第8話 作戦会議
自分の席に戻り、大輔は少しパソコンをいじって二、三の細かい雑務を片付けた。
たいしたことはやっていないのだが思ったよりも手間取り、時間はその間も着実に流れ続けていた。その間に部長と次長が帰宅して、もう残っているのは当直とほんの数名になった。
ふと壁の時計を見る。三秒前、二、一、〇。はい、本日の終電いってしまいました。
これで横浜の自宅には帰れなくなった。こうなった以上近くのカプセルホテルでも泊まることになる。いつものことだがやはりこの瞬間は疲れがどっとでる。でもまあ、そうと決まってしまえば、もうあせることもない。
大輔はメタリックシルバーの携帯電話を取り出して通話履歴から番号を選択した。妻の琴美はすぐに電話に出た。
「もしもし?」
「ああ俺だ。今日帰れないわ」
「うん分かった。着替えはまだ足りてるっけ?」
「んー、ええと、大丈夫だな確か」
パンツを三日間替えないことを、大丈夫の範疇に収められるのだとすれば、大丈夫だ。
妻は、ご苦労様、お休みなさい、の後に「そうだ大輔。直行がね、来週、友達と旅行に行きたいって言っているのよ。まあ別にいいかなと思っているんだけどね。ねえ、わたしたち三人で最近どこにも行ってないよね。どこかにいきたいね」と言葉をつづけた。
「落ち着いたら休みをとってどっかにいこうな、琴美」
大輔は電話を切った。ねずみ小僧の件が落ち着いたら、という意味だったが、彼女はそれを知らない。
それから大輔はもうしばらくパソコンのキーボードを叩いていた。いつも一日の仕事の最後には、自分で管理しているスケジュール表の更新をして帰るのが日課だった。
明日の午前中はプロ野球の二軍の練習を取材に行き、午後からは神宮球場で今日と同じ、ヤクルトと阪神の試合に張り付くことになっている。明日もきっと忙しいだろう。だが今日の仕事はこれで終わった。
「なあ真田」
パソコンの電源を落としながら、自分の右側にそびえる山に向かって話しかける。
「ん?」
「ちょっと二人で作戦会議していこうぜ」
「馬券の?」
「事件のだよ」
真田の残った仕事の区切りがつくのを少し待ってから、大輔はバッグに着替えを詰めこんで真田と一緒に社を出た。明日彼女は休みの日なので、遅くなっても平気だ。
「やあ、こりゃ結構寒いわ」
真田はパーカーのポケットに両手を入れ、肩をすぼめた。
新橋駅の方角へと向かう道の途中。すれちがう人たちの九割は酒の入ったサラリーマンだ。そして残りの一割はいまの大輔たちと同じ、遅くまで仕事をしていて終電に乗りそびれてしまい、開き直ってこれから心行くまで酔っ払ってしまおうと目論むものたちだ。
「福島は冷えるだろうな」
大輔も真田も関東の生まれで、誰だってそうだろうが寒いのは苦手だ。
「去年行った仙台の野球場も寒かったよねえ」
「あのときは試合自体も寒かったからな」
スポーツの競技場というものは、とくにスタンドだと障害物もなく風をまともに受けるので、ただ街中を歩くよりもずっと寒い。想像しているものよりも一段階上の寒さに対応できる暖かい服装を準備していく必要がある。
歩いていくに連れ、高まる酒酔い人密度。新橋の飲み屋街へと到着して、二人はいつも飲みに来ている店へと入った。
岩本部長などは有楽町周辺が主戦場だが、大輔はこっちの雰囲気が好きだ。五百円で中ジョッキのビールに枝豆と、魚肉ソーセージを軽く焼いたものがついてくるような立ち飲み屋だって好きだし、この店のように安くて賑やかで、それでいて結構雰囲気のいい店と言うのも探せばあるのだ。
「かんぱーい。古橋くん、今日もお疲れ様!」
薄明かりの下、壁で区切られた四人掛けのテーブルに向かい合って座った大輔と真田は中ジョッキで乾杯した。
「ひゃあ、うまい!」真田が全開の笑み。
「うん、今日も俺は強く生きた」
大輔が達観の笑み。それから小さな溜息。
