26(2024.6.10)

「それじゃあ、お留守番よろしくね。サム」そう言って、お母さんは買い物へ出かけました。

 家の中にはサム一人だけ。怒られる心配のない、自由の身です。

 さあ、何をして遊ぼうか。

 サムはおもちゃ箱をひっくり返しました。沢山のおもちゃがやかましく音を立てて床に散らばります。どれも自慢のお宝です。

 そこから輪投げを一組、手に取りました。色彩豊かな輪と平たい輪投げ台のセットです。

 サムが放った輪は、それぞれ②、⑤、⑧に収まり、台の中央、縦一列に輪が揃いました。

 カモメたちが噂話にハマヒルガオを咲かせる海沿いの国道。そこを社用車で走る、浮かない顔の老人。彼が館長を務めている水族館は、経営不振が続いた末に今月末をもって閉館することが決定していました。アクセルをどれだけ踏んでも振り切れない、もやもやした憂鬱。

 ブラックコーヒーの香り混じりの溜息をついた時、海開きにはやや早い浜辺に人の姿が見えました。なんとなしに気になった館長は車を道路脇に停めて眺めました。

 それは、輪投げで遊ぶ幼い少年でした。童心そのものといった様子に、かつて水族館を訪れた子供たちの姿が重なりました。珍しい海の生き物に目を輝かせ、弾けた水飛沫を浴びてなお笑う少年少女。水族館を象徴する華やかで和やかな光景。そうだ、あれは確か、

「君」気付くと、館長は少年目指して駈けていました。「イルカショーに出てみないか?」

 それから数週間が経過し、水族館の大型プールにて、正装に身を包んだ館長が語りかけます。「皆さま、本日は当館にお越しいただき誠にありがとうございます」観客席にはまばらに人がいるのみで、あとはみな空席です。「このイルカショーが、当館から皆様への最後の贈り物となります。それではどうぞ、どうか、最後までお楽しみください」

 プールサイドにサムが現れました。その手には、サムの背丈ほどもある大きな輪が握られています。両腕を目いっぱい伸ばして輪を縦に構えると、水面がゆらぎ、一頭のイルカが大きくジャンプして潜り抜けました。真っ黒い皮膚は老いてやや弛んでこそいますが、それでも長年のブランクを感じさせない堂々たるジャンプでした。

 水飛沫がかかった老夫婦が静かに会話します。「おまえ、覚えているかね。わしらが初めてデートした時も、こうやって水飛沫を浴びたのを」「覚えていますとも、あなた。ちょうど五十八年前、小学四年生の夏でした。あなたの濡れた麦わら帽子。ああ、懐かしいわ」

 着水して顔だけを水面に出すイルカ。サムは続いて、小振りな輪をいくつか手に取りました。それらをプールのあちこちへ投げると、イルカは鼻先で巧みにキャッチしてゆきます。

 親の財布からくすねたお金で水族館を訪れた登校拒否の中学生が、無言でインスタントカメラのシャッターを切りました。現像された写真が足元にどんどん増えてゆきます。

 サムは再び大きな輪を持ち、今度は水面と平行になるよう構えました。滑らかに近づいてきたイルカが天高くジャンプして輪を潜り抜けると、鼻先にまとっていた小さな輪が散らばって稚魚のように空を泳ぎ、サムの傍らに綺麗に積み上がりました。

 観客全員が拍手を送りました。数の多さではなく感情の深さにおいて、それらは一億人の拍手にも匹敵しました。「以上をもちまして、当館は閉館いたします。ありがとうございました」館長アナウンスが、古びたスピーカー越しに嗚咽めいて館内に響きました。

 帰り際、館長はサムに小さな袋をくれました。「どうぞ。当館特製の入浴剤だよ」

 その晩、サムはいつもより早くお風呂に入りました。湯船の上で袋を開けてひっくり返しました。中には何も入っていませんでしたが、お湯は確かに海の香りがしました。

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