最終話 彼がやり遂げたこと


 五月の午前中。外は雨が降っていた。


 三笠新聞社スポーツ部にて、包帯や絆創膏だらけの真田が席に座って何か大きなものの確認をしていた。


 この間、崩れ落ちたばかりの書類の山は既に復活している。


「片付けるのが大変だった」という迷言は、いまの傷だらけの姿とともに部内で物議を醸した。


 しかし彼女はそんなことは委細かまわず、いまも機嫌よく妙な歌を歌っている。


「わ、わ、わたしは真田鈴。お酒とカメラが大好きよ♪」


 後ろからコーヒーカップを二つ持ってきた大輔がその歌を引き継ぐ。

「か、か、彼氏は副総監♪」

「おい、こら!」


 激高する真田を無視して、彼女の机にカップを一つ置く。


「お、パネルできたんだ」

 

 二頭のサラブレッドがこちらに向って歩いてくる写真。


 湯気の立つ馬体を朝日が背中から照らして、命そのもののようなまばゆい輝きを放っている。


 その上に乗っているのは、太陽にも負けないような笑顔の二人。聖澤鏡子と友三じいさん。


「光の加減って写真では、肉眼で見たのと同じようにはなかなか再現できないのよね。自分のへたさ加減がかなしいわ」


「大丈夫だよ、ちゃんとおぼえているから。みんなこの写真を見れば、あのときのことをはっきり思い出せるから」


 いい写真だ。きっと鏡子は喜んでくれるだろう。


 大輔も真田に負けず劣らず、あちこちケガしている。


 部長からは、二人揃ってケガしている様を、どうかよそのマスコミに見られてくれるなと懇願された。


 どうみても風神雷神に新たな伝説が生まれたことは明らかだった。


「それじゃ俺、行くわ」


 大輔は一旦外出して、それから夜は東京ドームで取材をする。


「うん、行ってらっしゃい」

「今夜、飲もうぜ」

「了解」


 大輔を乗せたパオは雨の首都高速に乗った。ワイパーは今日も不満げに雨を拭う。


 あのフェリーでの事件から二週間。


 ねずみ小僧はテレビでは既に忘れ去られ始めていた。


 財前は大輔の案に乗ってその後の処理をしてくれた。


『実は勇敢な財前誠一』として数日間騒がれ、大いに株を上げた。


 海に消えたクモ男。


 世間では海へ落ちた人物がねずみ小僧だったということでとりあえず落ち着いたようだ。


 あいつにすべてを押し付けるのは偲びなかったが、倉貫はじめのこれからのことを考えるとそれが最善と思われた。


 これから恐らく、ねずみ小僧を模倣するものが一人くらいは現れるかも知れない。


 ネット上の検証サイトは二つも三つも出来ていまだ盛り上がっていたが、やがて下火となるだろう。


 そして数年後くらいには、あの事件は果たしてなんだったのか、という感じでオカルト要素を多分に含んで、ブームが再燃することもあるかもしれない。


 でもそれだけだ。


 妻の琴美はぼろぼろになって帰ってきた夫と息子の姿を見て、とりあえず泣いた。


 琴美は言った。

「本当に、本当に、もうこれっきりにしてよね」


 そう願いたいものだ。


 糸井晴信は意識を取り戻した。


 今後も注意深く検査を続ける必要はあるが、とりあえず助かった。


 病室を訪れたマオリと奥さんのうれし涙は、どんな報酬よりも大輔にとって価値があるものだった。


 宮沢選手もお見舞いにきた。外に晒す姿はどこまでも豪快な彼は、怪しい病院にもまったく臆せず、晴信を試合に招待することを約束してくれた。


 あの家族はやがては引っ越すことになるようだ。


 新しい土地で親子三人で再出発。大変なことはこれからもあるだろうが、いつまでも穏やかに暮らしてほしい。


 青葉区内の体育館に到着。


 パオを駐車場に停めて、小走りで中に駆け込む。


 そこでは剣道の大会が行われていた。


 人目につかないように柱の影から様子を伺うと、直行の姿を見つけた。


 大輔の背中を叩くものがいるので振り返ると琴美だった。彼女も直行に見つからないように隠れながらにっこり笑う。

 

 直行の左肩の骨折は重傷だった。


 二週間ではとても治らず、団体戦のメンバーからは外された。


 出番なんてないから見に来るな。


 直行はそういっていたが、大輔と琴美はこうして体育館までやってきた。


 思った通り、直行は個人戦に出場してきた。


 顧問は試合ができる状態ではないのは分かっていても、直行の懇願に最後は根負けしたのだと思う。


 ギブスをつけたままの左腕は、かろうじて竹刀に添えてはいるが動かせるわけがない。


 相手は一方的に攻め立ててくる。


 チームメイトの声援を受けながら、右手一本で直行は懸命に防戦した。あまつさえ反撃する姿勢すら見せた。


 バランスを崩して転がるが、すぐに立ち上がって向っていく。


 琴美は大輔の袖をギュッと掴んで、必死にあがき続ける息子をまっすぐ見つめた。


 二分間。それだけの時間、抵抗するのが限界だった。


 最後は相手の面打ちに直行の右腕は反応が遅れて完璧に打ち込まれ、審判の旗は上がった。


 拍手の中、開始線に戻った直行はぺこりと頭を下げた。


 三年間へこたれずに竹刀を振り続けた直行の部活は、こうして区大会の一回戦であっけなく終わりを告げた。


 試合場の端に戻ると、直行はチームメイトに声を掛けられ何か答えている。


 正座して、左手が使えないので仲間に手伝ってもらいながら防具を外す。


 頭の手ぬぐいを外したとき、直行はうつむいた。


 小手を外してくれようとしていた仲間は直行の様子に気付いて、そっと離れる。


 肩が震えていた。遠くからでも泣いているのが分かる。声を上げて泣いているのだろう。


 あいつがこんなに大泣きするのを見るのは、いつ以来のことか。


 耐え忍んできた色々なものが全て一気に噴き出してしまったかのように、直行は泣きつづけた。


「優勝するかもって、がんばってたのになあ」

「でもかっこいいよね。わたしたちの息子」

「うん、かっこいい」


 大輔と琴美は柱の影でいつまでもひっそりと拍手を送り続けた。




_____________



 試合が終わり学校に戻って解散した頃、雨はまだ降っていた。


 直行は一人で校門を出た。


 校内には各所で今日の試合を終えたほかの部活の生徒たちも戻ってきていて、直行は泣き腫らした目を誰にも見られたくはなかった。


 雨に濡れる歩道の木々をぼんやり眺めながら直行は歩いた。


 右肩に着替えの入ったバックを背負い、そのうえ右手で傘をさしているので歩きづらい。


 何かの拍子でバックの肩紐がずれてしまい、直すのに難儀する。


 動かすと左肩に鋭い痛みが走る。今日の試合でまた悪化させてしまったようだ。


 でも、まあ、もう部活はないのだし。そう思うとまた涙がぶりかえしてきた。


 冗談ではない。道端を歩きながらボロボロ泣くなんて醜態は死んでもごめんである。


 傘をもった右手でぎこちなく顔の涙を拭う。


 するとその拍子にまたバックがずれて、それを直そうとするとまた左肩が痛む。直行が一人でじたばたしていると、彼の傘をそっと持つものがあった。


 マオリだった。


 彼女は何も言わない。目もあわせない。ただ傘を持つ腕を一杯に伸ばして、直行が濡れないように傍らを歩いた。


 直行も何も言わず前を向いて歩いた。


 バックの位置を直した時にまた傷が痛んで顔をしかめていたので、そのときマオリが横でぽそっと呟いた言葉は聞き取れなかった。


 せっかくマオリが精一杯の勇気を出して「ありがとう、わたしのオリオン」と言ったのに直行はそれを聞き逃してしまったのだった。




_____________



 ある夜のこと。


 中年の警官は深夜の公園を、懐中電灯を照らしながら一人で見回っていた。


 池のほとりのベンチにも今日は誰もいない。


 彼は注意深く公園の端から端まであるきながら、青白い顔をした後輩のことを思い出していた。


 ちょうどこの場所で一緒に巡回をしていたとき、望遠鏡で星を見ている女の子を見つけて、あいつは、こんな時間になにやっているんだと厳しく問い詰めていた。


 竹刀を振っていた直行という男の子にも同じように尋問していた。


 良くない子供らがこのへんにたむろしていることも確かにあったが、彼らがそうではないことは自分にはなんとなく分かっていたので、そっとしておくことにした。


 邪魔しないように後輩を諭してあたりをしばらく廻っていた。


 顔色の悪い後輩と一緒に働いた期間は短くて、あのあと別の派出所へ異動になってしまっていた。それから顔を見ていない。まだ警官を続けているのだろうか。


 人付き合いの悪い男だったが、一度二人で焼き鳥屋に飲みに行ったことがある。


 酒癖が悪かった。途中からいくらなだめても「俺たちの仕事って、なんか意味あるんすかねぇ」と真っ赤な顔でうめくばかりだった。


 もっと格好のいい仕事ができると思ってあいつは警察官になったのだと思う。お巡りさんは退屈でしょうがなかったのだ。


 どんな仕事だって華やかな部分なんてごく僅かで、ほとんどの人は日の当たらない地道な作業をこつこつやっているもので、そういうのこそが大事なんだと言って聞かせたがあいつは納得できないようだった。


 知らない人とはまともに会話も出来ないような人見知りのくせに、いつか人々の心に光を照らすような大仕事をすることにあこがれ続けていた。


 あのときもっとなにか気の利いた言葉をかけてあげられるとよかったのだが。


 この前このくらいの遅い時間に、剣道バカの直行とあの星を見るのが好きな女の子が、ベンチに並んで座っているのを見かけたことがある。


 直行はサンドイッチを食べながらいろいろ話していて、女の子は楽しそうにけらけらと笑っていた。


 へえ、お似合いじゃないか。


 なあ、おい。きっとつまりはそういうことなんだよ。


 あのときお前はぶつぶつ言っていたけど、俺たちがあの二人の時間を守るためにこの公園のまわりを地道に見回ったことが、きっとあの子たちのいまにつながっているんだ。


 警官は誰もいない公園をもう一度見回して、去っていった。


 このさきどうなるかはもちろん誰にも分からないことだけれど、あの二人にとってずっと思い出に残るようなひとときに力を添えることが出来たのだとしたら、俺たちが務めを果たした甲斐はあったと言えるんじゃないか? 


 そんなもんでいいんだよ。


 いつかあいつにまた会うことがあったら、そう話してやろう。


  

             ―完―

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風と雷と義賊ねずみ小僧 のんぴ @Non-Pi

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