第2話 バックネットのクモ男

 大輔たちと、四万五千人の観衆の眼前で、そいつはバックネットをするする登っていった。

 

 黄色い忍者装束。巻いた垂れ幕らしきものを背負っている。それはまさしく野球ファンの記憶の中にあるあの姿と同じだった。


 頭巾に覆われた隙間から覗く目は妙に必死で、息も荒れてきているようだ。


 その表情をテレビ中継で見ている人たちからは笑いがこぼれているのではないだろうか。それらの点も、過去のクモ男と同じだった。


 背中には垂れ幕のほかに、茶色い大きなリュックを背負っていた。登山に使えそうなやつだ。そこは過去のそれと異なっている。


 1990年に現れたクモ男は、広島市民球場のバックネットを結構な高さまで登った後、垂れ幕を、書いてある文字がグラウンドから見えるように下ろした。


 そして手裏剣のようなものを巨人ベンチに向けて投げつけた。

 垂れ幕にはこう書かれていた。


『巨人は永遠に不ケツです

ファンをアザムクナ

悪ハ必ズ滅ビル』


 そしていま伝説の再現を目の当たりにして、バックネット裏の観客は面白がってクモ男を野次った。

「いいぞー、がんばれー」

「お前誰やねんっ」

「手裏剣投げろ、手裏剣」

 

 選手たちも笑って見ている。試合は八回の表、阪神の攻撃がこれから始まるところで止まっている。得点は3対1で巨人リードに変わっていた。阪神は二番手投手のまさかの乱調が痛かった。

 

 さて、どっちだろうな。大輔はクモ男の奮戦を眺める一方、チャンピオンフラッグにも注意を払っていた。


 このクモ男は、犯行予告とは無関係で、ねずみ小僧とやらがお膳立てしてくれたこの舞台で勝手にしゃしゃり出てきてしまった、お呼びでない馬鹿者なのか。

 

 それとも陽動作戦。


 相手が一人とは限らない。クモにみんなの注目が集まった隙に、ねずみが動く。


 警備している人間だって馬鹿ではないので、みんながみんな、クモ男に視線が釘付けになって、旗のことをすっかり忘れてしまうなどということはありえなかったが、この間に別のどこかで何かを仕掛けることは十分考えられた。


 下からの警備員たちの怒声に脅かされながらも、クモ男は十分な高さまで登った。


 そして、左手でネットをしっかりと掴んだままで、右手で、背負っていた垂れ幕を掴んだ。体の向きを変えようとしたときに、足が滑って、少し体勢を崩した。

 歓声が上がる。


「真田、写真撮らなくていいのか?」

「ここからの角度じゃ大した絵が撮れないよ。今は球場全体が見られる位置にいたほうがいいような気がする」

 

 真田は一応カメラを構えてはいたが、シャッターは切らずに、機体を指でとんとんと調子よく叩きながらあたりの様子を伺っていた。


 運動部での彼女の今のポジションは大輔と同じ記者だがカメラマンも兼任している。


 以前の真田は写真には自信があるのだが文章が苦手だった。


 表すべきもの輪郭は的確に捉えているのに、それを文章として起こすことがうまくできず、締め切りに追われながら四苦八苦していた。


 そして試行錯誤の末、要求されるレベルの文章を速やかに搾り出す為に彼女がたどり着いた方法が、写真を撮ってまず絵として、自分のイメージを掴んで、そのイメージを文章に変換するというものだった。

 

 選手にインタビューをする際も、よくパシャリ、パシャリとシャッターを切りながら質問をしている。


 他の人が取った編集前の何十枚もの写真をずらっと見渡して、それで文章を書けないものかというのも試してみたことがあったが、写真は自分でとらないとだめなようだ。


 恐らく自分で、ここが試合のポイントだ、と思いながらシャッターを切る行為が大事なのだと思う。


 彼女が記者になったばかりの頃はよく大輔が教育係として現場に同行したものだが、いまでは真田はすっかり独り立ちしている。今日は二人で行動しているが、それは犯行予告の件があるからだ。


 クモ男は、バックネットから滑り落ちそうになるのをなんとか持ちこたえた。体をグラウンドに向けた姿勢で一息ついて、気持ちを落ち着かせると、彼は垂れ幕を広げた。


『日本は永遠に不ケツです

国民をアザムクナ

悪ハ必ズ滅ビル

財前誠一ハ必ズ滅ビル

ねずみ小僧ガソレヲ成シ遂ゲル』


 東京ドームに翻った垂れ幕の文字は、オーロラスクリーンに映し出され、観客たちは全員がその文字を読み取った。そして今日のこの試合はテレビで全国中継されている。


 今、日本中のテレビで同じ映像が流れているはずだった。


 目的を果たしたであろうクモ男。しかし歴史が繰り返されるのであれば、彼はこの後、下で待ち構えている警備員に捕まり、袋叩きにされて、警察に御用となってそれでおしまいとなる。


 警備員は相当な数が集まっていて、クモ男がここから脱出するのは不可能に思えた。


 クモ男はリュックサックを開く。中から何かが飛び出した。飛び出したそれからは低いモーター音が響き、その音はスタンドにいた大輔たちの耳にも届いた。


 ラジコンヘリ。直径五十センチほどで迷彩色に塗られている。同じくらいのサイズのラジコンヘリはデパートのおもちゃ売り場に行けば数千円で手に入る。


 四万五千人のどよめきの中、ヘリは一直線にセンター方向、セ・リーグチャンピオンフラッグへと向かった。


 クモ男は、両手でネットをしっかり掴んだ状態でヘリの行方を見守っている。操縦しているのはこいつではない。


 どよめきが悲鳴へと変わった。突然、迷彩色のラジコンヘリは炎に包まれた。故障ではないようだ。恐らく表面に、油が塗ってあるのだろう。火の玉と化したヘリは旗を目指す。


 真田が叫ぶ。

「チャンピオンフラッグを燃やすつもりなんだわ!」

 

 盗むと燃やすとでは大分ちがう。犯人は燃やしてしまうことで自分の目的は果たした、旗は手に入れた、と言い張るつもりなのか?


 誰も為す術が無い。ヘリは旗に下から近づくとスピードを緩めた。その身を包む炎が旗に燃え移る。


 球場全体を包むどよめきは一層大きくなる。クモ男は、ネットにしがみついたまま、じっと燃えるチャンピオンフラッグを見つめていた。


 大輔はその光景を目にしながら、なぜかこんなときに、プロ野球選手って言うのは不思議な商売だよな、と思った。


 こんなにも大勢の人に囲まれた場所が仕事場で、こんなにも大勢の人間に期待されて、賞賛をあびて、失望される。


 このとき選手たちはどんな気持ちだったのだろう。彼らが求めるものは勝利という結果であって、旗はただのその証に過ぎなくはあるけども、それでも、それを燃やされて、汚されて、どんな想いがよぎっているのだろう。


 彼らの戦いを傍観しその姿を書き記すことを生業とする大輔は、グラウンドの選手たちの姿を見ていた。今このときの彼らの姿を目に焼き付けておくべきだと、なぜだか思った。阪神の若手選手がネクストバッターズサークルで、炎上する旗に背を背けるようにして、一回、二回と素振りを繰り返していた。


