第9話 隠ぺい事件
五年前のこと。
都内の所轄署に勤務していた警察官が殺人事件を起こした。
遺体が発見されたのは、まだ桜の花が散り残り、町中が花びら色の風に彩られている季節のこと。場所は分倍河原の鉄橋の下で、死後三日が経過した状態だった。
捜査を開始した警察は、早々に犯人の目星をつけていたが、当時刑事部長だった財前誠一はこれを組織的に隠蔽しようとした。
そして糸井晴信。彼は財前の部下で、当時は刑事部係長。事件を他殺ではなく偶発的な事故として処理しようとした、隠蔽の直接的な実行者であったと言われている。
殺人を犯した警察官は彼の同僚だった。
ひどい騒ぎが巻き起こった。
公職の隠蔽体質が問題となることは過去にも度々あったが、捜査が進むにつれ、これが最大級のものであることが明るみとなった。
警察内部の相当な大人数を巻き込んでの隠蔽が行われていたことが分かり、これは国家の根源に関わる問題であるとして国会に警視庁総監が召還され追及が行われた。
警察の謝罪は毎日のように行われたものの、一方でこれはあくまでも個人の誤った判断による隠蔽犯罪であり、警察機関は健全に機能しているとの主張を繰り返した。
警視庁総監の首は飛び、糸井晴信が免職となったニュースも流れた。事件に関する報道はやがて減っていったが、財前誠一も当然もう警察にはいなくて、法的な罰を受けたものだと人々は認識していた。
真田は当時社会部担当のカメラマンだった。正式なアポイントを取ってのインタビューや、逃げ回る事件関係者を急襲しての取材にたびたび同行して、財前にも糸井にも直接会ったことがあるという。
クモ男がバックネットから垂れ幕を下ろし、そこに『財前誠一ハ必ズ滅ブ』と書かれていたのを見たとき、人々の、そして真田の記憶の底からその名は再び揺り起こされた。
五年前あれほどのスキャンダルの中心にいた財前が実は今も警察の職についていて、それどころか副総監として順調な出世を遂げていることは、これをきっかけとしてクローズアップされることになる。
こんな筋の通らない話がどうしてまかり通り、そして今まで特に叩かれることもなくいたのか。
事件当時、財前は刑事部長の職は免じられて、かなり長い間自宅謹慎となっていた。しかしその後、ほとぼりがようやく冷めたころに彼は三笠新聞と並ぶ全国紙である大和新聞へと天下りのような形で籍を移していた。
もっと年のいった警察OBが、新聞社や証券、建設業界に天下りすることは昔からあることだったが、まだ四十代で、しかも日本中に知れ渡っている問題を起こした人間が若隠居の如く新聞社の相談役に収まっていたことはどう見ても異常だった。
ただ大輔にも多少身に覚えがあることだが、マスコミが自分に都合の悪いことを他にばれないように隠すその技術というのは、他の業界の追随を許さない優れたものなのだ。だからその中に閉じこもって守ってもらうというのは確かに非常に有効な手だった。
そして昨年、財前は警視庁に復帰して、まるで事件や天下りなどなかったかのように出世街道に舞い戻り、副総監の職に就いていたのだった。
警視庁上層部の人事というのは当然広く公表されるものだが、財前の名前は前任の副総監との引継ぎをしている兼任状態なのでというよく分からない理由で伏せられていた。
そのよく分からない状態が、一年以上続いていた。
パッシングは今も収まってないが、警察はあれはもう過去の事件であるとしてのらりくらりとかわし続けている。
財前誠一はこの数ヶ月、姿を公の場に一切現していない。
「そして事件のもう一人の重要人物、糸井晴信も東京ドームの事件直後から姿を消した」
大輔は記憶を辿るように言葉を紡いだ。
「糸井さんは警察を辞めた後、天下りとは全然縁のない小さな工場で事務の仕事をしていた。まわりはもちろん事件の事は知っていたが、穏やかな人柄の糸井さんはそれなりにうまくやっていたようだ。ねずみ小僧の事件のあと、彼の身辺は再び騒がしくなり職場に迷惑が及ぶことも多少あったけど、そこの社長さんはそれでも、自分のところの大事な社員で仕事ぶりもまじめな糸井さんを守れるだけ守ろうとするつもりだった。しかし彼は姿を消した」
真田はテーブルに肘をついて横を向いたままで大輔の言葉を聞いている。白い小指には飾り気のない銀の指輪が光っていた。
五年前隠蔽しようとした殺人事件。その被害者は聖澤家当主、聖澤庄助だった。
ねずみ小僧の第二の犯行予告があったあと、大輔は東京に来ていた聖澤家の人間と接触した。大輔は、自分はスポーツ部に属しているが、事情があってこの事件を調べていることを説明した。
いまさら蒸し返されたくないのは誰しも一緒で、無礼は承知の上だが話を聞かせてもらえないだろうか、と聖澤家への訪問を希望する大輔。相手はその日は態度保留とし、翌日向こうから大輔に連絡があった。
