風と雷と義賊ねずみ小僧

のんぴ

第一章 チャンピオンフラッグ強奪事件

第1話 東京ドーム

 球が高く舞い上がる。


 屋根に覆われたこの場所では、いくら焦がれようとも球は星へと届くことは叶わない。


 何万人もの人々の目が球に集まる。トランペットやメガホンを叩く騒々しい音の中で、やがて球はあきらめたように落ちてきて、キャッチャーミットへと収まった。


 この球場に初めてきたのは学生のときだった。


 野球を見るのは子供の頃から好きだったから、親に連れられて、後楽園球場や神宮球場、横浜スタジアムにはよく行った。初めて白い屋根に包まれたこの球場に来た時には違和感があったのを覚えている。


 周りのお客たちは、すわ新時代到来とはしゃいでいる人が多かったようだが。野球はやはり太陽の下で、星の下でやるのが自然に思えた。


 それから二十年以上のときが過ぎた。日本では五つのドーム球場が出来て、東京ドームはプロ野球球団が現在本拠地として使用している十二の球場の中でも古い部類に属するようになった。


 不思議なもので、出来たばかりの頃は未来未来した感じが鼻についたこの場所は、いつしか日本で一番古い歴史を持つチームに似つかわしい、情緒というか、味のようなものを纏い始めていた。

 

 恐らく今日、この試合で初めて野球を見に来た子供が少なからずいるだろうが、その子にとってこの白い屋根は何の違和感のないものであるのだと思う。


 オールスターゲーム明け、最初の巨人阪神戦は0対1で阪神リード、七回裏の巨人の攻撃を迎えていた。


 阪神はこの回まで無失点の好投を見せていた先発投手をあっさりと降板させた。その投手は故障上がりであったため、予定通りなのだと思う。そしてここからは阪神自慢の強力リリーフ陣が登場してくる。


 淡々と投球練習を行う外国人投手を横目に、古橋大輔は内野スタンド上段の通路を歩いていた。

 

 売店には大勢の観客が並んでいる。混雑した通路で、紙コップに入った生ビールをすすりながら歩く若者とぶつかりそうになって、お互いに軽く頭を下げる。


 今日は立見席もほぼ満員で、座布団代わりの新聞紙が隙間無く敷き詰められていた。


 巨人の打順は八番からだった。ネクストバッターズサイクルを見ると、代打が準備を始めている。巨人はいま、阪神とは対照的にリリーフ陣が不調だ。ここからのやりくりに監督は頭を痛めているはずだ。


 バックスクリーンに視線を移す。そこには巨人と阪神の球団旗と、巨人が昨年のセントラル・リーグを制した証である、チャンピオンフラッグがあった。


「古橋くん、ホームランの談話とれたよ」

 その女性はそういって小走りで駆け寄ってきた。


 濃い青のジーンズに薄手のGジャン、赤いスニーカーという動きやすい格好、黒髪のショートカットにつば付きの黒い帽子をつばを後ろに回してかぶっている。


 首からはデジタルの一眼レフ。手には保険のおばちゃんが年末にくれたキャラクターの入った小さな手帳。こんな安っぽい手帳で選手に取材しているのは業界広しといえども彼女くらいのものだろう。


 初めのころは、なんだこいつ、人をばかにしてんのか? といぶかしげな視線で見られたこともあったようだが、今ではこの子はそういう人だから、ということで選手の間でも受け入れられている。


「あのおっさん、今日はまともに喋ってくれたか?」

「まあ、なんとか。打ったのは内角高めのストレート。追い込まれていたからどのコースでも対応するつもりだったが、上手いことバットが出た、ってさ」


「ふうん、真田はそれ聞いてどう思った?」

「本当のことはひとつも言っていないなって思った。だからそういったよ。嘘ですよねって」

「ずいぶんと直球だな。そしたら?」

「がっはっはって大笑いしてタバコ吸いに行っちゃった」


 あの阪神のベテラン選手は豪快を装ってはいるが実は相当繊細な男だ。


 いい結果を残した後は、浮かれてその次のプレーが雑になってしまうのを嫌い、必ずタバコを一本吸って気持ちを落ち着かせる。一人きりになりたがる。


「もう少し踏み込んでみたかったけど仕方がないよね」

「ああ、そうだな」

 薄手のジャケットをはおっていた大輔はズボンのポケットに両手を突っ込んだままで肩をすぼめた


 あの選手は間違いなく内角高めに大ヤマを張っていた。読みが外れれば三振でも仕方がないという気持ちで。


 その読みはデータの地道な蓄積と長年の経験により弾き出されたもので、それを武器にして体力が衰えつつある彼は今年も変わらぬ好成績をここまで残すことができていた。


 どうしてそのコースに来ると判断できたかは彼の生活を支える生命線であり、新聞記者に易々と話すはずがなかった。


「戻り際にね、監督さんに言われたよ。旗をしっかり見張っていてくれよ。あれはこれからわしらがもらいに行くんだからって」

 

 クライマックスシリーズ進出も危ういくせによく言うよ。大輔はもう一度バックスクリーンを見た。緑色のチャンピオンフラッグは変わらずそこにあった。


 今のところ異常なしだ。そして満員の観客席を見渡す。近年は巨人戦の客入りは減る一方だが、さすがにこのカードだけは別格だ。もっとも今日は特別なのかもしれないが。


 八番打者は三球目のスライダーに詰まらされ、サードゴロ。歓声とため息が球場の中を覆い尽くした。ワンアウト。

 

 気付くと真田もチャンピオンフラッグを見つめていた。それから大きな瞳がくるくると動き、球場内の様子を探る。


 童顔で小柄な彼女がそうしていると、小動物という形容がピッタリだった。しかしそうはいっても真田鈴は今年で三十四歳、大輔の三つ下だ。


 セ・リーグチャンピオンフラッグの盗難予告の件は、普通紙でも記事になっていて、観客もみんな知っている。騒ぎを期待して球場に足を運んでいるものも中にはいるはずだ。


 選手たちには、もしもの時には冷静な行動をするよう通達がでていた。


 大輔たちマスコミ関係者の中にも、大変だ大変だと騒ぎ立ててはいるが、その実内心は面白いからむしろ盗まれろ、というスタンスのものが多数いた。


 大輔と真田はマスコミの中でも少し違う面倒な立場にいた。セントラルリーグコミッショナーと警察に、プリントアウトされた犯行予告が同時に届いたのは一週間前のことだったが、大輔たちはその数日前から情報を掴んでいたのだ。


 失われた「義」を取り戻す為には、人々に今のこの国の姿を分かりやすい形で教える必要があると僕は考えました。


 それで僕の意思が全て人に伝わるとは思っていないけれど、何人かにはそのかけらだけでも伝わると信じています。


 なので僕はまず旗を奪います。


 それがいまのこの国の姿なのです。


 犯行予告の出だしにはそう書いてあった。

そして、その後には今日の試合の日付が指定され、試合終了までにチャンピオンフラッグを盗むことが宣言されていた。


 こういった文章が、新聞社などにイタズラとして送られてくることは珍しくない。


 大輔の部署のFAXにも、何か大きな事件があった後などは特に、それに便乗した内容のものがちゃちなものからなかなか読ませるものまでかなりの数が届く。


 それを読んでいるといい気分転換になる。でも記事の締め切りが迫っている時間帯にそんなものがくると心からの殺意を覚えたりもする。


 この犯行予告がそれらいたずらとは別の類の、本当に警戒する必要があるものであるということは、それが新聞各社、テレビ局、警察にそれぞれあて先が名指しで、的確な担当者に向けて送られたものであったことで分かった。


 誰でも知っているようなアナウンサーや評論家ではなく、これを事件として取り扱わなければならない場合、実際に対応を指揮するキーマンとなる人間の名前がそこにあった。


 予告文の最後には、「これと同じものを次のところに送りました」と送り先が個人名まで記載されていた。


 送り主はマスコミ業界と、警察組織の内部に相当詳しいものであることが伺えた。詳しいものであるということを、見せ付けるのが目的の一つであることは明らかだった。


 そこまでの情報は一般人が知っているようなものではなかったのだ。


 犯行予告を送りつけられたものたちは、すぐに顔見知りのマスコミや警察関係者に連絡を取った。そして、確かに同じものが送られてきていることを確認した。


 新聞やテレビのニュースでこのことが報じられたのは、一日間を置いてからだった。各々、自社の人間に犯人がいる可能性を捨て切れなかった為、調べる時間が必要だったのだ。

 


 僕はねずみ小僧です。


 送り主は、マスコミと警察に送った犯行予告の文末で、そう名乗った。


 ところで三笠新聞への犯行予告だけは、運動部の大輔のところへと送られてきた。それもほかのところへと送られたもののようにFAXではなく。封筒に入れられた手紙としてだった。

 

 そして古橋大輔は前日に、ほぼ同じ文章をある場所で既に見ていた。


 突然ざわめきが起こった。

 大輔と真田は、声のする方向を見た。バックネットのあたりからだった。その光景を見て、真田が笑った。


「あはは、見てよ古橋くん。ねずみって言ってたのに、クモが出ちゃったよ」


 大輔くらいの年齢で、それなりに野球が好きだったものと昔話をすると、必ず誰しもが知っている出来事というものがいくつかある。

 

 バース掛布岡田のバックスクリーンへのホームラン三連発。

 川崎球場の最終戦ダブルヘッダーロッテ対近鉄。伝説の10・19。


 それから1990年。広島市民球場のバックネットに現れたクモ男。

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