第29話 福島競馬場

 長井淳子と試合をして判定まで持ち込んだことがある、というのが真田鈴の自慢だった。


 その名を知っている人は、そういないと思う。


 女子柔道四十八キロ以下級の選手だった長井淳子は、その現役生活の期間が、谷亮子のそれとぴったり重なっている。


 谷という歴史に残る強大な壁に阻まれ、長井は一度もオリンピックに出場することなく、二十七歳で現役を退いている。しかし彼女はこの時代、紛れもなく、世界で二番目に強い選手だった。


 オリンピックの舞台でも全盛期の谷とまともな勝負ができた選手はほとんどなく、金メダルを巡るライバルと目されていたキューバのサボンですら、実際は相当の力量差があった。


 当時、谷が戦っていた相手は、人間ではなく、必ず金メダルを取らなければならないという重圧だった。


 長井はその谷亮子に対して、通算十度対戦して一回も勝つことが出来なかったが、常に接戦で、一本負けをくらったことは一度もなかった。


 その長井と戦って必死に食い下がったことがあるというのが、幼稚園のころから大学まで柔道をやっていた真田の最高到達点であり、限界だった。


 その後、祐樹を起こして、大きな白いテーブルを囲んでみんなで朝食を取った。


 直行はまだ不機嫌だったが、マオリは気を取り直して努めて明るく振舞い、隣に座る鏡子とずっとおしゃべりをしていた。


 いい子だ。それでこそ守り甲斐があるってもんだ。


「実際は、そんなにきらびやかでもないわよ。わたしの生活なんて。あ、でもGReeeeNには会ったかな」


「え! 顔見たんですか」

「あの人たちが郡山に住んでたころにね。かっこいいよ。あと韓流スターがお忍びで福島空港にくるときはばれないように手伝だったりすることもあるわ」


「きらびやかじゃん、それって」

 直行の言葉に鏡子は、へへ、と柔らかい、親しげな笑みを見せた。


 部屋に戻ってひと休みして、十時前には屋敷を出た。


 鏡子の運転手つきの車で一緒に送ってもらった。車はワンボックスのハイブリッド車で、随分と静かに走る車だった。


 鏡子は、白い品のいいブラウスに身を包み、化粧もちゃんと決めている。

首にはオパールのネックレス。尋常じゃなく美しい。


 素材がいいのは最初みたときから分かっていたが、本気を出せばこれほどとは。


 彼女がいうには、授業参観のときお母さんがちゃんとしたきれいな格好をしていないと子供が肩身の狭い思いをするでしょ、とのこと。


 手塩に育てた馬たちの晴れ舞台には相応の格好で臨みたいのだろう。


「鏡子さんは、リムジンみたいので行くんだと思ったよ」

「古橋さんは本当に発想が凡庸なのね。そりゃ持ってるけどさ、リムジン。わたしあれ偉そうであんまり好みじゃないの」


「ちなみに自分では何に乗ってんの」

「スカイライン。R32のGTR。速いわよ。わたし大好き」

 古いけど名車中の名車だ。いい趣味している。


「友三さんは別に行ったんだね」

「そう、リムジンにのって偉い人と談笑してってのはじいちゃんがやってくれるから助かるわ。わたしもそういうのに慣れなくちゃならないんだけどね。じいちゃんも別に好きでやっているわけではないのだから」


 彼女の父、聖澤庄助が五年前に亡くなってから、しばらくの間は隠居していた友三じいさんが戦線復帰する形で一族を引っ張ってきた。


 そして鏡子が大学を卒業するのを待って家督を継がせたが、若すぎる彼女を助ける為に、今も摂政のように支えているのだ。


「ところで『聖澤の宝』の件だけど、ース中に馬を盗むのはいくらなんでもありえないだろうな」

「チャンピオンフラッグのときと同じ手の可能性はないかしら? 事前にすりかわっているっていう」

 

 真田の問いかけに鏡子が頷いた。

「警察の方にも同じことを言われました。昨日の時点ではわたしがじかに、セントジュリエットに間違いないことを確認したわ」


「今日も、もう一度確認はしておくべきだろうな」

「レース前の馬に部外者が接触するのは元々違反行為ですから、警備が厳重なんですけどね」


 犯行予告には聖澤家を褒め称える言葉が初めに並んでいた。東北の雄その意気やよしと。


 しかし一方で、私腹を肥やすことは、この未曾有の不景気の中では好ましいことではない、とあった。


 今ちからを持つものがすべきことは、力なき民衆一人ひとりを支えることなのだ。そう書かれていた。


 右手に福島競馬場の大きな建物が見えてきた。


 来賓入り口から中にはいる。鏡子は首から下げる通行証を人数分渡した。これがあれば関係者席にも入れる。


「こっちです。警察とJRA職員立会いのもとで馬を見せてもらいます。古橋さんたちも来て大丈夫ですよ」

 緑の制服を着た職員に地下馬房に案内される。


 子供たちは上で待っているよう言われたのだが、直行が自分もみたいと言い出した。


「分かったわ。ね、構わないですよね」

 鏡子が職員にそうお願いして、子供たちも同行させてもらった。直行が礼を言った


「ありがとうございます。鏡子さん」

「いいのよ」


 馬房に着いた。白い柵で区切られていて、出番をまつ競走馬たちがこっちを見ている。


 馬にとってレースとは、走れといわれるから走っているだけで競っている感覚はない。


 だが経験を積んだ競走馬だと、調教の度合いとこの場所に連れてこられることによって、ああ、またあれをやるんだな、程度の認識はするものらしい。


 こんなところまで来るのも、GI馬を触れるほど間近で見るのも初めてだ。真田は馬たちを見ていまにも大声をあげそうな祐樹を懸命に制している。


 鏡子は、奥にいる立派な馬体の栗毛の馬の元にまっすぐ歩いていった。


「どうですか? 聖澤さん」

 職員が尋ねる。


「惚れ直しました」

「いや、そうでなくて」


「セントジュリエットよ。わたしが間違えるはずがない」

 彼女は流星の白斑があるセントジュリエットの顔を愛しそうに触れた。


 馬房を後にする。


「どうでした? 古橋さん。いい子でしょ、セントジュリエット」

 鏡子がたずねた。

「あんたに似てるな」


「あら、古橋さん。わたしあなたのことは減点してばっかりでしたけど、その発言でやっと得点を挙げましたね。どうもありがとう」


 大輔は別にお世辞で言ったわけではなく、本当にそう思ったのだ。


 セントジュリエットはその眼差しに精神の強さを感じさせ気品も併せ持つ、現役最強の名に恥じないすばらしい馬だった


「わたしは上に行って、じいちゃんと一緒に客人の相手をしています。あとはご自由に過ごしていてください。福島記念は一緒に見ましょう。それじゃ、うちの子たちを応援してあげてね」


 エスカレーターで昇っていく鏡子を見送った後、大輔たちは競馬場のなかを少し歩き回った。


「警備、多いな」

「たぶん私服の警官もいっぱい紛れてるんじゃないの。警察だって連敗するわけにいかないもの」


 大輔と真田が何度も行っている(仕事ではなく)東京競馬場に比べれば人は少ないが、それでも客席は程よく込み合っていた。


 客層はさまざまで、昔ながらの伝統的な装いの競馬親父もいれば、若いカップルや子供連れ、地元の学生の集団らしきものたちも多い。


 さて、どうしたものか。大輔たちはあたりを伺いながら、ガラス張りの二階席の人混みのあいだを歩いた。外の天気は快晴。昨晩の雨の影響もなく、良馬場だ。


「地下馬房にはがっちり警備がいた。何かやるとすれば人目につくパドックか、コースに出てからか。ねずみ小僧は東京ドームの事件とそのあとのことから考えると、地味にただ標的を盗み去るってことはしない気がするんだよな」


「目立つ方法を選ぶってことだよね。とりあえずさ、古橋くん」

「ん?」


「馬券買わない?」

 真田は窓ガラスの向うの芝コースで返し馬をしているサラブレッドたち見つめていた。その目は勝負師のそれだった。

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