その内容は大輔が福島へ来ることを許可するものだったが、相手は一つ条件をつけた。それは糸井元刑事の一人娘、糸井麻織を福島に一緒に連れてくるということだった。
「聖澤家の人たちは、糸井さんにいい感情をもっているわけがないもの。そこに娘を連れて行ったらなにかしら起こるっていうのは簡単に想像がつくよね」
「その俺と東京で会った人は、悪いようにはしないと言ってくれていた。当主を亡くし、事実が葬り去られようとしたことに対しての傷は癒えきってはいないけど、あの事件に皆が区切りをつけるためにむしろ協力してほしいといっていた。しかし言葉の額面通りに受け取るつもりはないし、糸井さんの娘に嫌な思いをさせるのは御免だった」
だから大輔はあきらめるつもりでいた。関係者に接触できないのでは自分にできることはごく限られてしまうだろうが、それでも福島に向かうつもりだった。
「でもその後、糸井さんの奥さんから古橋くんに、娘を連れて行ってくれないかとお願いされた」
「家が近所なんだよな。面識はなかったけど近くにあの糸井元刑事の自宅があることは知っていた。それで、連絡をもらった俺は、家を訪ねた」
糸井さんの自宅に聖澤の現当主から直接連絡があったのだ。
連絡先はもちろん大輔が教えたのではない。事件の関係者の個人情報は絶対に秘密にしなければならない。しかし今なお地方において古代の豪族のように振舞う聖澤にとって、その気になれば調べることはたやすかった。
「思ってるよりもなんかすごそうね。東北の殿様」
現当主は言ったそうだ。どうか自分たちを信頼してほしい。少なくともあなたたち母と娘は自分と同じ被害者だと思っている、と。その声は九月の湖の水面に小石を落とした波紋のように心に染み入り、言葉の端々から感じられる細やかなこころづかいに、母親は電話の主を信用することにした。
マオリさんはその日自宅にいなかったが、既に母から話して、当主の意向通り一人で向かうことを彼女も承諾したという。
「糸井さんの奥さん。おとなしいけど笑顔が感じいい人でさ。俺、深々と頭下げられちゃったよ。娘をよろしくお願いしますって」
「古橋くんも信用してもらえたんだね。責任重大じゃん」
「ああ、そうだな」
閉店の時間が近くなり、店員がラストオーダーを聞きにきた。既に締めの梅茶漬け(絶品)も食べ終わっていた二人は、なにも追加せず店を出た。支払いはいつも割り勘だ。
「ああ涼しい!」
しこたま飲んだ真田は夜風を浴びてご機嫌だ。彼女は酒が強いほうだが、その高い上限を飛び越えるほど飲んでしまうのが常で、今夜もそうだった。
「おい真田、危ないって。お前まっすぐ歩けてないぞ」
そういう大輔も蛇行していて、気がつくと電柱が眼前に迫っていて、危うくぶつかりそうになった。
「うおっと」
「惜しい!」
「惜しくねえよ!」
二人とも声量が大きい。この時間の新橋はさすがに人通りが少ないが、そこここに飲んだ帰りのサラリーマンがふらふらと歩いている。
通りには距離をおいて並ぶ信号機が黄色信号で点滅していて、それは人がいなくなって初めて分かるこの町の呼吸のように思えた。
大輔が地下道への階段を覗くと、階段のその途中で器用なかたちで寝込んでいるスーツにコートのおじさんがいた。その隣にはOLと思しき連れの女性が、階段に座って、途方に暮れている。女性も同じくだいぶ酔っているようで「起きろお、起きろお」と力ないパンチを男の頭に浴びせ続けていた。
「もう少しで地上に出れたのにな」
「連れがいるんだし大丈夫でしょ。道端で寝てても、身ぐるみはがれたりしないんだから、日本はまだまだ平和だよね」
二人の間で少し言葉が途切れる。不安定な歩みの自分のスニーカーを見ながら真田が囁いた。
「古橋くんがこの事件に熱心なのはどうして? 直くんの為? 糸井さんの家族の為? それとも新聞記者としての使命を感じているから?」
コートのポケットに両手をつっこんで歩いていた大輔は小さく笑って、それから答えた。
「誰にも言うなよ。家族にも言ったことないんだ。多分、正確には伝わらないから。俺がやることは、仕事に限らずなにもかもは、全部自分の為だよ。例外は一つもない」
「それは確かに言わない方がいいかもね。ふふ、わたしいいこと聞いちゃった」
ふいに真田の足元が大きくぐらついた。大輔が支えなければ派手に転んでいるところだ。
「サンキュー、古橋くん」
真田は頬を大輔の右腕に埋めたままでささやいた。
「わたしの家に泊まっていきなよ」
「頼むわ」
顔を上げて柔らかく真田は微笑んだ。
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