第28話 武勇伝

 聖澤家の敷地内にある厩舎のなかで、マオリは馬の鼻をなでさせてもらっていた。


 彼女も、馬も、うれしそうだ。


 直行もマオリの横に近づいて、さわりはしないが馬を眺めている。彼が何か一言マオリに話しかけると、彼女は笑っていた。


 真田は、持参した一眼レフで馬たちの写真を撮っている。


 そこに少しの間いて、それから戻ろうかという時、鏡子はマオリに話しかけた。


「マオリちゃん、わたしあなたに聞きたいことがあるのよ」

「なんですか? 鏡子さん」


「あなたのお父さんの話を聞かせて欲しいの」

 マオリの顔が強張った。他のものたちも歩みを止めて二人を見た。


「糸井晴信さんが一体どんな人なのか、あなたがどう思っているのか、あなたの口から聞いておきたいの。それがここにきてもらった理由。その代わり、わたしも自分の父の話をするから。いまわたしがあの人のことについて考えていることをあなたに伝えるから。ね、帰っちゃうまでに何を話すか、お互いに考えておきましょ」


 マオリは「分かりました」と小さな声で返事はしたものの、屋敷までの帰り道、ずっとうつむいて考え込んでいた。


 さっきまでの笑顔がすっかり影を潜めてしまった。

 鏡子ももう声を掛けない。


 無理もないことだ。マオリはお互いの父親の問題について大きな負い目を感じていて、その思いはできることならばだれの目にも触れずに心の中にとどめておきたかったに決まっている。


 直行は、何度か後ろを歩く彼女を振り返ってみていたが、結局屋敷につくまでに言葉を掛けることはなかった。大人である大輔にだってなんと言ってあげるべきか迷っているのだ。それもいたし方がない。


「朝食の準備は出来ているのでどうぞ。わたしもシャワーを浴びてからご一緒させてください」


 ポニーテールをほどきながら、鏡子は自分の部屋へと戻っていった


 屋敷のロビーには記者風の男が二人いた。大輔も真田も彼らに見覚えはなかった。小さく頭を下げて、通り過ぎようとしたが向こうから声を掛けられた。


「あんまりちょろちょろしないでくれる? 三笠さん」

「ああ、すんません」

 

 大輔は、相手がそう思う気持ちも分からなくはないのではなかったので謝る姿勢を見せた。


 どこの新聞も競馬はスポーツ部門のなかでも独立した一部署として記事を作っているので、大輔と真田は 完全に部外者だ。


 真田も「失礼しまーす」と社交的な笑顔を見せてやり過ごそうとした。それなのにその二人は「なんだその態度」と大輔の前に立ちふさがった。


「態度、悪かったですかね?」


「それがあんたらの仕事のやりかたか?」

「何が? いやまじで」


「古橋くん、こいつらちょっとおかしいかも」

 