「こら古橋くん、なんか中途半端だぞ。一日のハードな仕事終わりにビール飲んだ時くらい、もっと何者にも許されたような気分になっていいものなのだよ」
「溜息つくと幸せが逃げるってか」
「向こうは逃げないよ。自分の問題」
お通しの良く味の染みた風呂吹き大根を割り箸で刻んでいると、注文した料理が運ばれてきた。
スモークサーモンのカルパッチョと、きのこと生ハムのピザ。少し遅れてやってきたのは、一口サイズの里芋のコロッケ。大輔も真田も、夕食は各々の現場で適当にしか食べていないので、この店で本気の食事をするつもりである。
濃紺の制服をきたバイトの店員たちがせわしなく動き回る。午前一時近くにもかかわらず客は入っていた。大輔たちのようにこの店が今夜の一軒目という人が多いようだ。
でも中には、さんざん酔っ払って、すでに限界を超えているように見受けられる人もいた。
大輔たちの座っている斜め向かいのテーブルにはスーツを着たサラリーマンの二人組。年が離れているようなので上司と部下かもしれない。
頭の薄い年配の方が熱心に話しているが、そこそこ高そうなスーツを着た若い方は既に半分眠っていて、頷いているのだか、うつらうつらとしているのか判別がつかない。
もれ聞こえてきた年配サラリーマンの話は「坂本竜馬だって、徳川家康だって、最初からなにもかも上手くいったわけじゃないんだ。みんな初めはゼロだったんだ」という熱き人生訓だった。うん、それからどうした、と大輔がそちらは見ずに耳だけ集中して続きを待っていた。
「分かるかあ? 田中角栄だって、クレオパトラだって最初からなにもかも上手くいったわけじゃないんだ。ゼロだったんだ」
クレオパトラがどんな苦労したか知っているとは、なかなか博識なおやじさんだ。おい若いの、なかなかいい上司じゃないか。ちゃんと聞いてろよ。
そこで話は一拍途絶えた。更に続きを待つ。年配のサラリーマンは焼酎のお湯割りを一口飲んで上体をひと揺らぎさせて、再び話し出した。
「坂本竜馬もだし、徳川家康だってそうだよ。最初から」
「針の壊れたレコードか!」
真田が我慢できずに叫んだ。
この店は、午前三時までやっているので、ゆっくりできる。
切り分けたピザにタバスコを振りまきながら少し顔の赤らんできた真田が尋ねる。
「サラブレッドを盗むって、旗よりも更に大変だよね。セントジュリエットは体重が四百六十キロあるんでしょ? そんなでかい生き物をねずみ小僧はどうするつもりなのかな」
「自分の所有物にするのが、やつの目的ではないからな」
夏にあった東京ドームでのチャンピオンフラッグ盗難事件。旗が燃やされて、阪神が逆転勝利したあの夜から二日後、各マスコミに、ねずみ小僧から再びFAXが送られてきた。
そこにはあの黄色い頭巾を頭にまいたクモ男が、両手で自慢げにチャンピオンフラッグを掲げている写真があった。
その下にはこう書かれていた。
『本物の旗は大事に預かっています。けれどあまり手元に長く置いていても仕方がないので、機を見てこの旗の価値を理解してくれる方に譲ることを考えています』
ねずみ小僧と名乗る犯人は、本物のチャンピオンンフラッグを高い値で買ってくれる者に売りつけるつもりなのだ。しかし、そんなものを買うバカが果たしているだろうか?
いくらでもいるだろうな。
そのとき大輔はそう思った。警察もそう考えた。
警察によって、緑色の旗には三百万円の懸賞金が掛けられた。彼らにだって意地がある。この上更に『無事お買い上げいただきました』のような報告を大々的にされたのでたまったものではない。
それから更に二日後の早朝、茨城県つくば市の外れにある小さな老人介護施設で働く荒田さん(四十五歳男性)が門前の掃除をする為に竹箒を持って玄関を開けたところ、そこには鮮やかな紫の色紙に包まれた大きな箱が、ピンク色のリボンを巻かれて置いてあった。
驚く荒田さん。箱に近づくと手紙がはさんである事に気付く。
そこにはこう書かれていた。
『おかしいですよね?
