第3話 二人の少年

 外は今夜も蒸し暑い。すぐに背中から汗が噴き出す。

 

 二人が向かう方角には赤いランプが何個か見える。パトカーが数台集まってきていた。制服を着た警官の姿が目に入る。腰の拳銃に手を掛けた状態のものもいた。


「おい、こっち来んな!」

 警官の一人が怒鳴る。大輔はそれを無視して、闇に浮かぶドームの白い巨大な屋根を見上げ、クモ男の姿を探す。

 

 そのうちに制服姿以外の人間が大輔と真田のほかにもわらわらと集まりだした。球場の中から面白がって出てきたものや、騒ぎを聞きつけた近隣の野次馬たちだった。


 警官たちはすばやくポールと立ち入り禁止のテープを張り巡らす。大輔たちもその範囲の外へと乱暴に追いやられてしまう。


 いてーな畜生。球場の中も騒ぎは続いているのだろうか。    

 

 試合が再開できるとしても、もうしばらくは時間が掛かるだろう。クモ男がそっちに再び姿を現すことはないと思うが。


 野次馬の数はますます増えてきていた。テレビカメラとレポーターの姿も見える。あたりに、警官や野次馬の怒声が響き渡る。


「大ちゃん、どうなってんのよこれー!」

 押し合いへしあいの中で斜め後ろから大輔の肩をつかんでそういう男がいた。茶色い短髪で痩せ型、グレーのシャツにふちが赤色の悪趣味なメガネを掛けている。


 大和新聞の記者、柏木だ。


 真田が声を出さずに口の動きだけで「うげっ」と言った。あからさまな嫌悪。大輔も柏木の顔を見ないで答える。


「知らんよ。まあ、こんなに騒ぎになっちまったら、服さえ着替えれば逃げやすいだろうな」

「ああ、もうここにはいないかもな。さっきの浮遊ショーとこのパニックでもそこそこの記事になるからいいけどよ。あとはこの騒ぎで多少のけが人が出ているはずだ。俺はそれを探して記事にする。田舎から今日の試合を楽しみにやってきた子供なんかがいいな」

 

 この男は、一言でも口を利けばもれなく人を嫌な気分にさせてくれる。

 

 世間の人が思い浮かべる業界人のマイナス部分をほうきで寄せ集めて服を着せたようなやつだ。立場を利用してプライベートで色々悪行を働いていると聞く。


 巷の世間知らずの女の子は、新聞記者に、芸能界へのつてなどというものはまず持ちえるはずが無いということもわからず、柏木の口車に乗せられてしまうらしい。


 こいつのやっていることを記者仲間では知らないものはいないが、柏木はそれを全く悪びれない強靭な神経の持ち主だ。もしくは神経そのものを持っていないのかもしれない。

 

 大輔はそれ以上柏木の隣にいたくなかったこともあって、その場を離れた。

「真田、お前は一応もうしばらくここを張っていてくれ」

 

 以前、真田はどこかの取材現場で柏木にセクハラ紛いの目にあったことがあると聞いたが残しておいても別に大丈夫だろう。まわりには人がたくさんいるし、その気になれば真田の方がはるかに腕っ節が強い。


 実際そのときも、もちろん柏木にも世間体があるから本当のことは言わないが、あの男は肩を脱臼して、数日腕を三角巾で吊っていた。


 現場を目指して走ってくる野次馬は後を絶たない。大輔は彼らに逆行する形で、東京ドームの周りを歩いてみた。すれ違う人たちがみんな嬉しそうな顔をしていて、それは僕を複雑な気持ちにさせた。


 さっきいた場所からだいぶ離れた正面入り口のあたりにくると大分静かになった。


 ここはビアガーデンになっていて普段は込み合っているが今はほとんど人がいない。皆バックスクリーン側に行ってしまっているのだろう。ドームに隣接した遊園地のジェットコースターが疾走する音が遠くに聞こえた。

 

 今夜は曇り空。それでも見上げると東京の空は白く光を放っている。この街が完全な闇に包まれることはない。

 

 そのとき東京ドームの屋根に人影が見えたような気がした。


 大輔は思う。やはりこっちが当たりだったのか。


 目を凝らす。確かに人がいる。着ているのは紫色の衣。時代劇に出てくる忍者が着ているものを、好みでアレンジしたようなやつ。


 頭には頭巾をかぶっているが、それはさっきまで東京ドームを混乱に陥れたクモ男のそれとは違って、色は紫だった。違う、こいつはクモ男ではない。体つきももう一回り細く見える。


