31(2024.7.15)

「それじゃあ、お留守番よろしくね。サム」そう言って、お母さんは買い物へ出かけました。

 家の中にはサム一人だけ。怒られる心配のない、自由の身です。

 さあ、何をして遊ぼうか。

 サムはおもちゃ箱をひっくり返しました。沢山のおもちゃがやかましく音を立てて床に散らばります。どれも自慢のお宝です。

 そこから釣竿を一本、手に取りました。軽くて扱いやすい、おもちゃの釣竿です。先端には、プラスチックの疑似餌が最初からくっついています。

 サムは子供部屋の窓を開けました。外では大粒の雨がザアザアと降っています。地面はとっくに水浸しで、植木鉢が道路を泳いでゆくのが見えます。町全体が海へと変化してゆくなか、サムは静かに釣り糸を垂らしました。

 工場の煙突から昇る煙が空で雲となる様子を眺めていると、くい、と引っ張られる感覚を手に受けました。サムは急いでリールを巻きました。たやすく釣り上げた獲物は、サムの小指ほどしかない魚でした。透明な体には、内臓の代わりに何やら黒い液体が満ちています。

 魚はサムに語りかけました。「外に向かって、わたしの口を開いてごらん」

 言うとおりにすると、魚の口から黒い液体が一気に吐き出されました。香ばしいような、嗅いだことのない匂いが鼻をつきました。慌てて閉めるも遅く、中身はすべて眼下の水流へと呑まれてしまいました。水がたちまち黒く濁り、例の匂いが町中に漂い始めました。

「これでより良い獲物がかかるようになった」魚が言いました。「だから見逃しておくれ」

 サムは逡巡したのち、魚をリリースしてやりました。それから再び釣竿を垂らしました。

 頭上の雲が厚みをさらに増してゆくのを眺めていると、ぐい、と引っ張られる感覚を手に受けました。多少の駆け引きを経て釣り上げた獲物は、気味の悪い外見をしていました。緑色で、木の幹みたいに硬くてイボだらけ。頭はありません。ヒレもほとんどなく、唯一、根本から幾本にも枝分かれした、これまた硬い指みたいな尾ビレが生えているばかりです。

 何かは、どうやってかサムに語りかけました。「わたしを尖ったもので擦ってごらん」

 言うとおりに窓枠の角で擦ると、それは簡単にすりおろされました。緑の柔らかな塊が足元に積もり、ツン、と鼻を貫く、それでいて妙に爽やかな香りがしました。やがて、尾ビレだけを残して何かは完全にすりおろされました。

「これでより良い獲物がかかるようになった」塊が言いました。「だから見逃しておくれ」

 サムはためらうことなく何かをリリースしてやりました。塊は水に溶け、例の香りが町中に漂い始めました。サムは再び釣竿を垂らしました。

 雲が喉をゴロゴロ鳴らし始めたころ、グイグイ、と強烈に引っ張られる感覚を手に受けました。死闘の末に釣り上げた獲物は、お見事! サムの背丈よりも大きな鯛でした。しかもそれは、鱗がなく、胴体が側面から細かく刻まれたようなかたちをしていたのです。

 希少種だ! 快哉を叫ぶサム。香ばしくツンとした香りをまき散らして撥ねる大物を前に、まずは記念写真を撮らねばと、インスタントカメラを取りに窓際を離れたその時、

 ピシャッ! 激しい稲光が町を包みました。サムの視界は一瞬で真っ白になり、足がすくんで動けなくなりました。視界を取り戻した時、鯛は室内から忽然と消えていました。動揺して窓際に駆け寄ると、天からニュッと伸びた巨大で毛深い腕が、細長い二本の棒の間に鯛を挟んで雲間へと撤収してゆくのが見えました。

 そういうわけで、サムはこれまで刺身を食べたことがないのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る