第27話 牧場の朝
翌朝は五時半に起床した。幼い祐樹は寝かしておいた。
新聞記者の大輔と真田は変則的な生活に慣れているのでなんとか平気なのだが、直行とマオリにはきついようで、二人とも七割以上まぶたを閉じて、ほとんど視覚ではなく勘に頼って牧場への道を歩いていた。
今朝はとても冷える。昨晩は一時的にみぞれがふるほどだったのだから、そりゃそうだ。
各々一枚多く着込んでいる。マオリは、ピンクのダウンジャケットと、白い毛糸で編みこまれた帽子をかぶっていた。
町のある方向から太陽がのぼり、朝焼けが霜の降りている広大な敷地を神々しく染め上げた。
若駒たちが草を食み、遠くでは調教コースで現役の競走馬たちが砂を巻き上げて疾走している。
大輔たちのむかう先から今日のトレーニングを終えた馬が二頭、軽い足取りでこちらにやってきた。
立派な馬体からは湯気が立ち上り、乗っている人間とともにまばゆく輝く日輪を纏っていた。
馬上の彼らは大輔たち一行に気付くと手綱を引いて馬を止めた。
友三じいさんと鏡子だった。
「やっときたか怠け者め。こっちはもう一仕事終わったところだ」
「おはよう、マオリちゃん。初めまして、だね」
馬上の二人は息が弾んでいる。調教用のヘルメットをかぶり、腰にはムチを差していた。
「この子達を厩舎に戻しに行くの。一緒にこない?」
「この馬はレースの予定あるんですか?」
真田が鏡子に尋ねた。
馬を見つめる視線は馬券を検討するときのそれになっていた。本当はそういうことを競馬関係者に聞くのって誉められた行いではないんだけどな。
「来週の特別戦で使います。走ったことがない距離なので、やってみなければわからないですけどね」
「勝つぜ。間違いない。ここ一週間で見違えるようによくなった」
友三じいさんは威勢がいい。
厩舎へ向う途中、鏡子はマオリに色々と話しかけた。
昨晩の黄色いワンピースがかわいかったこと。学校のことや好きなテレビ番組のこと。
マオリは緊張しているようだが、それでもちゃんと受け答えをしている。すっかり目は覚めたようだ。
大輔は横に広がる牧草地と馬の親子を眺めながら「こいつらを置いて自分たちだけ東京にでるってのはやっぱり難しいんですかね」と言った。大輔にとって特に深い意味はなかったのだが、それが友三じいさんの逆鱗にふれてしまった。
「新聞屋、まだ寝ぼけとるのか」
「へ? いえ別に」
「じゃあ寝言を言うのをやめんか。不愉快じゃ!」
牧場中に声が響いた。鏡子がたしなめる。
「じいちゃん、馬が驚く」
それから彼女は大輔をじっと見た。年中外に出て馬の相手をしているはずなのに、どうしてこんなに肌が白いのか。
「あなた、古橋さんでしたっけ」
あ、こっちも怒っている。彼女の声の調子で大輔は直感した。
「古橋さん、生まれはどちらですか?」
「神奈川です」
「そう、神奈川から離れて暮らしたことは?」
「いや、学校も東京だったんで、通ってました」
「ちゃんと伝えなければ分からないようなので、そうします。わたしとじいちゃんはね、古橋さん。東京だから優れているに決まっているとおごり高ぶる人が嫌いです。そして、田舎だから劣っていてもしょうがないと卑屈になる人はもっと嫌い」
鏡子は馬からふわりと下りて友三じいさんが降りるのを手伝った。
手綱を引いて厩舎へと入っていく二人に、大輔たちはついていった。友三じいさんは厩舎の人たち一人ひとりに声を掛ける。鏡子も親しげに手を振る。それから彼女は大輔を振り返った。
「ここから北に少し行くと、宮城県との県境に阿津賀志山という場所があります。その地名を聞いたことは?」
「奥州合戦、ですね」
「あら、ご存知なんですね。嬉しい。わたしね、古橋さん。たまには東北の人がハッピーエンドになる歴史があってもいいとおもっているんです。奥州藤原氏みたいな目にあってばかりじゃ、悔しいじゃないですか」
奥州藤原氏。平安時代末期に東北で栄えた豪族。
強大な軍事力、経済力、そして中尊寺金色堂に代表される独自の文化を持っていた。
当時その拠点であった平泉は、京都に次ぐ日本で第二の大都市だったという。中央政権と協調の姿勢をとりつつ独自に外国との交流、貿易も行っていた。
マルコポーロがヨーロッパに伝えて、その後、日本のイメージとして長らく語り継がれた黄金の国ジパングとは、奥州藤原氏が栄えしころの平泉のことである。
しかし最後は源頼朝と後白河天皇の対立に源義経とともに巻き込まれる形で滅びた。
奥州藤原氏と鎌倉政権との間で行われた戦いが一一八九年の奥州合戦。その戦場となった場所が阿津賀志山だった。
奥州藤原氏は、さて力を十分蓄えたことだしそろそろ京都へ乗り出そうか、などとは考えはしなかった。
むしろ朝廷や源氏、平家といった中央の権力者たちと友好な関係を保とうと最後の最後まで努めた。
邪魔はしないからそっちはそっち、うちらはうちらで各々幸せに暮らさせてくれと最後まで願っていた。
奥州藤原氏の名を出した鏡子の考えていることが、少し分かったような気がした。大輔は昨日のパーティーで友三じいさんに怒鳴られていた男と同じことを言ってしまったようだ。
それは日本人は全員が全員東京に来たがっているものだという、優れたものはみな東京に集まるべきだという、勝手な前提のもとでの思慮の浅い発言だった。
「俺のさっきの言い草では、さぞかし減点されただろうな」
「ええ、そうですね。ところで古橋さん、アメリカがどうしてあれほど好き勝手に振舞えるかは分かってらっしゃる? それに引き換え、日本は先の大戦のときにどうして勝算のない戦いを自分から始めなければならなかったか分かってらっしゃる? 一体何が違ったのかしら?」
女王さまは、顔は笑っているがなかなか機嫌を直してくれない。大きな美しい瞳を挑戦的に輝かせて、大輔に質問を浴びせかけてくる。
「完全な自給自足ができるかどうか、でしょ。アメリカは、もし他の地球上の国が全て滅びてしまっても、アメリカ国内の資源で何でも作れるし、食糧供給もまかなえる」
鏡子が頷く。
「日本は、外国に頼らなければだめですよね。輸入が途絶えたら物も作る材料がない。食料も国民全部に行き渡らない。それにいまやケンカも自分ではできない」
「鎖国してたころはそんなことなかったのにな」
「まあ、そうですね。でもわたしは別に、この地に自分の幕府を作って国を閉じたいなどと考えているわけではないんです。ただ自分の生まれたこの地が、ここに住む人たちが大好きだから、自分たちの力で幸せに生きていけるようになりたいだけなんです。もっとも日本のいまの体制は随分前から傾いてはいますし、このさき形が変わっていくことは可能性がかなり高いと踏んでいますけどね」
厩舎の中はこれまた広大だった。左右に馬房があって、何十頭ものサラブレッドがそこから大きな顔を出している。マオリが感嘆の声を上げた。鏡子があたりの人々と馬たちを一望して、誇らしげに言った。
「これがわたしの奥州十七万騎」
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