 滑りやすいはずの白い屋根をその男は平然と歩いていく。靴に特殊なスパイクのようなものでも付いているのだろう。


 そのシルエット。歩き方。男というより、おそらく彼は少年だ。


 そして彼は下を振り返り、視線がそこで止まる。半身の姿勢で彼が見つめているのは大輔ではない。その視線の先、僕から百メートルほど離れたところには少年がもう一人いた。


 そのもう一人の少年はドームの上の少年を見上げている。走ってきたのだろう。まだ少し息が荒いようだ。


 ドームの屋根の上の少年は、やがて再び屋根を上り始めた。


 その足取りにはよどみがない。まるで今この場所の反対側で起きている騒ぎも、さっきまで球場の中で起きていた騒ぎも、意に介さないかのように。


 下からその様子を見ていたもう一人の少年は、追いかけようとしたのだろう、今いる場所からどちら側へ行けばいいのか、あたりを見回した。


 そのときに大輔のほうを見た。ほんの少し彼は動きが止まったが、すぐにきびすを返して、逆の方向へと走り出した。


 距離はあったが、彼には大輔が誰だか分かったはずだ。大輔のほうでは少年が誰だかはっきりと確認できたのだから。


 二人の少年は姿を消した。


 誰もいない。遠くに音は聞こえる。野次馬たちの怒鳴り声。遊園地の歓声。しかし大輔の周りには今、東京のど真ん中だというのに誰もいなくなっていた。後には一人のおっさんがまぬけに取り残された。


 けれど、間抜けには間抜けなりの役割というものがそれなりにあって、大輔はどうやらこれからしばらくその役割を果たすべく努める必要があるようだった。


 古橋大輔はこの日、傍観者としての最初の務めを無事果たした。


 それはあの二人の初めての対峙を見届けることだった。

犯行予告を出したのは、あのドームの上にいた紫頭巾の少年だ。


 そして彼を下から見上げていたもう一人の少年。学生服姿だった。


 上は白いワイシャツに小豆色のネクタイをゆるめに締めていた。そんな格好では補導される危険がそこここであったろうに、服装に無頓着な彼は結局その格好しか思い浮かばなかったのだろう。


 いかにもあいつらしい。


 マスコミより先に送られてきた最初の犯行予告は、あの学生服姿の少年の下へと送られてきた。


 ただその文章は、翌日大輔の勤める三笠新聞にも届いたものとは一部違っていた。大輔は両方を読み比べたので、それは確かだった。


 君が彼女に手を差し伸べることは意味の無いことであり、してはいけないことだと僕は思う。理解して欲しい。


 少年に宛てられた文章だけは、最後にそんな言葉で締められていた。少年はそれを読んでなんのことだか分からなかっただろう。大輔も分からなかった。


 大輔は少年が何か妙なことに巻き込まれようとしていることを案じ、彼にどういうふうにこのことを切り出そうかと思案していた。


 そしたら翌日、自分にも文章が届けられた。そして、他のマスコミ、警察関係に送られてきたファックスを取り寄せて確認した。


 最後のくだりが書かれていたのは大輔の一人息子、古橋直行に宛てた犯行予告にだけだった。


 大輔が一人でとたらたら歩いていると、向こうから真田が小走りでこちらに向かってくるのが見えた。


「よう、向こうはなにか動きがあったかい?」

「柏木のボケナスに飲みに誘われた。あとは特になし。まだ人で混雑しているけど、なんにも起こらないからみんな段々落ち着いてきたわ」


「やっぱり人ごみに紛れて逃げちまったのかな。中に戻るか。試合も再開しているだろ」

「うん、そだね」

 

 走り回ったのでずいぶん汗をかいた。

「もう柏木とどっかにビールでも飲みに行っちまおうかな」

「バカ」


「お前今日は傷害事件起こしていないだろうな」

「わたくし人に怪我をさせたことなど、生まれてこの方一度もございません」

「ああそうだろうともさ」

 緊張から解かれた二人は、ドームの中へと戻った。


 あとは事件の余韻の残る球場内の様子を目に焼き付けておいて、試合の顛末を見届けて、それから記者席に戻ってノートパソコンでこの試合の記事を疾風のごときスピードで書き上げなければならない。


 大輔たちは忙しいのだ。柏木と遊んであげている暇などどこにも無い。いや、柏木だって置かれた状況は同じはずなのだが、またどうせあいつはろくに談話も取らずに手抜き記事を全国紙にぬけぬけと載せるつもりなのだろう。


 古橋くん、こっちではなにもなかった?

