第46話 春

 直行は三年生になった。


 春休みに青葉区の中で剣道の小さな大会があったのだが、なんと彼は優勝した。しかもかなり圧倒的に。


 彼は自分でも驚くほどに強くなっていた。


 ねずみ小僧に感謝すべきなのだろうか。


 金属バットやナイフを相手にしてきた直行は、いまや何の気負いもなく試合に臨むことが出来るようになっていた。


 ひと冬、たっぷりと竹刀を振り込んで、技の切れもどんどん増していた。


「上を狙え、直行」

 顧問の教師が直行の両肩をがっしり掴んで言った。


 来月に始まる中学最後の大会で、お前は今の実力ならば区大会を勝ち抜いて神奈川県大会、もしかしたらもっとその上まで行くことが出来るかもしれない。


 こんなに急激に伸びた選手をはじめて見た。


 顧問の言葉は、こうして歩いていて見上げるとそこで今を盛りと咲き誇る桜のように、直行に明るい希望を与えた。

 

 朝、学校に向う途中、目の前を忍と広子が歩いているのを見つけた。


 忍はいまではようやく部活に復帰していた。


 彼が試合中の怪我で入院してから、忍と直行は疎遠になってしまっていたが、人づてに彼が猛烈なトレーニングでコンディションを取り戻そうとしていることを聞いていた。


 本当は彼に声を掛けて、応援したかったが、俺も強くなったんだぜ、と自慢してやりたかったが、あの病院での広子の涙を思い出すとどうしてもそれはばかれた。


 声を掛けたら、忍はきっと以前と同じように明るくてどこか気取った語り口で自分につもりにつもった話をしてくることだろう。


 そしてねずみ小僧の件を問いただしてくる。怪我したことなんて関係ない。お前がやるなら、俺も手伝う。きっとそう言ってくれる。


 それが分かっているから、今日まで直行は忍をあえて遠ざけるしかなかった。


 ふとした拍子で広子が後ろを振り返り、直行と目が合った。


「あ、おはよう」


 広子はためらいながら小さな声でそういった。


 忍も振り返り、表情のない声で、「よう」と言った。


 直行は小さく返事をして、歩みを速めた。


 うつむいて二人の横を通り過ぎていく時に、後ろから小走りで自分に近づいてくる軽い足音が聞こえた。


「おはようございます。先輩」


 そちらを見ると、髪の長い女の子がにこにこ笑って、真新しい中学校の制服を纏って立っていた。マオリだ。


「え、あれ?」


 動揺しながら、何で? といいかけて直行は自分の馬鹿さ加減にあきれた。


 小学六年生が新しい春を迎えて中学生になっただけなのだから、なんでもくそもない。


「ずいぶん久しぶりですね。古橋先輩」


 福島の事件以来、気には掛けていたが彼女と会う機会はなかった。


 とはいっても数ヶ月なのだが、紺色の制服のせいだろうか。目の前にいるマオリは印象が随分違って見えた。古橋先輩ねえ。


「直行この子誰よ!」

 満開の笑顔で広子が直行の眼前に迫った。


「へ?」

「・・・・・・あれ?」


 直行と忍のきょとんとした視線に挟まれ、広子は我に帰る。


 瞬間、置かれていた状況を忘れてしまったようだった。


「ええと・・・・・・、えい、まあいいか。ね、ね、直行、この子誰なの? 随分と可愛いじゃないの」


 そうっすかあ、と照れるマオリ。

直行は家に引き返したいほどのいたたまれなさに平常心を失った。


「近所の子供だよ。ただの」

「子供て。『子』でいいだろ」


 忍が指摘した。それはまずい、とその目がいっていた。


 マオリも一瞬で機嫌が悪くなった。直行に顔を近づけて低い声でささやく。


「直くんて呼ぶぞ」

「やめろ、それはまじでやめろ」


「見てよしぃちゃん、直行が女の子といちゃいちゃしてるよ」

「喜ばしいなあ」


 お前らは俺の両親か。


 もう一度、マオリの制服姿を上から下までちゃんと眺める。マオリと、端で見守る二人からもなにか感想を期待されているのは分かったが、直行はあえて無視して歩き出した。


 三人の色んな心の声が背中に突き刺さった。


「元気にしてた?」


 気を取り直してそう尋ねると、マオリの笑顔が哀しそうに歪んだ。


「卒業証書ね。だれかに破られちゃった」


「そう」


 彼女が小学校で、父親のせいでいじめにあっていたことは大輔から聞いている。


 後ろを歩いていた広子の顔色が僅かに変わった。

 

 この朝のことがきっかけとなって、直行と忍たちはなんとなくまた会話が増えるようになってきた。


 広子はどうやら、忍と広子と直行と、それからマオリを加えた四人で、またいつかのように忍の部屋でのんびり過ごすことができたらどんなにうれしいだろうと、密かな野望に燃えているようだった。


 いい奴だ。


 土曜日、直行が剣道部の練習を終えたあと校庭を覗くと、サッカー部が練習試合をやっていた。忍はベンチに座っていた。


 はじっこで試合を見物しているマオリの姿を見つけたので、近づいていく。


「栗原さん、前半は試合に出てたのよ」


「点取られたんだ」


 スコアボードを見ると1対2で柿の木中はリードを許している。相手は私立の強豪校だ。


「相手にね、一人とんでもなく上手な人がいるのよ。出木杉くんのような人」

「なんだそれ」


 どれが出来杉くんかはすぐ分かった。そいつがボールを持つたびに相手の応援に来ている女の子たちが耳障りな嬌声をあげるのだ。


「はじめちゃーん、行けー!」


 確かに他の選手と比べて際立った動きだった。


 ポジションはフォワードで、ボールに対する反応が早い。


 力走しているようではないのだが、滑らかな加速で敵のディフェンダーよりも先んじて追いつく。


 球離れが早くて、ワンタッチかツータッチでボールを裁き、そいつがボールに触れるたびに確実に状況が好転するのだ。


 パスミスが一度もない。


「まわりの動きが全部見えてるみたいだな」

「すごいよね、そのうち年代別の日本代表にも選ばれるだろうってうわさなのよ」


「もしかしてマオリもあいつを見に来たの?」

「うん、そうだよ」


「ふうん」


 二人の間で、会話が不自然に途絶えた。


「あのですね、古橋先輩」

「なんだよ」


「向こうでキャーキャー言っている女の子たちがいるでしょ。あれね、わたしの小学校の同級生なのよ。受験してあっちの学校にいったの。小学校のときから出来杉くんの追っかけをやっててさ。わたしは当然の如く連れて行ってはもらえなかったんだけど、どんな人だかちょっとだけ気になってたのね。それでせっかくだから一度見ておこうと思って。それだけよ」


「いや、べつになんでもいいけど」

「説明すべきと思ったからそうしただけだもん」


 ふたたび、更に不自然な沈黙。


「直行、マオリ! 応援手伝ってよ。声量でぜんぜん負けてんのよ、うちのホームグラウンドなのに!」


 広子が血相変えて駆け寄ってきた。ナイスタイミングである。

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