5(2024.1.15)
「それじゃあ、お留守番よろしくね。サム」そう言って、お母さんは買い物へ出かけました。
家の中にはサム一人だけ。怒られる心配のない、自由の身です。
さあ、何をして遊ぼうか。
サムはおもちゃ箱をひっくり返しました。沢山のおもちゃがやかましく音を立てて床に散らばります。どれも自慢のお宝です。
そこから、ピアノを一台、持ち上げました。もちろん本物ではなく、サムの力でもたやすく運べるような、おもちゃのピアノです。それを窓際に据えると、真っ黒い表面が艶やかな光沢を放ちました。
サムは、ピアノからやや離れたクローゼットに潜り込みました。戸をほんのちょっとだけ開けて、隙間から外の様子をうかがいます。
会場に、少しずつお客さんが入ってきました。クマにキツネに、サルにブタ。老いも若きも毛皮の色も、実に多様なぬいぐるみ達。彼らは黒ずくめのスタッフに抱えられ、各自の席に座ります。どの顔もふわふわとした期待で満ちています。最後にネコがちょこんと座れば、これにて満員御礼です。すると場内アナウンスが、
これより、リサイタルを開演いたします。
カーテンが閉まると会場は速やかに薄暗く、そして静かになりました。
サムは蝶ネクタイの角度を直してから、クローゼットの戸を両手で力強く開けると、堂々たる姿勢で歩き出しました。ピアノの前に立つと、観客の方を向いて一礼。ぺこり。
ぱちぱちぱち。ぬいぐるみに内蔵されたスピーカーが上品な拍手を送りました。
アナウンスが曲名を告げます。『ミニマリストのウロボロスのための前奏曲』
椅子に座って深呼吸して、ゆっくり指を鍵盤に乗せて、
ド―――。緊張で満ちた空間に響くたった一音。そのまま慎重に指をずらして、
レ―――。最初の音の残滓が消えるより早く、新たな音を上から塗り重ねます。
ミ―――。本当に思わず、といった風に、誰かが唾をごくりと飲み込みました。
ファ――。会場の温度が上昇したのを、そこにいる誰もがしかと体感しました。
ソ―――。空間全体が一個の心臓と化して、ピアノに拍動のリズムを添えます。
ラ―――。クライマックスへの期待から、壁や天井が内側から膨張しています。
シ―――。ああ、もう今にも破裂しそうです。とうとう指が最後の鍵に触れた!
ド―――。…………………………………………………………………………沈黙。
最前列に座っていたヤギのぬいぐるみが、スタッフの助力のもと、すっくと起立しました。
「Bravo!」内臓スピーカーからの声とともに、柔らかい蹄をぽんぽん打ち鳴らすと、それを契機に、観客が一斉にスタンディングオベーション。綿の拍手。ワタの賞賛。
見事な演奏を成し遂げたばかりの腕を優雅に振って、サムも彼らの声に応えます。
「Bravo!」ワニに、「Bravo!」カニに、「Bravo!」ウニに、ありがとう。
内臓電池がすべて切れた後も、サムの耳には彼らの賞賛が聞こえ続けました。
その夜。食事を終えてすぐ、サムはお母さんのために特別リサイタルを開きました。
ド―――。最後の音が完全に聞こえなくなってから、
「どう? どう?」きらきらとした瞳で見上げてくるサムの頭を、
「やるじゃない」お母さんは、ぽん、ぽん、と優しく撫でました。
廊下では洗濯機が、ごうごうと唸りを上げてサムのシャツやパンツを洗っていました。
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