 真田が尋ねた。


 ねずみ小僧がいたよ、と大輔は答えた。


 さて試合の顛末。四十分の中断の後、試合は再開された。


 観客たちはまだ落ち着かない。一旦外に出て行ったものも多く、スタンドは人の流れが慌しい。たくさんの警備員もスタンドを歩き回っていて、伝統の一戦の緊迫した好試合の雰囲気はまるで壊れてしまっていた。


 阪神の先頭打者はその隙をついた。左腕の投手の初球の甘い変化球を三塁側へセーフティバント。球場に歓声が戻る。巨人の三塁手は打球を素手で拾って送球したがセーフ。守備位置が僅かに深かった。


 八回で二点差。ノーアウトランナー一塁。続く打者は投球前から送りバントの構え。


 阪神は一点を取れる確率の高い作戦を選択した。消極的だと思うものもいるだろうが、リリーフ陣が強力だからこれが出来るのだ。一点が入ればもうこの試合はどうなるか分からない。


 キャッチャーが手短に指示を出し、巨人の内野陣はバントシフトを敷く。前進する三塁手。遊撃手は二塁ベースに近づく。


 一つ牽制球を投げた後、直球を高めに投じる。投球モーションと同時に一塁手も打者に向かってするするとダッシュ。プレッシャーを掛ける。絶対にフライを上げてはならない。


 打者はバットをボールに上から被せるようにバント。打球を転がすことができた。


 しかし弱い。よくよく転がらない。方向も投手のほぼ正面だ。


 この投手、フィールディングは良くない。ランナーの足は速い。


 なんとかバント成功かと思ったがキャッチャーが猛然と飛び出してボールを拾った。そして迷い無く二塁へとスローイング。


「うわ、いった」真田が短く呟く。うなりを上げてスタジアムを切り裂く白球。凄い強肩だが、高かった。


 飛び上がるショート一杯に伸ばしたグラブの先端を弾き、ボールはそれた。


 悲鳴が束になってドームの中を満たす。

 

 センターがすばやく転がるボールを抑えたので、三塁まで進むことはできなかった。しかしこれでノーアウト一二塁。阪神ファンの絶叫が響く。流れが変わった。


 ここでもう一発送りバントという手もあるだろうが打順からしてまずないだろう。

 迎える次の打者はさっき真田が談話をとったあのベテランスラッガーだ。


 彼はゆっくりゆっくりとバッターボックスの土を足で慣らして、バットを構えた。


 キャッチャーは無理をするべきではなかった。さっきのプレーが決まっていれば、試合の行方は九分九厘それで決しただろう。


 彼は果敢に阪神をノックアウトしにいったのだが。ミスしたことによって形勢がまったく変わってしまった。


 巨人の立場からすれば、二点リードしていた状況で、そんないちかばちかの勝負をするべきではなかったのだ。


 乾いた打球音。三球目の低い変化球を宮沢は打ち返した。センターが背走する。この日一番の歓声。ボールが描く軌道を四万人が見つめた。


 大輔は野球を見るとき、選手に手が届きそうなグラウンドに近い席の迫力ももちろん好きだが、二人が今いる高い位置からの眺めも好きだった。


 ここからだと選手が小さくしか見えないのはいた仕方がない。しかしそれ以上に外野へ球が飛んだ時の高い場所からだからこそ見ることが出来る放物線の美しさが大輔は好きだった。


 打球は伸びる。弾道が低いのでスタンドまでは無理だろうか。


 追いかけるセンターが振り返った。しかしまたバックスクリーンの方に向き直り疾走する。打球はセンターの予想以上に伸び続けていた。「行けー!」二人の隣の子供が飛び上がって叫んだ。歓声がさらに高まる。


 これで勝負の流れは完全にひっくりかえった。おそらくここから逆転して阪神が勝つだろう。人工芝の上で弾むボールを見ながら、大輔はこれから書く記事の構成を練り始めていた。

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