第34話 レースの後

 メインレースが終わったばかりの福島競馬場。


 興奮冷めやらぬ人混みの中ではあったが、父たちの集団はわりと簡単に見つかった。


 ゴール前の客席まで降りてきて人目もはばからずはしゃぐ鏡子の姿があったから、ひどく目立っていた。


 友三じいさんに抱きついて飛び跳ねていた彼女は、ついでに父にも抱きついた。


 にやついた父の顔。


 親父、俺は別にいいけど、後ろで真田さんが写真に撮ってるぞ。あとでそれをネタに金品を要求されるんじゃないか?


 鏡子が直行たちに気付いた。

「見てくれた? ジュリエット、強かったね、偉かったね」


 子供のように顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる。


 へたすると直行にも抱きつきかねない勢いで、彼はつい後ずさりをした。


 でも鏡子のその泣き顔は、出会ってから見た彼女の一番魅力的な表情で、直行はしばし見惚れてしまった。


 自分にもいつかこんなふうに誰かを喜ばせるような完全無欠の勝利を収めるときがくるのだろうか。


 友三じいさんの顔には安堵の表情が浮かんでいる。

「この馬は庄助が配合を決めた。こんなにいい馬になるなんて、見せてやりたかった」


 父、庄助の名前を聞いて、鏡子は、はっとしてマオリを見た。


 マオリの瞳の中のさざなみを、さみしそうに、いとおしそうに見つめて、そして彼女はやさしくささやいた。


「わたしと父は最後に電話で話したの。ジュリエットが生まれた次の日。父は、今朝すごく元気な子馬が生まれたって、嬉しそうだった。これから最善を尽くそうぜ、って言ってた。あの人運動は全く駄目で、馬には乗れなかったんだけど、時間があいたときに馬房の掃除や柵の修理なんかを楽しそうにやっていた。いい人だったよ。もっと一緒に生きていたかった」


 鏡子の頬をもういちど、美しい涙が流れた。


「パパ、ジュリエットの八勝目だよ」

 

 直行は、横にいるマオリを見ないようにした。彼女をより傷つけてしまうような気がしたから。


 セントジュリエットが戻ってきて、地下道手前のウィナーズサークルで表彰式の準備が始まった。スーツを着た関係者が続々集まってくる。


 観客たちも、携帯や、一眼レフを構えて、主役の凱旋を待ち構えている。


 友三じいさんと鏡子がサークルのなかへ降りていった。馬から下りた中村騎手と握手。中村騎手は斤量の確認のために一度控え室へと戻った。


「GⅢだってのに、えらい人数だな」


 父があきれている。桁の外れた実績を残してきた馬だから特別なのだろう。

 直行たちは、人混みの最前列でその表彰式を眺めていた。


 十一月の淡い日差しの下、セントジュリエットと鏡子は人々の祝福を受けた。友三じいさんは、二人の孫娘の晴れ姿をやさしい眼差しで見守っていた。


 そのとき直行は、ウィナーズサークル内で馬の周りにいる人間たちの中に見たことがある顔を見つけたようなきがした。まさかと思い凝視した。


 いつだったか忍が言っていた。『こいつのニュースはちゃんと見ておいたほうがいいぜ』


 そこにいたのは財前誠一だった。


 黒いコートを襟を立ててはおっている。三昔前の映画俳優のような、霧笛の響く波止場が良く似合いそうな、重厚な風貌。


 なんで、どうして? 


 直行が目の前の光景の意味を理解できずにいると、横にいるマオリが絞り出すような声で言った。


「お父さん」


 財前の隣に立つグレーのコートを着た大柄な男性。あれが糸井晴信? 


 二人の名前や姿は、テレビなどに頻繁に流れた時期があったようだが、ひょいと目の前に現れて皆が即座に気付くほど有名ではない。


 しかし、ウィナーズサークルでセントジュリエットの傍らに立つ鏡子は二人の姿を見て、もちろん何者か分かったようだ。


 財前は彼女に近づき何か言葉をかけた。鏡子は気品ある所作で二人に対して一礼をした。


 マオリはもう一度「お父さん」とささやく。


 本当は大声でその名を呼んで、人を掻き分けてでも側へ行きたいのだろうが、事態の異様さと、今日まで彼女を散々虐げてきた民衆の目がそれを妨げた。


「晴信さん!」


 直行は思わず叫んでいた。マオリの代わりに。


 糸井晴信は直行とマオリのところを一瞥したように見えた。


 直行はもういちど彼の名を呼ぼうとしたが、そのとき悲鳴が上がった。


 観客がコースの方を見て騒ぎ出した。


 直行がそちらを見るとたくさんのサラブレッドが入場用の地下道から駆け出してきていた。


 騎手は乗っていない。芝コースをちりぢりにかけて行く。


 ウィナーズサークルの方にも何頭もの馬が向ってきて、人々の悲鳴で場内は混乱状態となった。


「直行、始まったぞ!」


 父の叫びが背後から聞こえた。馬のいななき、観衆のざわめき。


 直行はマオリと、祐樹の前に立ちつつセントジュリエットの無事を横目で確認していた。


 この騒ぎに驚いているようで、彼女はいまさっき二千メートル走ってきたばかりだというのに申し訳ない話だ。


 このたくさんの馬たちは多分次のレースに出走する予定だった連中だろう。


 そのときもう一つ騒音が加わった。


 ヘリコプター。


 突然現れたそれは芝コースの真ん中付近で二メートルほど浮いた状態でとどまる。



 そしてそこから二人の頭巾姿の男が現れた。


 直行は柵を飛び越えた。


 柵沿いにいた警備員たちは馬を何とかしようと走り回っていて、直行になど気がまわらない。


 ヘリコプターからねずみ小僧とクモ男はこっちを見ている。何をするでもなく、あぐらをかいてくつろいでいる様にすら見える。


 あいつらはここに自分がいることに気付いているのだろうか。馬たちに妨げられて近づけない。もどかしい。


 ふりかえると、父と真田さんも人混みに巻き込まれて難儀している。


 クモ男がヘリコプターから飛び降りた。そして機敏な動作で、馬と人をかわしながら、セントジュリエット目指して向ってくる。


 残っているねずみ小僧はハンドスピーカーを取り出した。そして叫ぶ。


『聞こえるか財前誠一』

 

 細工がしてあるらしく、その声はいつか直行が携帯電話で聞いた、ボイスチェンジャーをつかった甲高い声だった。


『権力の隠れ蓑にすがって生き延びようとするお前を、僕は許さない。世の中に僕は義を示す。そしてそれはやがて大きな力となり、お前を滅ぼすだろう』


 観客たちは声の主が義賊ねずみ小僧であることに気づき、声援を送るものまでいる。


 騒然とした中、クモ男がヘリの場所まで戻ってきた。女性を肩に担いでいる。鏡子だった。


「鏡子さん!」

 

 直行の声に反応しない。彼女は意識を失っているようだ。


 縄梯子が下ろされ、クモ男は鏡子を担いだままでそれに捕まった。


 警備員が駆け寄るよりも先にヘリコプターは轟音とともに浮上した。


「鏡子―!」


 友三じいさんの叫びが空に吸い込まれた。

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