第六章 女王の出陣
第26話 飲み足りない大人の部屋
「大ちゃん関西弁って好きか?」
福島記念壮行会の会場で後半、大輔は自分にからんでくる酔っ払いの相手に時間を費やされた。その酔っ払いは大和新聞の記者柏木だった。
「なんでお前がこんなところにいるんだよ」
「おかしなこというね、大ちゃん。それは君だって同じことじゃん。君が競馬の担当になったなんて話はきいてないけどなあ。まあ、あれだ。お互い色々あるってことだ」
ピンクのシャツを着た柏木は大輔にまとわりついて離れようとしない。真田は離れた場所で見ているだけで助けてくれない。
ときたま大輔と目が合い、目の表情だけで『負けるな古橋くん』『殴っていいよ古橋くん』とメッセージを送ってくるのみである。
柏木のことが生理的に受け付けないのだ。彼女が無理に介入すると傷害事件が発生するので仕方がない。
「そんで関西弁の件だけどさあ」
「好きとか嫌いとかそういうふうに考えたことないなあ」
「俺は嫌いなんだよ」
「ふうん。何? 関西弁の女に振られたことでもあるのか?」
「そういうわけじゃないんだが、あ、いやでもそういうことかもしれないな。別れた女房がさ」
「関西人か?」
「いや女房は北海道の生まれだった」
「じゃあ、なまらおっかなかったよぉ! てな感じか?」
「うまいなお前。でその女房との間に娘が一人いたんだよ。これが女房に似て美人でさあ。今頃もててんだろうなあ」
「会ってないのか?」
「会ってねえよ。会いてえなあ。でだ、娘が赤ん坊のころの話なんだけどな。言葉を覚え出したころ、俺一生懸命いろんな言葉教えたんだよ。パパ、ママ、に始まって、おはよう、ありがとう、いただきます。綺麗な言葉遣いで、あいさつがちゃんとできる女の子になってほしかったからさあ」
「ああ、それは分かる」
「なのに、おかしいんだよ、変なんだよ」
「何が?」
「娘がさ、ある日俺に向かって、『おとんおかえり』っていうんだよ。『おとんじゃないよ、パパだよ、パパ』っていったんだけどな。そんで次の日だ、スプーンでヨーグルト食べさせてやったらさ『おおきに』って言うんだよ。変だなと思って女房に聞いても、テレビでも見て覚えたんじゃないっていうだけでさ。それから俺がいくら教えても教えても『そやな』とか『なんでやねん』とかどんどん、どんどん関西弁を話すようになっちゃってさ」
「それで?」
大輔はオチは分かったが溜息まじりに尋ねた。
「女房が大阪の男と家を出てったのは、それから間もなくだったよ」
「災難だったな」
「あれは、きついぞ。あれで俺だいぶゆがんだぞ」
柏木はその後も大輔に付きまとって、非常に難儀した。
「わざとのような気がする」
部屋に戻って飲み直しているときに真田が指摘した。
大輔と真田は薄暗く照明を落とした部屋で、焼酎のお湯割りを飲みながら窓際の小さな円形のテーブルに座っていた。
直行はベッドに入って、音を消したテレビを眺めている。
「やっぱりあいつ、マオリちゃんに近づこうとしていたんだろうな」
大輔も同意見だった。彼女の素性を柏木は知っていたのだと思う。
「そんで、なにもなかった場合の明日の予定だけどさ。マオリちゃんは浄土平の天文台に連れてってあげて、真田たちは温泉、でいいかな。ここの風呂よりも立派な温泉が果たしてあるかは疑問だけど」
「いろんなお風呂に入れればそれでいいわよ。マオリちゃんは一人にしない方がいいよね」
「俺が付き添うよ」
大輔は直行のほうを向いた。
「明日の朝は、寝ててもいいけど?」
高田さんに言われたのだ。早朝に牧場を案内する、と。
「いや、別にいってもいい」
直行は明日土曜日の夕方には『友達』と合流することになっている。
