第22話 東北自動車道
金曜の夕方の首都高はいつもどおり込み合っていて、車両の間隔が狭いけれど今のところ通行止めは発生していない。
淡い夕日が、マオリと同じ後部座席の鈴さんの顔を赤く染めている。
真田親子が加わってから車内はぐんと賑やかになった。鈴さんはよく喋る人で、古橋さんと仕事の話をしたり、マオリにも色々と話しかけてくる。
仕事の話を楽しそうにする人というのはいいものだ。聞いているとひどい目にも色々あっているようなのだが、彼女はそういうことですらおもしろおかしく話すのだ。
前にマオリの家の近所のおばさんがお茶を飲みに来て二時間半、母に仕事の愚痴を止まることなく忌々しげに話し続けて帰ったことがあったが、そういう人よりも百倍いい。
「ね、マオリちゃん、競馬場にいったことは?」
「ないです」
「明日はみんなでいくからね」
迷彩柄のパーカーはかっこよくて、鈴さんには似合っているけれど。
マオリの中に怖くて聞けない質問が浮かぶ。
その格好で晩餐会、出るつもりじゃないですよね?
マオリと鈴さんのあいだに座る祐樹くんは助手席の直行くんとずっと話し続けている。
直行くんの大きな手のひらにぱしぱしとパンチをしたり、こともあろうか二人してパーオ、パーオと歌い出す始末だ。
その歌はマオリの神経を少なからず逆なでした。
彼女とて小学生の子供である。こうも露骨に蚊帳の外にされると悔しいことに、自分もやさしそうな直行お兄ちゃんに遊んでもらいたくなってしまう。
「ぼくぅがぼくぅであるためにぃ♪」
何だ、何だ? 突如ハンドルを握る古橋さんがこぶしを利かせて歌い出した。東北自動車道に乗って、少しした頃だった。
「眠くなってきたでしょ? 古橋くん」
「若干な。まだ耐えれる」
「限界が来る前に言ってよ。運転代わるから」
眠気覚ましに歌っていたらしい。あたりはすっかり暗くなっている。このへんでは今夜は星がきっとよく見える。
佐野藤岡のサービスエリアで休憩することにした。五人はぞろぞろと外に出た。風が強くて寒い。古橋さんが大きく伸びをしている。
マオリがお手洗いを済まして出てくると、古橋さんと鈴さんは外の喫煙エリアで立ち話をしていた。暗がりの中、二人の手元にタバコの火が灯っている。
直行くんと祐樹くんは屋内の売店でお土産やお菓子を見て廻っている。
マオリも二人から離れたところでなんとなく品物を見て、いくらなんでもまだお土産を買うつもりはないので、飲み物だけ買おうとホットドリンクの売り場を探した。
お茶とコーヒーのどちらにするか考えていると横に祐樹くんがやってきてマオリを見上げた。マオリが笑いかけると祐樹くんも笑った。手には紙パックのオレンジジュースを持っている。
「何にする?」
直行くんがマオリに声を掛けた。
いきなりのことに、マオリが驚いてそっちを見ると、直行くんはマオリのことを見ていた。普通に、少しだけ笑顔で。
祐樹くんは彼に駆け寄ってオレンジジュースを渡す。直行くんはそれを受け取ると、もう一度、「何飲む?」とマオリに聞いてきた。
「俺、買うよ」
マオリはなにも答えられず商品棚に視線を戻して、落ち着かない手つきでホットウーロンのペットボトルを手にした。
直行くんはそれをひょいと受け取るとレジの列に向かった。
「先に車に戻ってて」
マオリとちょこちょこついてきた祐樹くんが駐車場のパオのところに戻ると、既に大人二人は車の中に入っていた。鈴さんが運転席に座って、古橋さんは後部座席。
少し待っていると直行くんが小走りで戻ってきて、運転席の鈴さんに「すんません」と一言声をかけてから飲み物を二人に渡した。
祐樹くんは大きな声で「直くんありがとう!」とお礼を言った。
マオリは無言で、硬い表情でホットウーロンを受け取った。
水色のパオが動き出す。祐樹くんがオレンジジュースにストローを差しながら、隣に座るマオリのところを見上げた。
そして、声を出さず、口の動きだけで「あ・り・が・と・う」と言って、首をかしげた。
ちがうの祐樹くん、話しを聞いて。さっきまでは直行くんのほうこそがこんな感じだったの。いつもはわたしだってお礼ぐらいちゃんと言えるのだけれど、気温でもなんでも急激な変化に人間は対応できないことがあるものなのよ。
悔しかったり、少し嬉しかったりと忙しいマオリの心中を知ってか知らずか、直行くんは缶コーヒーに口をつけながら、流れていく高速道路の光を見ていた。
「アイラーヴュー♪」
鈴さんが歌い出す。考え事に浸っていたマオリはえらく驚いた。
「真田さん、もう眠くなったの?」
「早くね?」
「いや別に眠くないけど。眠眠打破飲んだし」
単に歌いたかっただけのようだ。
「いまだーけはー悲しい歌―ききーたくーないよー♪」
あんまりうまくない。
パオは北上する。
鈴さんの運転は、古橋さんのそれよりも平均時速が十キロばかり速くて、ビュンビュン他の車を追い越していく。
