第31話 パドック

 五階の馬主席で友三じいさんが大きな声で大輔たちを出迎えた。


「来たな新聞屋。調子はどうだ。もうかってるか?」

 すでにそこそこ酒が入っているようだ。


「全然だめっすねえ」

「馬鹿が。今日はうちの馬が既に二勝しているではないか。何故買わない」


「セントなんとかって名前の馬は、どれも人気があるから買いづらいのよ。逆に」

 真田の声には元気が戻っていた。


 大輔も真田も、馬券の傾向として一発大穴狙いなのだ。人気馬をあえて捨てるので、何度も痛い目にあっている。でも懲りない。


 鏡子は三人の子供たちと話している。彼女も少し顔が赤らんでいる。


「マオリちゃん、セントジュリエットのぬいぐるみ買ってくれたんだ。大事にしてね」


 馬主席には、昨日の宴で見た顔も数名いるようだ。


 小豆色の制服を着た女性職員がかしこまって立っている。五階のここからだと、臨場感には欠けるがレース全体の状況はオーロラビジョンに頼らなくてもよく把握することができる。


 バックストレッチの様子も伺える。柵の外の一般道には、何台ものパトカーが赤いランプを灯らせて停まっていた。


 福島記念の出走馬がパドックに出てくるまではまだ少し時間があった。


「お二人とも、ここにずっといるんですか?」

 二階のパドックは吹き抜けになっていて、五階の馬主席からでも見ることができる。しかし少し遠い。


 大輔の問いに鏡子が答える。

「東京とかでのGⅠだとパドックに馬主が下りることがありますけど、福島ではやったことないですね、ここのパドックは少し小さめだから人間がいると馬の邪魔になってしまいますし」


「でもあなたがたなら、傍らに立っているくらいは許されるんじゃないですか?」


「新聞屋」

 友三じいさんが睨む。

「その場所が怪しいと踏んでいるのだな?」


「ええ、そうです」

「ふむ、お前の考えを言ってみろ」


「セントジュリエットの勝利を妨害するようななにかをすれば、それは紛れもなく『宝を奪う』ことにあたる。それがねずみ小僧の狙いではないかと仮定しました。パドック、そしてそこからコースをつなぐ地下道の移動。このとき守備が一番薄くなる。そばで守るべきです。あくまで素人の私見ですけどね」


「まあ、馬鹿なりに自分でそう考えたなら、それを通すしかないわな」


 友三じいさんは腕を組んで考え込む。


 大輔だって迷っていた。馬そのものを競馬場で盗むことはやはり不可能だというのが彼の結論だった。

 しかし東京ドームでねずみ小僧は、大輔が不可能と考えたことを成し遂げている。


「じいちゃん、やってみようよ」

 鏡子が口添えをしてくれて、話は決まった。子供たちはここに残していくことにする。


「じゃあ、親父たちは地下道を見張りに行くんだ?」

「ああ、そうだ」


「ふうん、分かった」

 直行はそれ以上なにも言わなかった。


 大輔は言外に『そっちは任せた』といわれたような気がした。


 時間になった。鏡子は持っていたワイングラスの中身を一気に飲み干した

「さあいきましょうか」


「あんた酒は強いの?」

 子供たちは残してエスカレーターで下りながら、大輔は鏡子に尋ねた。

「そうでもないわ。でも緊張しちゃって」


「俺もう馬券買っちゃったし聞いてもいいと思うんだけど、勝てそうなんですか? セントジュリエット」

「本当にわかりません。やってみなければ」

  

 鏡子は見たところ確かに、酒でも飲まなければやっていられないくらい緊張と不安に包まれているようだった。


 パドックでは今日一番の数の客がぐるりと取り囲んで、新聞を広げたりカメラを構えたりしている。


 ピンクの生地に、青い文字で『女王セントジュリエット』と書かれた横断幕が掛けられていた。


 パドックに立った大輔は吹き抜けを見上げた。上空にはまたヘリコプターが一台、通り過ぎていった。


 馬主席からはスーツやドレスを身に纏った人々たちがこちらを見下ろす姿が見えるが、直行とマオリと祐樹はそこにいなかった。


 直行よ。マオリと、祐樹を置いていくわけにはいかなかったのか。


 大輔たちの横を第十一レース、福島記念に出走する馬たちが通り過ぎていった。ガラスの向こうの待機室には鮮やかな勝負服に身を包んだ騎手たちが集まっている。


 黄色い帽子をかぶった中村騎手の姿もあった。


 十六頭の馬たちがパドックを回る。


 セントジュリエットは頭をしっかり立てて、視線は前方斜め下をじっと見据えている。落ち着いているようだ。


「良さそうじゃないか」大輔はそういったが、真田は、首を傾げていた。


「わたし去年の秋の天皇賞、テレビで見たんだけどね。そのときってこの馬、もう少し暴れていたような」


 鏡子の表情に苦いものが浮かぶ。痛いところを突かれたようだ。


 パドックで、馬が興奮して首をぶんぶん振ったり、後ろ足で蹴りを放ったりしている場合『状態が悪い、レースで実力を発揮できない』とみなされがちだが、世の中にはそんな調子が普通の馬だっているのだ。

 

 たとえば友三じいさんがおとなしくかしこまっていたら、誰もが具合が悪くなったと思うだろう。


 掲示板には出走馬の名前と馬体重の増減、各馬券のオッズが表示されている。


 五枠九番のセントジュリエットは前走(春の天皇賞)より2kg増。単勝オッズは現在1.7倍。その数字は大輔が掲示板を眺めていると、1.8倍に変わった。


 セントジュリエットが背負う斤量は57.5kg。一番軽い馬で51kgだ。


「とまーれー」


 号令がかかり騎手がそれぞれの馬に跨った。そして地下道にむかう。


 セントジュリエットは列の先頭を歩き、大輔たちもその横を行く。


 普通、馬場への入場は番号順なのだが、狭い地下道で前後をはさまれると嫌がる馬も中にはいて、騎手の判断でこんなふうに誘導馬よりもさらに前に入場させることがある。


「この子、馬のくせに群れるのが苦手なのよ」

 鏡子は母のような眼差しで、ともに歩く愛馬を見つめる。


 中村騎手は明るい男で、友三じいさんと談笑している。もちろん心底リラックスしているのではなく、馬に騎手の緊張がうつらないようにしているのだ。


「明日の夜、伺いますから、飲みましょうや」

「おお、いいぞ。レースの結果次第で用意する酒が変わってくるからそのつもりでな」


 通路には非常口が何個かあって、その横を通るたびに緊張が走ったが何も起きなかった。


 前方に出口が見える。コース上にまで姿を晒すわけには行かないので、大輔たちはここでセントジュリエットを見送った。


「ボンクラめ。何も起きなかったではないか」

「この俺が鋭く目を光らせていたから。手出しができなかったのかも知れませんね」

 大輔はとぼける。


「もう言ってもいいと思うんですけど」

 そのとき鏡子がつぶやいた。


「セントジュリエットは、今日のレースを最後に引退します」

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