37(2024.8.26)
「それじゃあ、お留守番よろしくね。サム」そう言って、お母さんは買い物へ出かけました。
家の中にはサム一人だけ。怒られる心配のない、自由の身です。
さあ、何をして遊ぼうか。
サムはおもちゃ箱をひっくり返しました。沢山のおもちゃがやかましく音を立てて床に散らばります。どれも自慢のお宝です。
そこから栞を一枚、手に取りました。赤い押し花が封じ込められた、古ぼけた趣の栞です。何かの拍子に本棚から落ちて、間違えておもちゃ箱にしまわれたのでしょうか。
栞を正しい場所に戻そうと、本棚を物色するサム。せっかくなので、押し花に合う本に挟んであげたいところ。冒険譚、推理小説、怪奇小説、伝記に図鑑……。と、かすかに音が聞こえました。手元の栞を貝殻みたいに耳に当てると、
「出して出して、ここから出して」押し花が繰り返し訴えかけていたのでした。長いこと水を与えられずにいたからか、その声は老婆の干物みたいに乾いていました。
サムは、鋏で栞の上端を切って中身を救出しました。ちょっとばかし手元が狂って花弁が欠けてしまったものの、解放された喜びで満開の花は幸いにも気付いていないようです。サムは台所へ向かい、ボウルに水を薄く張って花を浸しました。
「嗚呼、極楽極楽。越天楽」花の顔にみるみる生気が宿り、頬に赤みがさしました。「ありがとう。生き返った気分だよ」そう言うと、か細い体に力を込めました。すると、花の周囲に大量の花弁が出現し、上品な香りとともにボウルをいっぱいに満たしました。「お礼に、この家を花で彩らせてくれないかい? きっと後悔はさせないよ」
驚きに目を見開いたサムは二つ返事で了承しました。
二か月後。サムは了承したことを後悔していました。
あの後、花は家の隅々を回って花弁を散らしました。当初、それはリラックスできる香りを適度に漂わせる程度の心地よいものでした。しかし、成長した花同士が廊下の隅や戸棚の裏で密かに繁殖し、その子孫たちも同様に……を繰り返した結果、家はすっかり花に侵食されてしまいました。深紅に染まった家を、突然変異的に誕生した子孫たち――蛸足めいた蔓をうねうね動かす植物や、花弁を足代わりに闊歩する植物――が所狭しにはびこりました。
気づいた時には手遅れでした。花の香りには思考を鈍らせるはたらきもあったのです。
ベッドの上で、頭から毛布をかぶって息を殺すサム。すぐ横を、象ほどにも大きな食虫植物が通過してゆきます。その足音が階下へ消えたのを確認して、サムが毛布を除けようとしたとき、何かがサムの肩を背後から叩きました。ぎょっとするサムの口を塞ぐ葉っぱ。
「静かに」それは栞の中にいた、あの花でした。「ごめんね。怖かったろう。こんなことになるとは思わなかったんだ。でももう大丈夫。今日は君をここから逃がすために来たんだ。ようやく準備が整ったんだよ。ほら、ベッドから出ておいで」
花に促されて開けたクローゼットは、奥の板がくりぬかれており、その先に小さなトンネルが真っ黒く伸びていました。「さあ、この中に入るんだ。早く」背後で戸が閉まりました。
サムは頭からトンネルに潜ると這い進みました。ですが、どこまで行っても出口が現れません。おまけに、穴が次第に狭まってきました。その場に留まってもなお縮小は止まらず、サムの肉体を圧迫し、圧縮し、圧倒し……。ついには全身が平面になってしまいました。
「あら?」掃除中、お母さんは何か薄っぺらいものを踏んづけました。拾い上げてみると、それはサムの全身が映った写真を押し花のように封じ込めた一枚の栞でした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます