第30話 みんなのKEIBA

 福島競馬場はパドックが二階にある。


  大輔たちが着いた時、第五レースに出走する馬たちが周回しているところだった。

芝二千メートル。


「メインの福島記念と同じ条件だな」

「じゃあ、色々情報の収集ができそうね」


 セントジュリエットに騎乗するのはベテランの中村騎手だ。昔から福島では好成績を残すことで有名で聖澤の馬にもよく乗っており、おかかえエース騎手のような立場にいる。


 中村騎手は逃げ馬の扱いに抜群に長けている。そしてセントジュリエットは逃げ馬だ。


「この第五レースでは、中村は差し馬に乗るのね」

 さっき買った競馬新聞を睨みながら、赤のサインペンを手に真田が呟く。


「一番人気だな。この馬には初騎乗だ」

 グリーンアスパラ。前走成績は二着。


「じゃあ、そいつを買っておくのが確実ってこと?」

パドックの柵にもたれながら、直行が聞いてきた。

「素人はそう考えるだろうな」


 丁度目の前をグリーンアスパラの巨体が横切っていく。馬と目があったりすると変に愛着が沸いて、ありえないような馬券を買ってしまうことがあるので注意が必要だ。


「玄人の親父は、そしたらどれ買うんだよ」

 いらただしげな直行をよそに、真田がマオリに尋ねる。

「どれが来ると思う?」


「まったくわかんないですけど、そうだなあ。あ、この馬って強いんですか?」

 マオリは『ミルキーウェイ』と書かれたゼッケンをつけている黒鹿毛の馬を指差した。天の川。


「五番人気ね。勝つ可能性はあるわ。機嫌も良さそうじゃないの。よし、買っておこう」


「それは甘いぞ真田。パドックの様子で結論付けているようでは駄目だ。これはあくまでも参考情報の一つとして捉えるべきだ」

 

 騎手が乗って、コースで返し馬をして、それで初めて準備万端。その日の馬の調子が見えてくるのだ。


「だから古橋くんは、いっつもレース開始直前になってあわてて買いに行くのよね。あなたはあなたで勝手になさい。わたしは自分の流儀でやらせてもらうだけだから」


「馬鹿め。馬だけに」

「うるさい」

「古橋さん。人格が少しおかしくなってませんか?」


 小学生に適切な指摘を受けながらも大輔はぎりぎりまで検討を続け、そして中村の騎乗するグリーンアスパラが今日はいまいちだという結論に達した。


 彼はアカイサクサカーという馬を軸に馬券を購入した。


 そしてその結果は、一着ミルキーウェイ、二着グリーンアスパラ、アカイサクサカーは九着だった。直行は憤慨した。


「いまので千円パーかよ。親父なにやってんだよ。俺はグリーンアスパラって言ったのに」

「うるさいな。あれだけ落ち着いてたのに、スタートで遅れるなんて誰が思うよ」

 直行も大輔も取り乱して、声のトーンが高くなっている。


「なんか、かっこ悪いですね」

「かっこ悪いよね。かっこ悪い親子がそこにいるね」

 女性陣の目は冷ややかだった。


「ミルキーウェイの単勝、十五倍ついたわ。やったね。ありがとうマオリちゃん!」

 

