32(2024.7.26)
「それじゃあ、お留守番よろしくね。サム」そう言って、お母さんは買い物へ出かけました。
家の中にはサム一人だけ。怒られる心配のない、自由の身です。
さあ、何をして遊ぼうか。
サムはおもちゃ箱をひっくり返しました。沢山のおもちゃがやかましく音を立てて床に散らばります。どれも自慢のお宝です。
そこからオルゴールをひとつ、手に取りました。殻を大きく開いた真珠貝に、透明なガラス球を嵌め込んだ意匠のオルゴールです。ガラスの内側では、純白の肌をしたバレリーナが佇んでいます。両目を閉ざし、最高のパフォーマンスに向けて意識を集中しているようです。
フジツボみたいなゼンマイを回すとオルゴールが歌い始めました。地下室に古くから棲むピアノの鍵盤に真珠を落としたら、こんな音色が鳴ることでしょう。詞のない歌を伴奏に、バレリーナが踊ります。両手と右脚を優雅に上げて、球形の舞台をクル、クル、クル……。
外では、小振りの雨が窓を控えめに叩いていました。ありふれた日常の音も、オルゴールの魔法で不思議と演奏めいて聴こえるのでした。サムは机に頬杖をついて、耳を傾けました。
とはいえ、音楽も踊りもいつかは終わる時が来ます。それらが次第にゆっくりと、やがては完全に止まると、バレリーナは真珠貝の舞台の中央に立って優雅にお辞儀をしました。
直後、バレリーナの右腕がポキリと折れ、足元に落下して硬質な音を響かせました。
サムは右腕を拾い上げようと駆け寄りましたが、ガラスにあっけなく阻まれました。その隙に、どこからともなく人々が劇場内に現れて、我先にと舞台上の腕に群がりました。揉みあいの末、ドレスで梱包したハムみたいな夫人が腕をしっかと掴んで頭上に掲げました。それは真珠のような冷たい輝きを放っていました。ぜえぜえと息を乱して笑う夫人の汗が涎のように滴って、貝殻のくぼみに溜まりました。
人々が客席へ戻ると、再び音楽が流れ始めました。隻腕のバレリーナは、何事もなかったかのように踊りを再開しました。窓を誰かがコツ、コツ、とノックしていました。
オルゴールが止まると、バレリーナの左脚がポキリと折れました。すると、観客達による脚の奪いあいが始まりました。灰皿のような目を血走らせた老紳士が左脚をトロフィーのように抱えて客席へと戻ってゆく姿を、敗者たちは羨望の涎を垂らして凝視しました。
音楽と踊りが再開して、止まりました。折れた左腕めがけて観客が群がりました。鼻より大きなニキビを生やした子供が、肩まで裂けた口で腕にしゃぶりつきました。
見るも無惨なバレリーナは、なおも倒れることをよしとせず、片脚でバランスをとりながら次の演奏を待っているのでした。サムは何度もガラスを殴り、もうやめろと叫びました。ヒビすら入らない、音も通さないガラスに、それでも真っ赤に腫れた拳を叩きつけた時、
窓ガラスが勢いよく割れて、揃いの武装を身に付けた男たちが侵入してきました。
「警察だ!」銃を構えた侵入者たちが鋭く叫びました。そして銃を構えました。
「警察だ!」観客たちの顔が一斉に青ざめました。そして出口へ殺到しました。
武装警察は、闇取引の参加者たちの尻をひとつずつ正確に撃ち抜きました。即死した尻はその場で崩壊し、逃げようと躍起になっている宿主をたちまち行動不能にしました。
バレリーナの目が初めて開きました。周囲を見渡しました。サムと目が合いました。一緒に逃げよう、とサムが叫びました。彼女は涙を流しました。自身の首をポキリと折りました。
サムは目を覚ましました。雨は止んでいました。机の上にオルゴールがありました。
そのオルゴールには、バレリーナの人形なんて最初からありませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます