第19話 たとえ一人でも霧の向こうへ
連絡が直行の家の電話にはいり、病院に駆けつけるとロビーにはサッカー部の生徒たちが大勢いた。
直行の顔見知りの一人が病室を教えてくれた。そこに向うと廊下の長椅子に広子が両手で顔を覆って座り込んでいた。
「広子!」
「直行ぃ。しぃちゃんまだ目をさまさないのよぉ」
真っ赤に泣きはらした目。後から後から涙が流れる。
白い廊下はとても長くて、その白さは全ての音や人の感情をすべて拒絶しているかのようだった。そうでなければやっていけないのだろう。
ゴールキーパーの忍は、敵のスルーパスに反応して前に飛び出した。そして滑り込んでボールを抑えた瞬間に飛び込んできた相手フォワードと交錯して、膝が頭に直撃したそうだ。
隣の長椅子には、相手チームの顧問らしき男性が座っていて、身じろぎ一つしない。
しばらく成すすべもなくそこにいると病室から忍の母親が出てきて、直行と広子は病室に入れてもらった。
横になっている忍は頭には包帯を巻かれ、呼吸器がつけられ、日に焼けた健康そのものの肌は、今は浅黒く不吉なものを直行に感じさせた。
頭蓋骨にひびが入っていて、脳への損傷は恐らく大丈夫としか医者にもいえない状態だった。ちゃんと目が覚めるか、ちゃんと体が動くかは、そのときになってみなければ分からない。
「ひどいぶつかり方だったわ」
少し落ち着いた広子が試合のときの様子を直行へ語り出した。
「いいんだよ。無理して話さなくても」
広子が無言で首を横に振り、話を続けた。
「もちろん相手の反則になったんだけど、うちの選手の人たちはもうそれどころじゃなくて、相手に掴みかかったり、倒れているしぃちゃんに一生懸命呼びかけてくれたり、大変だった。そして救急車が来た。待っている時間がすごく長く感じて、どうして早く来てくれないのよってわたし叫びだしたいくらいだったんだけど、実際はすぐ来てくれたみたい。それで、しぃちゃんが救急車に担ぎこまれてうちの顧問の先生が一緒に乗り込んだ。試合は中止になって、相手チームの先生が両方の生徒を落ち着かせてその場で解散させた」
広子のきれいな瞳に再び涙が滲む。
「広子、もういいよ。忍はきっと大丈夫だから」
「わたし聞いたの、帰っていく若草台中の選手たちが『うまくいった』っていっているのを」
その言葉を聞いて、直行の両目から、今までこらえていた涙が溢れ出した。
やっぱりそうだったのか。忍はあのねずみ小僧の手のものにやられたのだ。
試合中の事故にみせかけて。自分のせいで。直行の涙に釣られるように、広子も声を上げて泣き出した。そして彼女は告げた。
「直行、ごめんね。わたしこれ以上しぃちゃんを危ない目に合わせたくない。しぃちゃんが目を覚まして、元気になっても、もうあなたのことに巻き込んで欲しくない。しぃちゃんはわたしにこんなことを言ってほしくないかもしれない。ううん、きっと言ってほしくないと思う。でも、ごめんね直行。わたしもうこんなのいやなのよ」
直行は、そう言われたことによって、実のところほっとしていた。
「俺さ、疑ってたんだ本当は。忍がねずみ小僧なんじゃないかって」
広子の嗚咽が止まり、直行を見上げる。その言葉の意味を考えているようだった。
「そう考えると辻褄が合う部分があるってこともあったし、忍ならばこんなでかいことでもやってのけるんじゃないかって、実は初めから思ってた。俺の知る限りでは、こんなことが出来そうなやつ、ほかにいなかったから」
「しぃちゃんは、直行を利用したりしないよ。口先だけ取り繕って、心の中では自分の方が上だと思ったりしないよ」
「忍はすぐに目を覚ますよ。広子はそばにいてやって。俺が謝ってたって伝えてよ」
直行は微笑むと、広子から離れて歩き出した。
後ろで彼女の声がした。それは、白い霧の向うから聞こえてくるようだった。
「直行、あなたももう関わるべきじゃない」
直行は歩きながら向き直った。
「こんなことになる前に、絶対に忍じゃないって思えなかった。それが悔しい。俺、まだ引き下がれないよ」
家に戻った直行は、両親には忍のことを教えなかった。
どうせそのうち耳に入るだろうし、根掘り葉掘り聞かれることに耐えられそうになかったのだ。
夕食の時間には、父も帰ってきていた。今日はカレーライスと、皿いっぱいに盛られたサラダだった。
母と二人きりのときは、あれやこれやと話しかける母に対して直行もそれなりに受け答えして、食卓に笑い声が広がることも珍しくない。
しかし三人でのときは、弾むおしゃべりは父と母とに任せて、直行は黙々と食事するのが常だった。
だからその日父が何度も直行に話してくるというのは、中学にあがってからで考えれば極めて異例のことだった。今日じゃなければ、直行はもう少しまともに話ができるはずだった。
ここのところ父とまるで話をしていないと自覚はしていたし、それが寂しいとまでは思わないけれど、聞きたいことが、話したいことが、少しはあった。
父が自分に抱いている感情も同じようなものなのではないかと考えていた直行にとって、この日の父の距離感は不快なものだった。
ただでさえ忍のことがあって直行の神経はすり減っていた。父の話の内容は、最近の学校でのことや、父の仕事先でのこと、テレビで流れている社会情勢のことだったりして、とりとめがあるのかないのかよく分からないものだった。母もなんだか不思議そうな顔をして二人を交互に見ていた。
話しているうちに直行は、父がどうもなにかを探ろうとしている様子であることに気付き、そして思い至る。父はあの東京ドームで事件の際やはり自分の姿を見つけていたのだと。
かぼちゃとほうれん草の入った母の作るカレーは直行の好物で、いつもならば三杯食べるところだったが今日はそんな気になれない。
「ごちそうさま」
直行は食器を洗い場において自分の部屋へと戻ろうとした。
離れていく直行に更に何か問いかける父に、つい腹が立って大きな声を出してしまった。
「俺のことは放って置けよ!」
「そんなわけにいかないんだよ」
振り返って睨みつける直行を、父は椅子に座ったままで目を逸らさずに見ている。その目は何も持たない直行を高いところから見下ろして眺めているように見えて、直行をますます苛立たせた。誰も彼もが俺を見下ろしている。
「ねえ、どうしたの? やめてよ大輔」
母が困っている。直行は部屋に戻ると布袋を手にして、またすぐ出てきた。
「素振り、してくる」
いつもの公園で直行はいつまでもいつまでも竹刀を振り続けた。
乱れる気持ちを押さえつけるように、一振り一振りを、鋭く、丁寧に、コンパクトに。
もっと強くならなければならない。これから自分は一人なのだから。
左手にまるで力が入らなくなるほどまでにぶっ続けで振ってから、汗だくになって息も荒くなった直行は、池のほとりのベンチにへたり込んだ。
濃い暗闇と、雲に霞んだ三日月を映し出す夜の池は、直行の為に静けさを与えてくれていた。
ベンチの下になにか落ちている。気付いた直行が覗き込むと、それは青い手下げ袋だった。
サンドイッチでも包んでいたのであろう、くしゃくしゃになったラップが入っていた。裏地の部分にはフェルトペンで持ち主の名前が書かれていた。
置いておけば、次の日にでも持ち主が取りにくるかもとも考えたが、雨が降ってもおかしくないような天気だったので、直行はそれを家にもって帰ることにした。
翌日の昼休みに、サッカー部員のひとりから忍が目を覚ましたことを教えられた。少しは言葉を発することが出来る状態で、いまのところ、異常は見られないそうだ。
一人きりになると直行は、しゃがみこんで、うつむき、両の手の拳を強く、強く握りしめた。
放課後の部活が終わってから直行は家に電話して、母に友達の家で一緒に勉強して帰る、夕食はいらないと伝えた。
試験はこの前終わったばかりだったが、母は特に何も言わなかった。どちらかといえば昨晩の父との件を気にしているふうなのを感じ取れたので、努めて明るい声で母に語りかけた。
直行は、制服の上に白いパーカーを羽織って一人で校門を出た。肩には教科書、着替えの入ったスポーツバックと、竹刀の入った薄緑色の布袋を背負っていた。
彼は、家とも、病院とも違う方向へと歩いていった。
その日直行が家に帰り着いたのは、真夜中になってからのことだった。
暗い自分の部屋で机のスタンドの明かりだけが直行を照らす。直行は机の引き出しの奥から三枚の封筒を取り出し、中に入った三通の手紙を机の上に並べて、ずいぶん長い間それを眺めていた。
次の日の放課後。今日も部活が終わった。
練習中は勝ったり負けたり、うまくいったり行かなかったりの連続で、自分がどれくらい前に進めているのか見当がつかなかったが、それでも直行は竹刀を振り続けた。
部室で着替えている時に、スポーツバックの中に白い封筒が入っていることに気付いた。
家に戻って、自分の部屋で封を開けた。
聖澤の宝を戴く。手紙の最後にはそう書かれていた。
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