「殿、珍しいですね、あんなに熱くなってしまうなんて」
夜はだいぶ更けていた。
江戸の會津屋敷の廊下で、容保と照は並んで座っていた。
さきほどまではおぼろげに月の光が見えていたのだけれど、いまはすっかり隠れてしまっている。
「姉上には、恥ずかしいところを見られた」
「そんなことはないですよ。ただ、大地殿がちょっとかわいそうでしたね。あんなにこてんぱんにしなくともとは思いました」
容保が、苦みを含んだ笑みを浮かべた。
「実は痛いところを突かれましたから。わたしも、あの者のように考えることがたまにある。だからムキになってしまった。言葉をまくしたててしまった」
「殿は慶喜さまの下にずっといたから、あの人に似てきたのですかねえ。……おやおや、そんなに嫌そうな顔をしなくとも」
「嫌ではないですが」
容保は照の空いた杯に酒を注いだ。
「まったく……、うまくやっていけるのだろうか」
「殿、お体の具合は良いのですか?」
容保はさきほどから酒に一口も手を付けていない。
彼は子供のころから体が弱いところがあった。京都守護職の激務についてからも度々体調を崩していて、照は容保からの手紙でそのことを知っていた。
「姉上の顔を見たら、全部治りました」
それを聞いて、照はうれしそうに、さみしそうに、容保を見つめた。
「殿とこんな風にゆっくりするのは久しぶりですね」
「いまさらですが、ここは秋なのですね。わたしは冬の海にいた」
二人が会う時は、いつもまわりに他の人間がいた。大人になってからは特に。
そしてそれは勤めの一環としての面会であり、会話は事務的で儀式的なものがほとんど。
会津藩が企業だとすると、容保と照は社長と重役の関係に近いと言えば伝わるだろうか。
少なくとも、公の場ではそのように振る舞うことを求められてきた。
「照は、子供の頃が懐かしゅうございます」
「ほんとうですね。あの頃のわたしたちは、将来への不安はあったけれど、それと同時に希望もあった」
「わたしは今でも明るい未来を夢見てしまうことがある」
照の言葉のあと、会話が途絶えた。
この世界の容保はいま京にいる。會津屋敷の人々は、少しだけ未来から来たもう一人の容保がここにいることなど知るはずもない。気に留められていない。
彼はいま、生まれて初めて『枠の外』にいた。正しい振る舞いをしなくてもいいはず。
見上げる先に、月の光を隠す重い雲が、ほんの少しだけ白く見える。
「姉上」
「はい」
ささやくように答えた照も、薄白い空をただ眺めていた。
「……頼みがあります。あの男の様子を見てきてはくれませんか?」
「大地殿ですか? ……それがいいかもしれませんね。わかりました」
立ち上がり、廊下からゆっくり去ろうとする照の背中に、容保は声をかけた。
「姉上、夢ならわたしも見ますよ」
照は振りかえった。表情は良く見えなかった。
***
「どこかに行っちゃおうかな」
こっそり屋敷を抜け出した大地はもやもやしていた。
暗い江戸の夜道をうろうろしていたら、雨まで降って来た。
「あー、もうーっ!」
ひどいことになった。
何だよ、容保とかいうあのきらきらイケメンは。
どうして、あんな見るからに恵まれた陽のものを、わざわざ危険を冒して助けなければならないんだ。
俺やだよ。
でもそうは言えなかった。
小さな軒下を探して道端にしゃがみこんでしまった大地は、もうどこにも行きたくなかった。
「どういう状態ですか、これは」
照が、傘を差しだして目の前に立った。
「照さん、何もかも嫌になってふてくされていました。消えてしまいたい」
「だからって地べたに座っていてもしょうがないでしょう。あなた、そんなに酔うほどお酒飲んでましたっけ?」
「酔ったかもしれません、人生という酒に」
「わけのわからぬことを。帰りますよ、立って」
大地は照に連れられて、重い足取りで屋敷に戻った。
「開けますよ?」
「……どうぞ?」
大地の寝室として用意された部屋で、障子戸の向こうから照が現れた。ろうそくの明かりに彼女の穏やかな顔が浮かぶ。手には徳利を持っていた。