 犯行予告にあった言葉を思い出す。

 それが今のこの国の姿なのです。


 やがて旗は焼け落ち、ラジコンヘリも最後にはフラフラとバックスクリーンの足元へと落ちていった。

 警備員たちの怒声は一層大きくなって、クモ男を煽り立てる。


 もう既に火は消えたようだが、それでも球場の中の観客たちには混乱が見られ騒然とした雰囲気だ。


 騒動のフィナーレを飾るべく、クモ男はお縄につく覚悟を決めたのか、上から警備員を見つめる目には、達観すら感じられる。


 ざわめきの音量がそのとき高くなった。


 今度はなんだ? 大輔はドームの中を見回す。隣にいる真田も、観客が見ているその先の何かを探す。二人はほぼ同時にそれを見つけていた。


 白い飛行船。直径約六メートル。側面には広告が描かれている。イニングの合間に球場内を飛び回っているそれがこんなタイミングでどういうわけか浮かび上がっていた。

 それも三機同時に。


 東京ドームには年がら年中通っていて、この飛行船もそのたびに見ている大輔だったが、三機同時に飛び上がるというのは初めて見た。


 先刻、炎を見て興奮状態になっている観客たち。


 これが異常な状態であることは彼らにも分かっていて、呆然とそれを見上げている。


 三機の飛行船はゆっくりと進む。バックネットを目指して。


 そのうちの一つにはリフォーム会社の広告が描かれていた。あとの二つにもそれぞれ自動車メーカーと、頭痛薬の広告。


 TV中継は多分ここ数年なかったくらいの視聴率を叩き出していることだろう。それにこの映像は今夜のスポーツニュースや、明日のワイドショーで何度も流されるはずだ。広告を出している会社は喜んでいるのではないだろうか。


 大輔は球場内の目の届く範囲内を見回した。これだけの人数の中から、挙動が不審な人間を見つけるなどということはまず不可能だと分かっていたが、何とかしようと彼も懸命だった。


 飛行船の操作機が奪われたのか、もしくはいつのまにか操作に用いる電波のチャンネルがいじられていたのか分からないが、何者かが三機の飛行船を操っていることは間違いなかった。


 クモ男は相変わらずネットを両手でしっかり掴んだままだ。


 遂に飛行船がクモ男の手が届く所まで来た時、クモ男は垂れ幕の入っていたリュックの中から何か取り出した。それは登山に使うザイールだった。バックネットの下の警備員たちは、クモ男の意図に気付いて色めき立つ。クモ男は興奮する彼らをよそに、飛行船の船体部分にその手にしたザイールを片手で器用にそれぞれ結びつけた。


 そして黄色い忍者姿の肩口から出ている金具に、ザイールの片方を固着させる。


 クモ男はさほど大柄ではなかったがそれでも体重が六十キロ中盤程度はあるだろう。小型の飛行船一機ではとても支えられないが、三機が力を合わせれば彼の思惑は実現可能だった。


 クモ男の手と足がバックネットから離れる。客席からは今日一番のどよめき。


 三機の飛行船を従えてクモ男は東京ドームの中空で浮かんでいた。ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。

 

 センターの守備位置の真上あたりまで来た時、クモ男はまたもリュックに手を伸ばした。体は金具でしっかり結ばれているので、両手は今はフリーになっている。

 中から出てきたそれをクモ男は飛行船についているCCDカメラに向かってかざした。それこそがこの珍妙なショーのフィナーレを告げるものだった。


 緑色の旗。いま燃やされたはずのセントラルリーグチャンピオンフラッグ。


「あれが本物……。試合が始まる前に既にすりかえられてたってこと?」

 

 真田のいう見立ては恐らく当たっている。歓声の中自慢げに旗を四方に向けて見せ付けるクモ男。その様子はオーロラビジョンに映し出された。 


「一面の写真はここだね」

 すいっと手にしたカメラを持ち上げ、真田は一枚だけシャッターを切った。


 もし自分が銃でも持っていたのならば、飛行船を打ち落としてやりたい衝動に駆られていることだろう。


 だれも浮かんでいるクモ男に手出しができない。それどころか観客のどよめきは、賞賛のようにも聞こえる。人々は、まるでクモ男の勝利を望んでいるかのようだった。

 

 クモ男と三機の飛行船は、オーロラビジョンの横、レフト側の大きな広告看板のあたりにたどり着いた。するとクモ男はひょいと看板とドームの白天井のすきまに飛び移り、そして姿を消した。


 残された飛行船たちはその場に静止したまま動かなくなった。


「どこ行くの? 古橋くん」

「球場の外。やつが消えたあたりの構造は知らんけど、おそらく抜け道があるんだと思う」


 大輔は走り出した。そして回転ドアから球場の外へ出て大階段を駆け下りドームの裏側へと向かう。石畳の上を乾いた足音が響く。走りながら後ろを振り返ると、真田も追いかけてきている。あいつはその年齢の女性にしては、かなり足が速い。

 

 二人は走った。

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