こんなものを手に入れるために、優勝できる野球チームを作り上げるために、いったいどれほどのお金が動いているのか。
そしてこんなものが盗まれたからと言って、いったいどれほどの人間がせわしなくかけずりまわっているのか。
そのお金と労力を十分の一でもこっちに振り分けてくれたら、と思ったことはありませんか?
この程度のことしか僕にはできませんが、少しでも施設の運営の助けになればと願っています。
どうか幸せな余生を送らせてあげてください。
その資格が十分にある人たちに,
ねずみ小僧より』
箱の中にはチャンピオンフラッグが、丁寧に折りたたまれて入っていた。その日の夜のニュースで各局が老人介護施設に懸賞金が贈られることが報じた。
ねずみ小僧の手紙の内容も、警察はできれば隠したかったようなのだがマスコミだってプロなので、抜かりなくその文面を入手して報じた。
景気の悪いニュースや、人間が信用できなくなるような事件が続いていた中で、義賊ねずみ小僧の贈り物は、一日一日をどうにか暮らしている日本中の人々の気持ちを明るくさせた。
「めでたしめでたし、だな」
二杯目のウーロンハイを空けながら大輔がつまらなそうに呟く。
「それを知ったとき、直くんは機嫌悪かったんでしょ?」
「ああ、悪かったねえ」
大輔はタバコに火をつけた。
「あ、わたしにも一本頂戴」
真田はもらいタバコ派だ。ライターを借りると自分で火を点けてぷかあと美味そうにけむりを深く吸い込んだ。
真田には、全てを話してある。大輔が知っていることの全てを。けれど自分がちゃんと事態を把握出来ているのかと問われると、大輔にも完璧な自信があるわけではない。
事態の本当の中心にいるのは大輔の一人息子の直行だった。あくまでも大輔は、その近いところで、身を潜めながら傍観しているに過ぎなかった。
始まりはあの犯行予告だった。警察と各マスコミに送られた犯行予告。それは関係がないはずの大輔のもとにも届き、直行にも届いた。直行に届いたものにはほかとは違う文面が付け足されていた。それは挑戦状のようにも見えた。
大輔がそれを見たのは、自宅でホッチキスが見つからなくて、直行の机の引き出しを開けさせてもらったとき、たまたまそこにあったからだ。子供の部屋をむやみに漁るような真似はしたくないので分からないが、ねずみ小僧から直行へはあの後も何かしらのコンタクトが恐らくあったのだろう。
ただの中学生である直行は、自分の力で世間を騒がすねずみ小僧の企みを止めようとした。東京ドームではそれは叶わなかったが、二度目の犯行予告が世に出たいまも、どうやら再び挑もうとしている。
直行が友達と旅行に行きたがっている、妻はそう言っていた。『聖澤の宝』を守るために、恐らく福島に行こうとしているのだろう。
いつだったか直行が夜中まで帰ってこなかったことがあったと琴美から聞いた。琴美に電話で連絡はあって、友達の家に数人で集まり勉強をすると言っていたそうだ。
直行も中学二年生だ。そういう友達づきあいだって当然あるだろうし、自分の息子の言うことを安易に疑ったりはしたくなかったが、世間に知られていないなにかがその日あったのかもしれなかった。
「糸井さんの娘の件は、気がすすまねえな」
「そっとしておいてあげたいよね。でもわたしたちがやらないと、もっと下劣な人たちが彼女を巻き込むことになるかもしれないもの」
「俺たちは下劣じゃないと言えるのかな?」
「それは分からないわ」
真田の目に悲しげな表情が浮かび、彼女はグラスに残っていた赤ワインをくいっと飲み干した。
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