 そのあと一階のフードプラザで立ちながら食事をした。


「よし祐樹、探検にいくぞ」

 掻き揚げそばの汁を飲み干した直行は祐樹にそういってから、マオリのほうを向いて「来る?」と尋ねた。マオリは嬉しそうに頷いた。


「負けが込んでて機嫌が悪そうな人には近づくなよ」

「分かった」

 そして子供たちは大輔のそばから離れていった。おい。


 大輔は三人の背中を見送りながら呟いた。

「祐樹を連れてきたのは正解だったな。さすがだよ」

「でしょ」


「さて、俺らも探検するか」

「まって、次のレースの馬券、まだ買ってない」

「心の底から遊ぶのはやめてもらえないだろうか」


 二人は外の客席に出て、冷たい風に晒されながらコースの外ラチ近くを歩いてみた。


 時々ヘリコプターが、競馬場の上を飛んでいく。


 三笠新聞の競馬カメラマンがいたので挨拶しておいた。部長が、とりなしておいてくれたのだろう。思いのほか相手は好意的だった。


「俺も今度、野球の写真とかとってみてえなあ」

「借りは返すよ、きっと」


 第六レース。ダートコースの直線を馬たちが駆け抜けていく。真田はカメラに望遠レンズを装着してシャッターを切った。


「うーん、ナントプリンセス、駄目だったか」

「シュテンブラウンも駄目だ。前残りがあると思ったんだけどな」

 

 福島競馬場は最後の直線が短い。そのうえ開催終盤は芝が荒れていてラストスパートが決まりにくいので、先行馬が有利とされている。


 地下道へと戻っていくレースを終えた馬たちを見送る。


 大輔は考える。危険なポイントはどこだろうか? 


 一般人が馬に近づけるのは、パドック。


 しかし福島のパドックは二階の中庭にあって高い壁に囲まれているので、連れ去ろうと思ったら一番困難な場所だ。


 警備が手薄となるとレースコースの向こう側バックストレッチあたり。

 簡素な柵の向う側はすぐ一般道だ。


 真田はカメラのレンズを客席の上のほうに向けていた。写真を撮っているのではなく、望遠鏡代わりにして人間をチェックしているようだった。

 

 まただ。

 

 カメラの画面を覗く真田の目は物憂げで、深刻だった。


 まるで自分のこれからの人生に起こるすべての出来事をなにかの間違いで知ってしまった人のような致命的なものを大輔に感じさせた。


「真田」

 大輔は呼びかけた。真田は振り返る。


「どうした? いい男でもいたか」

 真田は笑顔を見せた。でもその瞳から哀しみの色は消えない。


「うん、いた」


 大輔はそのまま真田をしばらく見つめていた。真田も目をそらさずに見つめ返す。


 彼は何をいっていいのか分からない。真田は何かを言いたそうで、でもなにも言わない。


 大輔は、いまここで彼女の様子から何かを見出さなければきっと後悔するような気がしたが、時はその流れを止めてはくれなかった。


 二時頃に子供たちが合流した。エスカレーターで鏡子たちのいる来賓席に向う。


 途中、大輔の後ろでは直行とマオリが話しこんでいた。なんだかお互いすっかり打ち解けた口ぶりになっている。


 マオリは競走馬のぬいぐるみを持っていた。もしかすると直行が買ってあげたのかもしれない。


「分かった。『信号機座』って三ツ星のことだろ。オリオン座の」

「正解。でもそのくらいでいばらないでほしいわね。じゃあさ『たいよう座』はなんのことだか分かる?」


「でっかい太陽のことじゃないよね、もちろん」

「ええ、もちろん」


 考え込む直行をマオリはにやにやしながら眺めている。


「降参する?」

「ヒントくれよ、ヒント」

「負けを認めるのね」

「なんだよ負けって。そんなお前が勝手に決めた星座なんて、なんのヒントもなしに分かんないよ」


 お前って言った。直行以外のその場にいた者たちは、直行の発言についていろんなことを各々考えているようだったが、当人だけがかまわずにいる。


 直行の苦言はもっともだが、大輔には見当がついていた。しかし良く知っているな。

「あ」直行も気付いた。


「『たいよう』ってもしかして、大洋ホエールズのこと?」

「あったりー。ということはどういうことかな?」


 ぬいぐるみを左右に揺らしてマオリは楽し気に直行の答えを待っている。

「偉そうに。カシオペア座のことだろ」


 夜空に輝く巨大な『W』。大洋ホエールズの帽子のマークだ。横浜ベイスターズが、かつてそのチーム名を名乗っていたのはマオリと直行が生まれるより前の話なのだが、近所に帽子をかぶっているおじさんでもいて、見たことがあったのだろう。


 馬主席に着いた。

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