「お酒、もうちょっと飲むひと―」
気まずいきもちの大地をよそに、照は彼の横に座り、お酒を注いだ。
大地も無言で彼女の杯に酒を注いで返した。
照は一口酒をすすり、嬉しみとともに微笑みます。
「殿さまと喧嘩なんかして、照さんに嫌な思いをさせた。悪かったです」
彼女は静かに首を左右に振った。
「僕には、うまく言えないんですが……」
「なあに? ゆっくり聞きますよ」
「二通りの世界があって、栄えている町と廃れている町があったら、そりゃ栄えているほうがいいと思うものでしょうけど、廃れているとされているほうの会津にだって、そこに生きているたくさんの人がいるんだ。何とかしなきゃともがき続けている人がきっといるんだ。彼らのやっていることは無駄なのか? 僕は自分の人生がうまくいっていないからか、その人たちこそを肯定したくなってしまう」
照は大地の言葉を聞きながら、杯をゆらし、ろうそくの小さな火を見ていた。
「わかる。すごくわかる。……わたしはたぶん、大地殿のいろいろな気持ちがいちばんわかる。こんな世界無くなってしまえばいいと思った夜が、わたしにだってある」
「僕はどうしたらいいのだろう……。照さんに嫌な思いをさせたいわけじゃないのに」
「気にしないでください。弟が増えちゃったみたいで、嬉しく思っていますよ?」
大地は酒をくいっと飲み干した。
照に思いを吐き出して、彼は少し落ち着いたようだった。
「照さんは未来のことがどのくらい見えているんですか?」
「はっきりしないことが多いです。順番がばらばらだったりしますし。起こってみて、ああなんだ、このことか、という感じ」
「そういうものなんですね」
「ただ、未来というものは変わる可能性がいくらでもあるということを、わたしは視覚的に知っています。それは、努力によって報われる、とか前向きな意味合いでは決してなく、ちょこっとしたことで、大した理由もなく変わってしまう。わたしたちがやろうとしていることにほんとうのところどれほど意味があるのかはわかりません」
「不安定なものなんですね、そりゃ大変だ。……けれど、その不安定さは、僕にとって救いとも言えます」
しばらく二人は酒を酌み交わした。薄暗い部屋で、互いの小さな笑い声がろうそくの火のように揺れていた。
「それでは大地殿、照はおいとまいたします。また明日」
「うん、照さん、ありがとう」
照が微笑みながらふすまを閉めた。やさしい足音が遠ざかっていった。
……しかし、何故かすぐに戻って来た。ふすまがもう一度あいた。
「大地殿、大地殿、ご報告。今、そこに岬さんがいて、わたしと目が合うとなんとも言えない顔で向こうに行ってしまいました。すごく速足で」
「お……?」
戸惑う大地。照はあおった。
「速やかに追いかけた方が良いと思います」
「あー、やっぱりそう?」
のっそりとした動きで立ち上がる大地に、照はもう一度強めに呼びかけた。
「速やかに!」
追いかけた。
真っ暗な會津屋敷の廊下を大地は歩き回った。足音が響く。
「どこだよ。僕は何をやっているんだか」
そして岬を見つけた。
「江戸時代を満喫されているようで何よりね、偽もの大ちゃん」
「誤解だよ。僕がへこんでいたから、照さんは慰めに来てくれた。すっごい優しいんだよあの人」
「そ れ は よ か っ た ね ♡ 大ちゃんと同じ姿かたちで他の女性と仲良くされると腹立つのよ。あなたの存在自体が著作権の侵害よ。中身は全然違うくせに!」
「それはそうかもしれないけれど、……いや待ておかしいぞ? 自分だってお殿様にずっと目がハートだったじゃん。僕はみていたぞ」
「はあ? あなたには、……関係ない!」
ケンカはしばらく続いた。照が、離れた柱の陰から二人の様子を肴に杯を重ねていた。
そして夜が明けた。
かわひらこが集まった面々を見渡して、ため息をついた。
「……なんだか雰囲気が史上最悪でおじゃるな。これからやろうとしているのは空前絶後の大作戦なんですが、みなさまわかってるでおじゃるか?」