第三章 二人の夜

第7話 第二の犯行予告

 その日、大輔が築地にある三笠新聞の東京本社に戻ったのは、夜の十一時を少し回った頃だった。


 今日は神宮球場で東京ヤクルトと阪神の試合を取材に行っていた。阪神は好調をキープしていて今日も5対4で接戦をものにしていた。


 記事は球場ですでに書いてメールで送信済みだったので、本当は帰宅しても良かったのだが、部長と相談しなければならない事柄を抱えていたので、こうして戻ってきた。


「うーす、いま帰ったぞう」

 スポーツ部にはこの時間になっても残っているものは結構いた。ざっと見で、広くて密度の高いフロアの机の半分は記者たちで埋まっているようだ。もっとも当直当番のものがいるから、二十四時間だれかしらはいる。


 次長の藤吉がパソコンのディスプレイから目を離さずに片手を上げて大輔の声に応えた。大輔は、藤吉がパソコンで見ている出来上がったばかりの明日の朝刊記事を後ろから覗き込みながら「あの件、これから部長と詰めるわ」と告げた。


 藤吉はマウスで記事のページをめくりながら「お前ら二人の代打の手配はして置いた」とつぶやいてそれから大輔のほうを振り返った。


「なんかどんどん話がややこしくなってるな。大丈夫か?」

「わりいな。面倒かけちまって」

「それはいいんだけどな。社会部の連中もさすがにもう感づいているぜ」


 次長の藤吉は大輔より少し年上で、昇進したのは早いほうだった。大輔は出世にはさほど興味がなかったが、いずれ次長くらいにはなって妻を喜ばせてあげたいものだと思っていた。妻は大輔の出世についてなにも言ったことはないが、きっと喜んでくれる。


 しかし年のいったヒラというものが仕事の上でとても動きやすいというのも事実だった。十分な経験を積んでいて、部下と上司の板ばさみになることもなく、小さなカバン一つで身軽にどこへでも飛んでいける。もしかしていつか自分の人生を振り返ったときに一番充実した仕事ができている時期かもしれなかった。


 大輔はベージュ色のコートをハンガーにかけてロッカーにしまうと、自分の机に座ってパソコンの電源を入れた。そしてノートパソコンと筆記用具の入った安物のカバンをとりあえず床の上に置いた。


 彼の右側には雄大な山がそびえていた。その頂点を極めんとする人類の挑戦を拒み続ける気高き姿。ここをアタックするには酸素ボンベを装備し、大規模なチームを編成してのぞまないとまるで歯が立たない。


「古橋くん、おっかえりー」

 その神秘の山の向こうから、まるでゴジラの初登場シーンのように真田が顔を出した。


 山の正体は彼女が自分の机の上に幾列も積み上げた信じられない数のメモ紙や資料やCDケースだ。天にも届くほどのそれらは時の流れとは無縁の世界で、要するに順不同だった。


 その山では三畳紀のプロトアビスの化石が見つかったはるか下の地層から白亜紀のTレックスの化石が発掘される。昨日渡した資料が山の一番下に埋まっていて、一年前の部内回覧が何の疑問も持たずに万年雪の積もる頂上に居座ったりしているのが常だった。


 おい、この回覧他に回すか、いっそのこと捨てちまうかすればいいじゃん、と大輔が進言しても彼女は、後でちょっと見ようと思っていたのよ、と断ってそれを八合目あたりに挟み込んでしまう。


 そして、一年間ほったらかしておいたものを今更読むはずなどはなく、回覧はふたたび長い眠りへとつくのである。以前、社の重役がこのへんを通りかかったときに「これが三笠新聞グループ八千数百のなかで一番ぶっちらかった机だ」と評されたことがある。


 しかし不思議なことに彼女は書類、記事を保存したCDなどを紛失したことが一度もない。逆に、真田の机と比較すれば整然とした机に見える大輔のほうがものをなくすことが頻繁にあった。


 大輔が自分の机を探すだけ探しても目的のものは出てこなくて、もしやと思い真田の机の上の山に触れようとすると、彼女は「わが国の領地を侵略するのはやめてください。集団的自衛権を発動します。集団的自衛権を発動します」とシャープペンの先端で大輔の手をちくちく攻撃してくる。


 結局必ず探し物は大輔の机の奥から見つかって、横で真田に「他人に机いじられるのって嫌いなのよ。わたしって潔癖症なのかな?」などと言われて、とても納得のいかない思いをするのだった。


「おかえりってば」

「ん? おお、ただいま」

 今日も変わらずすげえ机だなあと眺めていた大輔は、真田のもう一度の呼びかけで我に返った。


 真田も自分の取材から帰ってきて間もないところだった。今日の彼女は濃い緑色のフード付きパーカーを着ている。パーカーの胸元には黄色い文字の英語の筆記体でアメフトのチーム名が書かれていた。


「部長のとこにいく。一緒に来てくれ」

「はいよ」

 大輔と真田は席を立って、フロアの全体が見渡せる位置にある岩本部長の机へと向かった。彼と話をする為だ。


 ねずみ小僧から警察、マスコミへ、そしてまたしても大輔の元へと届いた、二通目の犯行予告の件について。


「おっ来たな。待ってたよ」

 岩本部長は大きな二重の目で大輔をみてにやっと笑った。軽くパーマのかかった短髪。二年前までは髪を少し茶色に染めていた。高そうな生地の真っ白いYシャツ。ネクタイはしていない。ボタンを上から二つ外している。


 椅子には紺色のこれまた高そうなジャケットが、にもかかわらず無造作にかけられている。この人はこれでもだいぶ老けたのだがそれでも五十近くにはちょっと見えない。


「セントジュリエットが来週の福島で走るのは間違いなさそうだ」

 岩本部長は机に両肘を突き、顔の前で両手を組んで、笑みと苦味の交じり合った不敵な表情を見せた。


「じゃ、やっぱりそれですかね。ねずみ小僧が狙うって宣言している、聖澤家の宝ってのは」

 二人は近くの空いている椅子を岩本の机の前にがらがらと音を立てて持ってきた。大輔は深く背もたれに寄りかかって座った。


「だと思うね」

「ふうん、去年の秋天を勝っている馬が福島記念かあ」

 真田は椅子に逆向きに座り背もたれを両手で包み込み、そして小さく椅子を前後にゆすりながら少し考え込む。


 岩本が言葉を加える。

「福島は、聖澤のお膝元だからな。そこで復帰戦を走って、それから有馬記念で有終の美を飾るつもりなんだろ」

「ああ、今年で引退ってのも本当なんですね」


 セントジュリエット。五歳牝馬。これまでGIレースを計三勝している。桜花賞と安田記念。それから昨年秋の天皇賞。今年の春の重賞戦線では不調で、納得の行く結果を残せていなかった。


 引退後に繁殖牝馬としてやっていく為のレース実績はもう十分すぎるほど残していたが、もう一花咲かせたいらしい。こういう引き際は、調教師の考えもあるが、最後は馬主の意志が尊重される。


 セントジュリエットクラスの一流馬なら通常、秋はまずステップレースの毎日王冠かオールカマーでひと叩きして、それからGIレースである秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念に臨むものだ。牝馬の場合はエリザベス女王杯という選択肢もある。


 福島記念はGⅢのレースである。真田が疑問に感じたように、普通ここに出てくるのはトップクラスには歯がたちそうもない二線級の馬たちだ。


 セントジュリエットは夏の間、生まれ故郷の聖澤牧場に放牧に出され、休養していたがそれでも体調が回復しなかったのだろう。


 九月のステップレースには間に合わず、秋の天皇賞にぶっつけ本番で出走すると言う憶測も流れたが、それも結局実現はしなかった。


 ようやく回復の兆しが見えた。何とか一年の最後を締めくくるグランプリレース、有馬記念に万全の調子で出走したい。そのための準備として選んだレースが十一月中旬に福島競馬場で行われる、福島記念、という訳だ。少なくとも周囲からみればそういう状況に見える。


「古橋くん、これ単勝が二倍切っちゃうね」

「どうかな。七ヶ月ぶりのレースだし、それに福島記念はハンデ戦だからなあ」

 大輔も真田も競馬は好きなので、つい馬券の心配をしてしまう。GI三勝馬が福島記念に出てきた場合、一体何キロ背負わされるのだろう。


 サラブレッドは背負う重量が一キロ増えるたびに、百メートルの走行タイムが0.3秒遅くなると言われている。実力は飛び抜けているし、昔みたく六十キロを越えるようなハンデになることはないはずだが、そう簡単には行かないような気がする。


 聖澤家は東北の名家だ。地元の政治、経済に明治時代の頃からとんでもなく多大な影響を与え続けている。


 たとえ県知事であっても、何か新しいことを始めるときには聖澤にお伺いを立ててからでなければとてもではないが上手く立ち行かない。

 

 なにせ具体的に知事の手足となって働くものが、残らず聖澤家のバックアップによってこれまで代々生計を立てて来たものたちなのだ。


その聖澤家が手がけているいくつもの事業のひとつである聖澤牧場は、東北の馬産地の中ではひときわ輝く歴史と実績を持つ。


 相馬地方に古来より伝わってきた日本産馬の血統に、明治以降欧米より入ってきた優秀なサラブレッドを掛け合わせて、何代もかけて独自の強力な母系を作り上げてきた。


 その最高傑作がセントジュリエットだ。

 

 十一月二十一日、聖澤の宝をいただく。


 ねずみ小僧の犯行予告にあったこの意味は、やはりセントジュリエットを奪うという意味に捉えるのが自然なのだろう。

 十一月二十一日、彼女は福島の地で復帰戦を走ることになる。


「レース班には明日、俺から話すよ」

「助かります。部長」

 大輔は頭を下げる。

「ああ気にすんな。ちゃんと言っておいてやる。うちの問題児二人が気まぐれで馬に興味持って取材に行きたがっているってな。なんならそのままレース班であずかってくれていい、とも言おうかな」

「いやいや、もうちょっと波風立たないような言い方してくださいよ」

「本当のことをいうわけにいかないんだから、ある程度の軋轢は覚悟しろよ」

 岩本部長も全てを知っているわけではない。大輔が彼に話していないことはいくつもある。

 真田が口を尖らせて言葉を挟む。

「部長―、古橋くんはともかくわたしは問題児じゃないですよ」

「おいっ、どの口が言ってんだよ」

 大輔はためいきをついた。彼にとって事態は混乱の一途をたどっていた。しかし、自分が次になすべきことはとりあえず定まった。そこに何が待っているのかは分からないが、大輔と真田は福島へと向かう。

 日程の話をして大輔たちが部長の机を離れる時、岩本は二人の背中に向けて言った。

「それにしても、聖澤、か。やっぱ財前の件と関係があるんだろうな」

 大輔はなにも答えなかった。

 真田は振り向きかけたが、そのまま歩いていった。

 そんな二人を岩本は少しの間眺めていた。

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