさる。彼はすっかり腰がひけてしまっていた。顔色はますます白くなり、身構えながら怯えた目でにらみつける。


 あの、これって、もし男の子が竹刀で暴れ出したとして、わたし、守ってもらえるのでしょうか? マオリは心配になった。


 男の子はたぶん困っているのだと思うが、表情からは読みとれない。顔に出ないたちなのか、それともマオリと同じように、職務質問をひんぱんに受けているからある程度慣れてしまっているのか。


「なんだ今度はお前かよ」

 そのとき中年の警官がのっそりと現れた。手にはペットボトルのお茶をもっている。近くの自動販売機に買いに行っていたのだろう。


「あ、こんばんは」

「おお、こんばんは。どうした直行? 今夜はずいぶん遅い時間じゃないか」

「明日からテストなんで勉強してて、まだまだかかりそうだったんでちょっと息抜きに」


 若い警官が声を荒げる。

「息抜きに何をするつもりだったんだ!」

「いいんだ、いいんだ。いつものことなんだよ。悪いな直行。こいつは最近うちに赴任したばかりなんでな。まだいろいろと慣れてないんだわ」


 中年の警官は、気づけばずいぶんと後ろにさがってしまった若い警官に向かって振り返った。

「この子は剣道部だ。よくこの公園で素振りしてるんだよ」


 どうやら、わたしは観測に戻っても大丈夫そうね。マオリは来た時と同じようにそろりとその場を離れた。男の子と中年の警官は、それから二言三言、言葉を交わしていた。中年の警官は去り際に持っていたペットボトルを男の子に渡して、男の子が小さく頭を下げた。


 マオリはその後もしばらく望遠鏡を覗いていた。その間離れたところから、竹刀が風を切る音が断続的に聞こえてきた。


 音は別にいいのだが、近くに誰かがいるというだけでどうも気になってさきほどまでのようには没頭できない。


 もちろん公園はマオリのものではないし、向こうも自分がここにいることで練習に集中できていないかもしれないので、そこはお互い様だった。


 マオリは望遠鏡の横にあるベンチに座ると、母が渡してくれた袋から水筒を取り出して、蓋のカップにコーヒーを注いだ。息を吹きかけて冷ましてから一口飲んで、それからサンドイッチを包んでいるラップを開けて、ハムとチーズがはさんであるサンドイッチを一口かじった。


 直行と呼ばれていた男の子の方を見ると、ちょうどペットボトルのお茶を飲んでいた。右手に竹刀は持って立ったまま。肩が静かに上下しているのが分かる。息が上がっているようだ。


 マオリは少しの間男の子を眺めていたが、向こうはこちらを全く見ない。彼はペットボトルを高く傾けてお茶を飲み干す。


 あちらさんはこれで終了なのかと思ったら、空になったペットボトルを地面に置いて、また素振りを始めた。面と胴を、足を前後にステップしながら交互に延々と繰り返す。


 別に関係ないけど、そろそろテスト勉強に戻らなくていいのだろうか。サンドイッチを食べ終えてから、マオリはその後更に三十分ほどそこにいた。


 気の済むまで星空を見続けて、腕時計をふと見ると二時を回っていた。そろそろ帰ろうかな。望遠鏡を三脚から外し、帰る準備を始める。


 全然気付かなかったが、竹刀を持った男の子はいつのまにかいなくなっていた。警官たちがまだこのあたりにいてくれているのかは分からない。


 マオリは望遠鏡を収めた白いケースを担いで公園からでた。夕方たっぷり寝たのでまだまだ眠くない。帰ってすぐ寝たら、恐らく明日の朝は寝すぎでかえって調子が悪くなってしまうだろう。程よく眠くなってくるまで、小説の続きでも読むことにしよう。


 家に戻って玄関のところで、マオリの足が止まった。望遠鏡の入ったケースを落としてしまいそうになるのをすんでのところでこらえて、動揺を少しでも抑えようとするようにそれをそっと地面においた。顔色が真っ青になっていた。


 銀色のドアノブがついたこげ茶色のドアに、今しがた搾り取られた血のように赤いペンキで、父の死を願う言葉が大きな文字で書き連ねられている。


 イタズラ電話は何度もあったが、ここまでされたことなど初めてだった。父を良く思わない誰かが、ついさっきまでこの場所にいたのだ。


 マオリは恐ろしかった。自分が鉢合わせする可能性があったこともそうだったが、それ以上に、他人に対してこんなことができる人の心が恐ろしかった。


 どうにか母に気付かれないように、この赤い文字を消してしまいたかったが無理だろう。


 マオリがドアに手を触れると、まだ少しも乾いていないペンキが彼女の白い手についた。赤く染まった自分の手をマオリは見つめていた。


 彼女はドアを拳で強く叩いた。重く鈍い音が闇に響いて、消えた。手の甲にもペンキがついてしまったが、もう一度叩く。あふれ出してくる悔しさを抑えることができなかった。


 両手でドアを何度も何度も叩き続ける。死ぬもんか。誰に何を言われようとも、わたしたちは死ぬもんか。手が止まり、かすかな嗚咽が漏れる。


「マオリ?」

ドアの内側から声がした。マオリが大きな音を立てたものだから母が不審に思って玄関に来てしまったのだ。静かに扉が開いた。


 手を真っ赤に汚したマオリの姿を見るなり母は小さな悲鳴を上げた。

「どうしたのそれ!」

「大丈夫よお母さん。怪我とかじゃないから」

 顔を強張らせた母を見て、マオリは逆に冷静になった。一歩後ずさって、黙ってドアを指差す。


「あーあ、何よこれえ」

 赤い文字を見て母の声は泣きそうだった。ドア一面に書かれた文字は、マオリの拳のせいでぐちゃぐちゃになっていたが、半分くらいはまだその文面が読み取れた。


「ひどいなあ」

 母はマオリの横に立って腕組をしながらその文字を見つめていた。その目には僅かに涙が浮かんでいるのが見て取れて、しばらく母はそのまま黙っていた。それからマオリのほうを向いた。

「母さんこんなことされているのに全然気付かなかった。駄目ねえ」

「良かったのよそれで。変な人がきても危ないから絶対顔を出しちゃ駄目だからね。そのときは警察の人に任せましょ」

マオリの言葉に母は「うん、そうだね」と頷いた。


「もう中に入りましょマオリ。これ、ちゃんと落ちそうにないから、上塗りしなきゃね。このドアの色、気に入っていたんだけどなあ」

「ね、いっそのこと真っ赤に塗っちゃおうか」

「やだよ」


 マオリと母は努めて明るく振舞う。マオリが、地面に置いていた望遠鏡のケースをペンキで汚れた手で持とうとすると、母は「ケースが汚れちゃうわよ」と言って、かわりに持ってくれた。


 マオリは思う。

 お父さん、早く帰ってきて。お母さんはわたしとあなたのために懸命にこらえていてくれるけど、本当はもうぼろぼろなのよ。分かるでしょ? 

 わたしもがんばるよ? 明日の朝だってちゃんと学校に行く。誰に何をされても耐えてみせるよ? でもいつまで持つかはわたしだって分からないのよ。


 お願い、早く帰ってきて。


 二人は赤い文字で汚れたドアの中へと入っていった。

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