第25話 聖澤家当主
友三じいさんはむこうでまた誰かを怒鳴っている。
そうかと思うと真っ黒に日焼けしたつば付き帽子のおじさんと肩を叩いて笑い合ったりしている。感情の起伏が激しい人なのだろう。
会場の奥に大きな、一段高くなったステージがある。
マイクが設置されていて、たまにスーツをびしっと着込んだ人が挨拶をしている。
しかし誰も聞いていない。友三さんも聞いていない。そもそもマイクの音量設定が小さくて、会場全体に声が届かない。
「音、小さすぎるよね」
単純に疑問をもったマオリは、隣でエビチリを食べている直行くんに何も考えずにぽんとそう言ってしまい、言ってから、あれ、こんな気軽に声かけて大丈夫なんだっけ、と思った。
「聞かなくていいよってことなんだろ」
直行くんは自然にそう返答してくれた。
「たぶんこういうパーティみたいな時ってのはさ、えらいさんにスピーチをさせてやらないと、その人の面子がたたないんじゃないの。だから、話したいやつには話させてやる、と」
「聞きたい人は近づいて聞けばいいし、全員が真面目に聞いている必要はないってことか。なるほどそうかもね」
何人目かの聞いてもらえないスピーチがそのとき終わり、入れ替わりにステージに昇った若い女性がいた。
その人はほとんど化粧をしていなくて、白いシャツに、青いジーンズというなかなかのくだけっぷり。さすがにこんな身軽な格好の人がステージに上がるのは今日初めてだ。
年は二十代の半ばだと思う。長い髪の毛をポニーテールにしている。その人はコードレスのマイクをスタンドから外した。
友三じいさんが両手でメガホンをつくって大声で「きょーこちゃーん!」と叫んだ。
女の人は友三じいさんにピースをして笑顔を見せた。とんでもなくきれいな人だった。
マオリはごく自然に、ああ歌うのね、と思ったがそうではなかった。
とん、とステージを飛び降りて会場の中央近くまで小走りでやってきた彼女は、ぐるりと、その場にいる全員を見渡した。マオリとも目が合ったような気がした。
「ええと、みなさんこんばんは。本日は来てくれてどうもありがとう」
最初、マイクの音量をこの人の時だけ上げたのだと思ったが違った。単純にこの人の声量が大きいのだ。
張り上げているようではないけど無理なく腹の底を使って、会場全体にその涼やかな美声を響かせていた。それは、みんなに聞いてもらいたいから。
「いよいよ明日になりました。みなさんの働きによって、セントジュリエットはやっと、とうとう、レースに使える状態までになりました。勝てるかどうかなんて分かりません。レースの結果は相手次第、運次第です。でもわたしたちは胸を張って言うことができます。自分たちは最高の仕事をしました。結果が伴わなければ意味がない、などというのは、ことわたしたちが関わっている競馬の世界ではあてはまらないとわたしは考えます。意味のある仕事を、準備をすることが大事なのであって、そうすれば結果がついてくるのです。わたしたちは現状できる限りのそれをしました。だから、最善の結果が得られることはもう必然として決まっているのです。こんなことを言って気分を害される方がいたらあやまりますが、もし明日、セントジュリエットが惨敗してしまったとしても、それは最善の結果なのです。それに文句をつける輩がいれば、わたしは許しません。わたしたちは結果を結果と受け止めて、次にまた今回を越える仕事をすることを目指せばそれでいいんです。今回はいろんなことがありましたよね。でもわたしたちはチームとして、今後のほかの馬の調整にも役立てることが出来る貴重な経験を積むことができました。セントジュリエットのおかげでわたしたちはまた一歩強くなることができたのです。きっと無事にここに帰ってくるあの子を、みんなで笑顔で迎えてあげましょう。今日は本当にありがとうございました」
マオリは話を聞いているうちに、危うく泣きそうになった。
経緯はほとんど何も知らないに等しい彼女だったが、マイク片手に語ったこの女性がセントジュリエットという馬とそれに関わる人々を深く愛していることがひしと伝わってきた。
まわりの人たちは、みんなが彼女を見ている。農作業姿の人々は、ここの牧場で働いている、今日までセントジュリエットにじかに触れてきた人々なのだろう。彼らはうれしそうだ。
報われたのだと思う。彼女の言葉によって。
古橋さんがそっと歩み寄り、マオリにささやいた。
「聖澤家現当主、聖澤鏡子さん。亡くなった庄助さんの一人娘だ」
それからしばらくマオリたちは会場にいた。鏡子さんにもあいさつをしたかったのだけれど、彼女は常に誰かに囲まれていて、なかなかチャンスが来ない。
古橋さんと相談して、いいから強行突破してしまおうかということになったのだが、丁度そのとき鏡子さんの横に友三さんがグラス片手にやってきて上機嫌で話し出した。
孫娘がかわいくて仕方がないようだ。さすがにこれは割り込めない。
さらに様子を伺っていると、最初は仲良く話していた二人は途中から何故か大声で口げんかを始めた。
まわりの身内と思われる人たちはまた始まったかと意に介していない。止めもせずに笑って見ている。
招かれているおえらいさんの人たちばかりがおろおろしているが、放っておいて大丈夫なようだ。きっと代々、瞬間湯沸かし器な家系なのだ。
結局あきらめてマオリたちは部屋に戻った。
大きなお風呂に入って、湯冷めしないうちに床についた。
明日は早起きするように古橋さんに言われた。鈴さんは飲み足りないらしく古橋親子の部屋に遊びにいった。祐樹くんは旅行に来ている興奮で、電気を消してもなかなか眠くならず、マオリのベッドに入ってきてしばらく話をしていたが、やがて口調がふわふわしたものに変わり、眠りについた。
マオリもそれからすぐに寝付いた。でも眠りが浅かったようで、鈴さんが戻ってきたことに気付いた。暗闇の中で、鈴さんはドアをゆっくりと閉めて、最後にがちゃんと音がした。
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