一番右の追い越し車線を走る赤くてやたら平べったい車が、恐ろしいスピードでパオを抜いていった。
「ちっ」と舌打ちをしてそれを追いかけようとする鈴さん。
古橋さんと直行くんが「やめろー!」と声をハモらせた。
ラジオに流れる東京FMの音声が雑音混じりになってきた。
「直くん頼む」
「CD何かかけるね」
カセットしかない白くて丸いコンポとは別付けのデッキに、助手席の直行くんがCDを入れた。
後部座席の古橋さんは窓にもたれて、祐樹くんはマオリにもたれて眠っている。
CDの歌声が二人を起こさないように気遣いながらやさしく歌う。マオリは冷めてしまったウーロン茶を飲んだ。窓の外には民家の明かりがぽつりぽつりとしかない。
宇都宮を過ぎると車線は二車線に減った。那須高原のサービスエリアで夕食。
マオリは掻き揚げそば。直行くんはラーメンとチャーハン。直行くんは量的に単純に考えてマオリの二倍だったのだが、食べ終わるのは向うのほうが速かった。
再び運転手交代。古橋さんがあくびをしながら運転する。鈴さんが後部座席に戻ってきた。
「古橋くん体力回復した?」
「おかげさまで」
「おもて、寒かったね」
「今日は冷えるっていってたもんな。それに栃木は東北だし」
「え、古橋さんちがうんじゃ?」
鈴さんと古橋さんの会話にマオリが口を挟む。
「説はいろいろあってさ。福島の人に言わせれば、福島は関東地方らしい」
なんだそれは。
そのうち寒いうえに小雨まで降ってきた。パオのワイパーがめんどくさそうに窓を拭く。遠くに山の輪郭が闇の中にぼんやりと浮かんでいる。上のほうは雲がかかっているようだ。
「あの古橋さん、明日の夜が、その、晩餐会なんですか?」
「土曜のメインレースでセントジュリエットが走るからな。勝っても負けてもご苦労会をやると思う」
「ずっと出てないといけないですよね、やっぱり」
「そんなこともないだろうけど。隙を見てみんなで引き上げてもいいんじゃないかな」
「古橋くん、温泉行こうよ温泉」
そのとき助手席の直行くんがマオリのほうを振り返った。
「どこか行きたいの?」
「え、うん、時間が厳しいだろうから無理だと思うけど」
「どこ?」
直行くんが尋ねる。
「言ってみ、マオリちゃん」
マオリが言いよどんでいると古橋さんがバックミラー越しにこちらを見て聞いてきた。
「調べてきたんですけど、浄土平の天文台が近いみたいなんです」
「ほう、天文台」
浄土平天文台というのは福島市を見下ろす吾妻山にある天文台で、標高千六百メートルという、一般の人が入れる公開天文台としては日本一高い場所にある。
空気がきれいで、しかもこの時期気温も低くて、横浜市民のマオリからすればよだれと涙が駄々漏れになるほどのうらやましい観測環境なのだ。一度行ってみたかった。
「遅くまでやってんの?」
「土曜日は九時までです。雪がふると閉鎖になっちゃうって書いてあったので、まだやっているのかどうかは・・・・・・」
「聞いてみるよ。せっかくだから行きたいでしょ」
古橋さんがそういってくれた。
「ありがとうございます。じゃ、いけそうなら連れて行ってもらえますか。父のこともあるし、そんなとこで遊んでていいのかなっては思うんですけど」
「それとこれとは別よマオリちゃん。意識して別に考えなきゃやってらんないわよ」
「はい」
鈴さんの言葉にマオリは頷いた。
「オトウサン、どうしたの?」祐樹くんが見上げて聞いてきた。
「わたしのお父さんね。どこかに行っちゃったのよ。会いたくてさ。会っていろんな話がしたい」
「僕いないよ。パパ」
祐樹は屈託なくそういって笑った。
「あ、そうなんだ」
マオリはしまった、と思いながら鈴さんの顔を見ると彼女は肩をすぼめて微笑んだ。そのやさしそうな目は言っていた。
汝、気にすることなかれ。
「あれ?」
不意に直行くんが声をあげた。
「これ、雨じゃないんじゃ」
「おいおい、嘘だろ」
雨は七時過ぎにみぞれへと変わっていた。
暗闇から現れる大きな白いつぶがゆっくりと、べちゃべちゃとパオの窓ガラスを叩いた。
「まだ十一月だぞ」
「古橋くん、タイヤは?」
「ノーマルに決まってんだろ」
古橋さんと鈴さんは、大きな声でうろたえている。しかし、非常事態とはいえそれだけではなく、二人ともこの冬初めての雪をみて心が躍っているようだった。
「うわ、すげー」
祐樹くんが大はしゃぎ。
「東北、やばいとこだな」
直行くんは呆然としている。
マオリは、天文台が閉鎖してしまうなあ、などと考えながらぼんやりと、雪国の心づくしのお出迎えをながめていた。
パオは五人を乗せて、どんどん強まって行くみぞれの中を走った。きれいだな。
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