第10話 今はもう見ることのできない青空
それからそのまま寄り添うようなかたちで二人は深夜の駅前をのたのたと歩いた。
そしてタクシーを捕まえて、ここから二十分ほどの真田のマンションへと向かった。
車中では二人とも何も話さなかった。
真田は目を閉じているが眠ってはいないようだ。
時折目を開けて窓の向こうを流れる東京の町並みを眺めて、それから体の向きを変えてまた目を閉じた。真田が向きを変えるたびに大輔の体と触れたり、離れたりした。
大輔も窓の外を見ていたが景色はその目に映ってはいなかった。さっきの真田の問いと、それに対する自分の答えを思い出す。
自分の為だよなあ、やっぱり。普段はそういう話になったら、もちろんもっと当たり障りのないことを言うが、つい本音を言ってしまった。
家族を含めて他人の益になるようなことを、大輔だって今までの人生で色々してきたが、それは廻りまわって自分に帰ってくるのをどこかで期待してのことだった。
そうでない人間というのがいるのだろうか。人は皆、自分が、自分の望む場所へといつかたどり着きたいが為に日々を生きているのではないのだろうか。
それともこんな自分でも、いつか決定的な決断を下さなければならないときがやってきてしまったそのときには、自分の身を厭わない、今の自分がみたらこいつ馬鹿だなと思うような振る舞いが出来るものなのだろうか。
ねずみ小僧。その姿を見ているのはいまのところ自分と直行だけのようだ。東京ドームの屋根の上に悠然と立っていた少年。彼は失われた義を取り戻すのが自分の目的だといった。それは、自分に何かが返ってくることを期待しない無償の行為なのか。
直行はなんのためにこの騒ぎに首を突っ込んでいるのだろう。
世間の人間は、ねずみ小僧の事件を不景気の底で喘ぐ日本に現れたヒーローの物語として捉えはじめている。そんななか警察以外では直行だけがそのヒーローの行く手を阻もうとしている。
自分の息子を駆り立てている理由は分からなかった。もし自分が完全な部外者であれば、単純に、ねずみ小僧を応援していただろう。
直行とはしばらくちゃんと話していない。もともと大輔がこんな仕事をしているのですれ違うことが多かったし、直行も中学に入ってからは剣道部が忙しいようで、琴美がこぼしていたとおり、家族でどこかに出かけるなどということはとんとご無沙汰だった。
直行が苦しんでいるのならば手を差し伸べるつもりではいたが、できればこれ以上関わらないでほしいというのが大輔の本音だった。
ここ数年の大輔にはこれといった悩み事がなかった。
若い時はそりゃもう不安なことが色々あった。仕事のこと、恋人のこと。常に二つ三つの事柄について平行して悩んでいたものだ。年を取って、そんな状態から抜け出すことの出来た今の大輔のことを、人は順調な人生と呼ぶのかもしれない。
だから自分でもよく分からないのだ。自分の胸の中に、常に白い霧のように渦巻くこの思いを。
おかしいではないか。こんなはずではなかったのに。苦しみから抜け出せば、その先にはもっと晴れ渡る青空が広がっているはずだったのに。それは大輔がまだ少年のころ、確かに毎日見ていた、そこにあった景色だった。
大輔は小学生の時に野球を始めて、それなりに活躍した。
中学に入っても当然のように野球を続け、二年生でレギュラーになることができた。ポジションはサード、打順は三番。先輩を差し置いてチームの中心選手だった。
しかし、三年生になった大輔は肩を痛めてしまい、中学の間は騙し騙し続けていたものの、高校での野球はあきらめざるをえなかった。
そのかわり高校からは空手を始めて野球の無念を振り払うようにひたすら稽古を重ねた。上達するに従って空手が面白くなった大輔は大学でも空手を続けて、全国大会へ出場したこともあった。
中学のときの野球部は強豪だったので、チームメイトの何人かはセレクションを受けて強豪私立の野球部へと進んだ。大輔はそんな彼らを、身の引き裂かれそうな嫉妬に駆られて見ていたが、結局彼らの中で、甲子園の地を踏むほどに大成したものはなく、最終的にスポーツで一番実績を残すことができたのは皮肉にもどうやら大輔のようだった。
だから彼の青春はそんなに恥じるようなものではなかったのだが、大輔の中にはそれでもやっぱり野球で甲子園を目指してみたかったという想いがかなり後まで残った。いやもしかすると今だって消えてはいないのかもしれない。
そういえばちょっと前に見た夢で大輔はプロ野球のオールスター戦に出場していた。
年は実際と同じ三十七歳。長年地味ながらプロ野球選手としてやってきた夢の中の大輔は、選手生活の晩年に、初めてのオールスターに選出されたのだった。そういう設定だった。
大輔はなんの疑いも持たずに、『ああ、もうこれでいつ引退しても悔いはないなあ』などと思いながらサードの守備位置から満員のスタンドを眺めていた。夢から覚めてから、早く取材に行かなければならないのに、かなり長い間ぼうっとしてしまったものだ。
「古橋くん、起きて」
真田の声。
「あれ、俺寝てた?」
「寝てたよう」
マンションについた。真田が暗証番号を押すと自動ドアが開き、中に入ってエレベーターに乗り込む。静かに昇っていくエレベーターの壁にもたれながら大輔は頭が鈍く痛むのを感じていた。