 そばで真田が耳打ちした。そうだな。こんな因縁のつけ方をする新聞記者なんていないよな。いくらなんでも。


「おい、いまおかしいっていったか?」

  記者風の男の一人が真田の言葉を聞きとがめた。


 彼女が答える前ににじりよった男は、大輔よりもひとまわり太い両腕で真田を突こうとした。


 マオリは悲鳴を上げた。


 直行は「おい!」と叫んでいた。


 大輔は特になにもしなかった。


 直行は父を、女性である同僚をかばいもしない薄情な男だとおもったかもしれない。しかし実際その必要はないのだ。


 男の体が上下逆さになった。

そして最高級の赤いカーペットに大きな音を立てて叩きつけられた。


 床に転がった男は大輔と目が合った。その開かれた目は大輔に、ねえ、これ何? と尋ねているようだった。


 それが一本背負いであることを教えてあげても良かったが、その前に男は意識を失ってしまった。


 残ったもう一人は顔がみるみる紅潮する。


 そいつが真田に向って一歩踏み出した瞬間、大輔はせっかくなので真田の前に割り込んだ。


 大輔の両手はコートのポケットに突っ込んだままだったが、そのままで彼はとん、と飛び上がり、右足で男の頭を豪快に蹴りつけた。


 男は大輔のけりをまともに喰らってしまい、五メートルほど吹っ飛んだ。


 大輔は片足で着地した。

 振り返ると、直行は近場にあった椅子を両手でもっていた。助けに入るつもりだったのだろう。その姿勢で数秒ぽかんとして大輔と真田を見ていた。


 悪いな、またの機会があればお前にも暴れてもらうから。


 マオリは顔が真っ青になっていた。


「久々に見たなあ、大輔キック。全然衰えてないじゃん」

 真田はそういって右肩をぐるぐる回している。


「いや、問題は明日あさってにこの身に残るダメージだから」


 屋敷の警備の人間を呼んで男二人を引き渡す。やってきた警備員は、妙に顔色の悪い男だった。大輔が状況を説明したのだが目をあわせようともしない。


「なんだあれ、大丈夫かな」

「ねえ、もういいから朝ごはんたべよ。こんな腹ごなしは必要ないくらい、わたしお腹へってんのよ」


「いやあ、すげえなあ、君ら」

 拍手が聞こえた先からは、大和新聞の柏木がにやにやしながらこっちに近づいてくる。


「三笠新聞の記者はさすがだよ、ほんと」


 柏木の声はずいぶんと大きかった。


 ロビーにはほかにも何人か昨日ここに泊まった客人たちがいて、みんなこっちを見ていたが、大輔は別に気にならない。


 真田も薄笑いを浮かべて、柏木を黙ってみているだけだ。


「きみ大ちゃんの息子さんだろ。親父さんと鈴ちゃんの伝説、聞いたことある?」

「柏木、いらんこというな」


「メジャーリーグに行ってる、ある日本人選手がさ、シーズンオフにつきあいのある新聞記者を集めて食事会やってくれたんだよ。俺も大ちゃんたちも呼ばれて行った」

 柏木は、大輔の言葉など無視して勝手に話し続ける。


「そのときにさ。あれは二次会だったかな。外国人の客が多い六本木のバーにその選手と何人かで行った。そのとき外国人の集団にからまれた。あとから聞いたら、レッドソックスファンで日本に住んでる連中のサークルだったらしい。ほら『関東猛虎会』みたいな、あんな感じの」


「十人くらいだったかなあ。古橋くん」

「あ、こら真田。お前まで」


「だってこんなやつににやにやしながら話されるの腹立つんだもの。直くん、あんたのとーちゃんは別に悪いことしたわけじゃないわよ。先に手を出してきたのは向こうだもん」


「どうだろうね。君らもだいぶ酔っ払ってたじゃん。で、とにかくこの二人、店の中で大乱闘始めちゃってねえ」


「そんでね。勝った」

 真田は開き直って得意げだ。


「勝ったって簡単に言うけどねえ。相手は馬鹿でかいアメリカ人十人だぜ。米軍基地の連中も数名混じってたんだろ? 死屍累々のなかファイティングポーズをとる二人の姿は現実の出来事とは思えなかったよ。店もぐちゃぐちゃに壊しちゃってさ。被害総額二百万円だっけ」


「もうちょっとかかった」

 大輔は遠い目をして呟いた。


「まじかよ。あの選手が色々とりなしてくれたんだろ、駄目じゃん迷惑掛けちゃ。それでさ息子さん。そのときからだよ。業界でこの二人が『三笠新聞の風神雷神』と呼ばれるようになったのは」


「わたしが風で、古橋くんが雷ね」

 真田はあくまでも得意げ。黙って聞いていた直行が口を開いた。


「母さんは、それ知ってんのか」

「知らないよ」


「どうして母さんにいわないんだよ。いっつもだ。そういえば、なんか怪我して帰ってきたことあったな。でもちょっともめただけって言ってたじゃん。そんなに大ごとだったのか、あれ」


 直行は、馬鹿じゃねえの、と吐き捨てるように言って、部屋の方に早足で去ってしまった。


「あーあ、怒っちゃったねえ、息子さん」

「うれしそうだな柏木。俺の息子が家を出て行っちまったらどうしてくれる」


 真田が付け加える。

「関西弁喋るようになってね」


 大輔たちはその場を去った。残された柏木がどんな顔をしていたのかは、見ていないので知らない。


 マオリは大輔たちについて歩いてきたが、うつむくその表情はさらに曇っている。


 大輔が彼女に声をかけた。

「こういう大人になったらいかんぞ。マオリちゃん」

 真田が笑う。

「いやあ、言われなくてもならんでしょう。普通は」


「あの」

 マオリは顔を上げた。


「さっきの二人が絡んできたのって、もしかしてわたしのせいですか?」


 まあ、多分そうだと思うが。


「それだけじゃないだろ。俺らは、別に誰に頼まれるでもなく勝手にこの件に首を突っ込んでいるんだ。そう仕向けられている気もするけど、そんなの無視しても構わないのに自分たちの意思でここにいるんだ。なにか起こるのは最初から分かっているよ。だからきみが気にする必要はない。ああ、そうだ。あとで、電話してみるけど、この天気なら今日はやってるんじゃないかなあ天文台」


「わたし、やっぱりそんなとこに行っている場合じゃないんじゃないですか?」


 真田がマオリの顔をじっと見て、珍しく真面目な口調で語りかけた。


「人は、自分の今日一日が良きものとなるように、待っているだけじゃなくて自分から行動する責務があるのよ。マオリちゃん」


 マオリは真田の目を見ながら少しの間とまどった表情でいたが、やがて頷き、そして笑った。


「それにしても、強いんですね。二人とも」


「風神雷神だもん」


 真田は自分のちからこぶをぽんと叩いた。

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