第32話 福島記念出走

 大輔たちが野外の一階客席に戻った時には、全ての馬が返し馬を終えていた。


 セントジュリエットの単勝オッズは2.2倍まで増えている。パドックでの様子を『この馬らしくない』と判断した者は多いようだ。


 芝2000メートルのレースではスタンド側の一番端が待機地点だ。


「今日で引退? 有馬は使わないんですか?」

 大輔は尋ねる。


 選出確実な年末の有馬記念が大目標で、福島記念はその足慣らし。

それが世間の見立てだった。


 もしそうでないのならば、セントジュリエットクラスの馬からすればさほど大きなレースではないGⅢ福島記念に無理に走らせるよりも、おとなしく引退させた方が馬のためになるのではないだろうか?


「人間の我がままだ」

 友三じいさんが低い声で呟く。


 鏡子が言葉を継ぎ足した。

「競馬は、そもそもが人間の我がまま以外の何ものでもないんですけどね。セントジュリエットは完調ではありません。それでもあの子には最後にもう一回だけ故郷の福島で走って、その強さを一族のみんなに、わたしに、見せて欲しかったんです。父の死を乗り越える為に」


 ファンファーレが鳴り響く。馬はゲートに入り係の旗が振られた。


「でもそれはわたしの感傷的な我がまま。じいちゃんは最後まで反対していた。あの子にレースでなにかあったら、わたしも死にます」


 鏡子の瞳にはうっすら涙が滲んでいた。


「この後、引退発表するんですか? なかなかの大ニュースになりますね」


「ええ、まだ、わたしとじいちゃんしかこのことは知らないんですけど。レース後に発表させてもらいます。負けたとしても、サプライズ引退式を今日この場でやっちゃおうと思っているの。怒られるかもしれないけど、いいでしょ、そのくらい」


「お客は喜ぶだろうけど、JRAはさぞ迷惑するだろうな」

 力あるものの傲慢さがちらりと見えた。


 遠くから、ゲートの開く金属音がかすかに聞こえた。スタート。歓声が上がる。


 スタンド正面のオーロラビジョンに、スタートした馬たちが大写しになった。


「いかん、少し遅い!」

 友三じいさんが叫ぶ。スタートの早さでリードを奪うのが持ち味のセントジュリエット。しかし差がつかない。


 このレースには、典型的な逃げ馬がセントジュリエットのほかにもう一頭出走していた。


 一枠キタノヒゲダルマ。昨年の福島記念で二着に入線している有力馬だ。


 セントジュリエットの出走が決まり、一番苦々しい思いをしたのはこのキタノヒゲダルマの陣営だろう。


 逃げ馬は、スタートで先頭に立てなかった場合いい結果が出ないことが多い。事実セントジュリエットも、逃げに失敗して勝ったことは一度もない。


 そのキタノヒゲダルマが最内からとても鋭いスタートを見せた。


 キタノヒゲダルマとセントジュリエット。二頭の逃げ馬は馬体を近づけて争う。


 三番手以下との差が二馬身、三馬身と開いていく。前を行く二頭はどちらも退かない。


 キタノヒゲダルマに騎乗しているのは佐藤という思い切った競馬が持ち味の中堅どころだ。数秒の間に、二人の騎手は迅速で適切な判断を求められた。


 あくまで先頭にこだわるか。『二番手でも後続を大きく離していればそれは逃げているのとさほど差はない』と割り切って下がるか。


 鏡子の、退くな! 退いちゃ駄目! という悲鳴にも似た叫び声。


 それが聞こえたのだろうか。セントジュリエットは更に加速した。


 強引に先頭を奪うと、キタノヒゲダルマと二馬身、その後ろとは四馬身の差をつけて、一周目のゴール前を通過した。


 思惑通りの形を作ることができたセントジュリエット。しかし「脚を使いすぎたのでは?」大輔は呟いた。


 最初にあれほど飛ばしてしまって、果たして最後に粘る力は残っているのか。


 馬群は互いの距離を保ったまま第1コーナーから2コーナーへと向う。


 大輔が左を向くと、友三じいさんと鏡子が不安な表情でレースを見守っていた。


 右を向くと真田が、何故か余裕というか、なんとも微妙な表情でいる。大輔はその表情の意味するところを正確に読み解くことができた。


「お前、セントジュリエット買ってないな」


 何を買っているかは知らないが、恐らく彼女の望ましいレース展開になっているのだ。


「いや、だって、単勝2.2倍の馬なんて買えないよ」

「そういう問題か?」


 友三じいさんが大輔越しに真田のところを無言で見つめている。巨大な火山を思わせるような威圧感だった。


 その間に、バックストレッチを走るセントジュリエットと後続の差が少し縮んだ。


 1000メートルの通過タイムは58秒後半。最初に大きく飛ばした割にはそこまで早くない。


 騎手たちの思惑として、逃げるほうからすればなるたけゆっくり行って、余力を残して最後にふんばりたい。


 その逆に追い込むほうからすれば、前を行く馬にはかっ飛ばして疲れて果ててもらいたい。つまりこの状況は、中村騎手がこっそりとペースダウンしているのだ。


 柵の向うから警察官たちが見ている。ねずみ小僧もどこからか見ているのだろうか。しかし何も起きない。何も起きないでほしい。


 馬群は第三コーナーへ。何頭かが後ろからゆっくりと上がってくる。


 中村騎手が後ろを振り返った。

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