「真田俺さ、子供の頃、野球選手になりたかったんだ」
「そんなこと前に言ってたね」
「なれなかったけど、でもほかの事をいろいろ自分なりにやってきて、失ったものもあったけど手に入れたものもあってまあそれなりの人生だと思っているんだよ」
「いいことじゃない」
「野球のことだけじゃなくて、なんでもそんな感じだった。本当に目指すところにはたどり着けなくても、てっぺんではなくても二番目か三番目の何かを手に入れることができた。誰しもがそういうものなんだろうと自分を納得させて、今では本心から納得しているつもりでいた。でも、でもさ、そんなふうに思っている自分が嫌なんだよ、俺」
うつむいていた真田は顔を上げて、首を僅かに傾げて大輔の横顔を見つめる。その目は水平線の向こうに消えていく船を見送るように静かな光をたたえていた。
「何かを手に入れれば、成長すれば、その分幸せになれるものだと思っていた。でも最近分からないんだ。自分は何かを手に入れたのか、そうじゃなくて実は失ってしまったのかが分からないんだ。道路を車で走っていて、他の車に轢かれた動物の死体を見つけると、若い頃は、もう一日中気になって仕方がなかった。動物も哀れだったし、轢いてしまった運転手もきっと今頃心を痛めているだろうと思うといたたまれなくなった。でもいまでは、そういうの見ても、別に平気なんだよ、特になんとも思わずに通り過ぎてしまうんだよ」
エレベーターのドアが開いて大輔の話をさえぎった。
また二人の間に無言の時が流れ、真田は大輔の前を歩いていった。彼女の足取りは鈍かったがもう揺らいではいなかった。
七階の部屋の前についた。真田がキーロックのカバーを開けて、さっきと同じ四桁の数字を入力すると、電子音と、カギが開く音がした。
真田がドアを開く。中から明るい光がもれた。
「ママお帰り!」
小さな男の子がこんな夜中にも関わらず目をきらきらさせて二人を出迎えた。そして真田に向かってまるで体当たりでもするような勢いで駆け寄る。
「こら祐樹、あんたなんで起きてんのよお!」
そういいながらも彼女は自分の息子を嬉しそうに抱きとめた。
「おかえりなさい。あら、古橋さんじゃないですか、いらっしゃい」
リビングのほうから真田のお母さんが歩いてきた。
大輔は軽く会釈した。
「こんな時間にどうもすみません。また家に帰りそびれてしまって。泊めていただいて宜しいでしょうか?」
「ええ構いませんよ。いつもお仕事大変ですね」
娘によく似た笑顔。
「祐樹、さっきまで寝てたのに急に目を覚まして、わたしまでたたき起こされちゃってねえ。この子はなんであんたが帰ってくる時間が分かるんだろね?」
それを聞いた真田は廊下に膝をついて「息子よ!」と言ってもう一度、青いパジャマ姿の祐樹を抱きしめた。祐樹も「ママよ!」と言って応えた。
「鈴、お風呂沸いてるけど」
「明日の朝でいいわ。眠たい。古橋くん、入ったら?」
「いや、いいよ」
大輔ももう眠かった。明日の取材には平塚まで電車を乗り継いで行くので、八時にはこのマンションを出る必要がある。さすがにもう寝ておかないと。
真田は二年前に離婚していて、今はこのマンションで母と一人息子の祐樹との三人で暮らしている。マンションは真田が自分の稼ぎで買ったものだ。
元旦那とは別れてから一度も会っていないそうだ。祐樹の顔が見たいとも言わないらしい。込み入った話をあえて聞こうとは思わないが、なんでも向こうは既に再婚しているそうだ。まあ、人生色々ある。
「さ、寝よう祐樹」
「うん。ママ明日休み?」
「休みだよ、買い物行こうね」
「キンキュウヨビダシ、ないといいね」
「ほんとにね」
洗面所に行った真田を横目で見る大輔に、真田の母親が話しかけた。
「古橋さんは明日も仕事ですか?」
「ええ、まあ」
「また鈴がこんな時間まで付き合わせちゃったんじゃないですか? すみませんねえ」
「全然そんなことないですよ。同意の上です。そんじゃすみませんね。お世話になります」
「いいえ気にしないで下さい。すぐに準備しますわ。寝袋しかないですけど」
「寝袋しかないんですか?」
何で。
翌朝は真田の母が朝食を準備してくれて、恐縮しきりでいただいた。
夕べの、というか数時間前の酒のせいで少し胸焼けがしたが、梅干とわかめの味噌汁と、鮭の切り身がそんな彼を追い立てるでもなく、ほどほどのペースで体に染みこんでいってくれた。実に美味しかった。
玄関先で革靴を履いているときに寝室から真田が、上は濃いグレーのトレーナー、下は黄色いパジャマという格好でふらふらと出てきた。「古橋くんいってらっしゃーい」と枯れた声。
それからまた寝室に戻っていった。彼女のすっぴんは久々に見た。『三十四歳にしては』とか『子持ちにしては』とかの形容をつける必要なく、かわいいと思う。
大輔は、いってきます、と言いかけたが思い直し、「じゃ、また会社でな」と寝室のドアに向かって声をかけ、真田の母にお礼を言ってマンションを出た。
この時間だと満員電車に直撃してしまうが仕方がなかった。
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