29(2024.7.1)

「それじゃあ、お留守番よろしくね。サム」そう言って、お母さんは買い物へ出かけました。

 家の中にはサム一人だけ。怒られる心配のない、自由の身です。

 さあ、何をして遊ぼうか。

 サムはおもちゃ箱をひっくり返しました。沢山のおもちゃがやかましく音を立てて床に散らばります。どれも自慢のお宝です。

 そこからゴム製のおもちゃをひとつ、手に取りました。丸くて黄色いボディが可愛いアヒルのおもちゃです。背中とお腹を指で挟んで押すと、生まれたての赤ちゃんみたいに、

「プゥア」と甲高く鳴きました。

 サムは風呂場へ行き、湯船に水を張りました。深さ一〇センチのところで鳥あえず蛇口を閉め、まだかまだかと鳴いているアヒルをそっと浮かべてやりました。気持ちよさそうに泳ぐアヒル。水加減はどうだい、と尋ねると、

「プゥア」と甲高く鳴きました。

 ぷかぷか、プゥアプゥア。ゆらゆら、プゥアプゥア。

 気ままに漂ううち、彼方から近づいてくる小さなシルエット。それもまたアヒルでした。互いを観察するアヒルたち。不安定な足元のせいでなかなか合わない目線がようやく重なった瞬間、二羽は相手を夫/妻とすることを決めました。

 それじゃあ、鳥ますよ。蝶ネクタイ/リボンで着飾った新婚夫婦の正面に立って、サムが声をかけました。今日は結婚式です。巨大な桶に似た形状の水上都市に建つガラスの教会が、水面から吸収した光で輝いています。シャッターボタンに指を当て、一足す一は、と尋ねると、

「「プゥア」」と甲高く鳴きました。

 おやおや、みんな、すっかり大きくなって。久しぶりにアヒル夫妻の家を訪れたサムが顔をほころばせました。扉も屋根もない、周囲を桶みたいに区切っただけの簡素な家。そこを所狭しに走り回る色鳥どりの子供たちは、彼らを見守る両親と寸分変わらぬ大きさです。コ鳥と置かれたマグカップに注がれた、鉄分豊富な風味の水をひとくち飲んでから、サムはおみやげを袋から鳥出しました。さあ、カステラを食べたいアヒルはいるかい、と尋ねると、

「「「「「プゥア」」」」」と甲高く鳴きました。

 海をいつも明るく照らす白い太陽が、その日は姿をくらましていました。昨夜、突然の連絡を受けたサムは、受話器の向こうの弱弱しい鳴き声に心配して、鳥急ぎ駆けつけました。タオルを丸めたベッドを囲む、父アヒルと子アヒルたち。横たわる母アヒルは明らかに色褪せています。不治の病だ。サムは一目見てさ鳥ました。縋りつくようにサムの診断を待つ親族たちに、目を伏せて小さく告げました。もう長くはない。

 プゥア、とは誰ひ鳥として鳴きませんでした。

 長い歳月が経ちました。妻/母を亡くした悲しみに一度は沈んだアヒル一家でしたが、やがて立ち直り、ふたたび前を向くようになりました。まだ見ぬ水平線の先を求めて旅に出た子アヒルがいました。真面目で誠実な若者と恋に落ち、順風満帆に嫁いでいった子アヒルがいました。学者を夢見て陸の学校に入学した子アヒルがいました。

 深さ九センチとなった海を、サムと父アヒルは何をするでもなく眺めていました。広大な世界に二人だけ。まるで最初の日と同じだね、と尋ねると、

「プゥア」と空気が抜けるみたいに鳴いて、ゆっくりと目を閉じました。凪が止みました。

 サムは子供部屋に戻りました。手のひらが一面、皺だらけになっていました。

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