そして大輔たちは日曜日の夕方に福島を発つ予定なので、途中で拾ってもらい、帰りの交通費も浮かすというのが計画だった。
大輔から何個か旅行とやらについて質問をぶつけてみたが、破綻のないそれらしい答えが返ってきた。友達の親戚が果樹園をやっていて、りんご狩りをさせてもらうのだという。
昼間のうちは、直行も福島競馬場でセントジュリエットのレースを大輔たちと観る。
友達のところにいかなくていいのかと聞いてみたが、せっかくだから競馬の方も見て見たいから、と答えるので大輔はそれ以上追及しなかった。
「そうか、じゃあ起こすよ。早いからな、もう寝ろ」
直行は言葉は発せず眉をしかめてうなずいた。一つのしぐさで『分かった』と『うるせえ』を同時に表現するとは器用なやつだ。
「しかしあれだな、直行。こんな家族旅行みたいのは久し振りだよな。こういうのんびりした感じ、悪くないよ」
「何言ってんだよ」
直行はそういうと不機嫌そうにあっちを向いてしまった。真田が小声で大輔をたしなめた。
「今の言い方したら直くんはそりゃ怒るよ。そのくらいわかるでしょ」
家族旅行はまずかった。そうではないのだから。
一番それを望んでいる人間がこの場にはいないし、代わりにいるのは他人であり、しかも女性である真田だ。
家で一人留守を守る琴美にはさっき電話を入れた。夕食は近所のラーメン屋で済ませたといっていた。
琴美は主婦が一人でラーメン屋にいくことにも特に抵抗を持たない種類の人間だった。
大輔の失言で真田も多少機嫌を損ねたようだったので、話題を変えた。
「そういや、真田。こないだの飲み会で知り合った男とは会ってんのか」
「おととい会ったよ。来週も約束してる」
真田はにっこり笑う。
その笑みの意味するところは『ここでその話題のチョイスは悪くないよ、古橋くん』だった。どういたしまして。
「なかなか男前だったよな」
「んー、でも来週が最後になりそうかな。どうも薄くて浅いのよね」
「金、持ってるらしいじゃん」
「そうみたいね。ただねえ、そういう自分の長所をアピールしてくれるのは悪いことではないと思うんだけど、なんかその言い方のセンスが悪いのよ」
「自慢げな馬鹿に見えるってこと?」
「そう。古橋くんまた誰か紹介してよね」
そっぽを向いていた直行は、いつのまにかまたこっちを向いて、二人の話を聞いていた。
真田が直行に言った。
「結婚は二回もするつもりないんだけどね。彼氏くらいは欲しいわけよ」
「ふうん、そう」
「お金は足りてるから、そこをアピールされてもそんなにひびかないのよねえ。まあ、これから祐樹を育てるのにいっぱい必要なのは確かなんだけど、欲しいものは自分の稼ぎで大体買っちゃったし」
「でも真田さん。ここには並外れた金持ちが集まってるみたいだよ」
「それは確かにその通り。安心しなさい直くん。わたしにぬかりはないわ。さっきもメアドを三つほど入手に成功したもの。ものは試しってやつね」
「安心しました」
「いや、いいからお前もう寝ろって」
大輔はそのやり取りがおかしくなって直行に言った。
「しかし、俺が柏木に絡まれているあいだにメアドの収集してたとは。あ、でもそういや途中なんかぼうっとしてなかった? お前」
おや? と思ったのだ。その視線の先に誰がいたのかは分からなかったが、そのときの真田はいつもとはまるでちがう、随分と深刻な顔をしていた。
「そうだったかな? 良さげな人は何人かいたから、その都度ぼうっとしてたかも。はは」
その後、焼酎をもう二杯ずつ飲んで眠ることにした。
大きなベッドで斜めになって眠っている直行の寝顔を見て真田が「かわいいね、直くん」とささやいた。大輔は否定も肯定もしなかった。
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