第3隻
一夜明け、ナタリーの一瞬の閃きははっきりと輪郭を持った観念に変わっていた。
あの日聞いたミゲルの言葉が間違いではないと分かった以上、このまま婚約を続けることはどうしても出来ない。
そもそもこの婚約自体、ナタリーの気持ちで成り立っていたところが大きい。
バース子爵は決して腹の白い人物ではない。ナタリーの父に媚を売りながら、内心では准男爵であることを理由に見下していることが透けて見えていた。ナタリーのことも金の卵を産む鶏としか見ていなかっただろう。
子爵夫人とて、快くナタリーを受け入れていた訳ではない。金の為には致し方ないというように、最小限の関わりをしていたに過ぎなかった。
商会にとっては害のない結婚だが、ナタリー個人にとっては、決して手放しで幸福になれる結婚ではなかった。
それも全て、ミゲルへの愛こそだ。
彼を愛していた分、その裏切りが許せず、それ以上に嫌悪感を強く感じていた。
親友の妻と、それも親友の同意の上で2年以上も関係を続けるなど、あまりに異常だ。
その爛れた関係を想像するに、ナタリーは鳥肌を立てた。
ミゲルとの結婚は、もはや生理的に無理だった。
けれど現実問題、ミゲルとの婚約破棄はそう簡単に出来るものではない。
いや、正確には、婚約を破棄をするだけでは駄目なのだ。
これまでミゲルとの婚約があったからこそ、ナタリーの財産を狙う有象無象から逃れてきたのは間違いない。婚約者が居てもなお、どうにかナタリーを落とそうとする輩は後を絶たなかった。もしも婚約破棄したならば、もっと恐ろしいことになるのは目に見えている。
ミゲルとの婚約でファンネル家が得る利益は、貴族との縁を持つことだけ。それならば極論、貴族であれば他の家でも支障ない。
けれどあまりにも冴えない貴族では駄目だ。少なくとも、バース子爵家に対抗できる家でなければ。
そこで思いついたのが、ケヴィン・アンカーだ。
前妻のこともあり、現在彼に婚約者はいない。しかしケヴィンはナタリーより7つ上の28歳。そろそろ本格的に妻を娶り後継者を作らねばならず、爵位も気にせず婚約者を探しているというもっぱらの噂だ。そして何より、アンカー辺境伯は領地も家も裕福とは言えず、ナタリーの財産は魅力的に映るはずである。
噂ほど恐ろしい人物には見えなかったことが、ナタリーの背中を押す。
身分の差はあれど、賭けてみる価値はある。そう考えた。
既に昨日、キールにアンカー辺境伯家の情報収集を依頼している。
実際の財政状況や辺境伯家内の人間関係。それから、前妻の死の真相について。
出来るだけ早く情報を手に入れたい。一刻も早く、婚約を破棄するために。
ナタリーは執務室の隣にある書庫からいくつか本を見繕い、自分でも情報を叩き込んでいく。
大きな取引を持ちかけるには、まずは相手をよく知ることから。商売の基本だ。
アンカー辺境伯領の地理や産業、魔獣のこと、彼の地に関することをナタリーはよく知らない。
自分でも驚くほど、これまで商売の話に上がってこない。それだけ、資源に乏しい土地なのだろう。
執務室のデスクに座り、しばらく集中してページをめくっていたナタリーは、コンコンと控えめなノックの音に意識を浮上させた。
返事をすれば、メイドがドアを開け、頭を下げる。
「お忙しいところ失礼致します。バース小子爵様がいらっしゃっております」
「……っ」
ナタリーは思わず息をのんだ。
一昨日、何も言わずに帰ったのだから、近々訪ねてくるだろうとは思っていた。けれどまだ心の準備が出来ていないのだと思い知る。
まだ会う訳にはいかない。今後の方向性を定めない限りは、何を話していいのかも分からない。
何よりも、ミゲルの顔を見たくないと思った。
「調子が優れないから、お会いできないと伝えて」
「かしこまりました」
恭しくお辞儀をして、メイドは部屋を出ていった。
職務に忠実なメイドだ。そのままの言葉で伝えるだろう。
(ミゲル、変に思うかしら。……いえ、構わないわ。もう、彼とは終わりなんだから)
愛の
いや、愛というよりも、これまでの穏やかで幸せな日々への懐古だろうか。
何にせよ、ナタリーの気持ちを元に戻すほどではない。
頭を振り熱を追い出すと、再びメイドがやってくる。手には、赤い薔薇の花束があった。
「バース小子爵様より、お見舞いだとお預かりしました」
薔薇の花束を見つめ、ナタリーは嘆息する。
お見舞いだというのに、真っ赤な薔薇とは。
(ミゲルはいつも薔薇の花ね。もっと控えめで可愛らしい花が好きだと伝えているはずなのに……)
何度か自分の好みを伝えても「婚約者に贈る花は薔薇に決まっている」と言って行動を変えないような頑固さがミゲルにはあった。
薔薇でももちろん嬉しいと思ったし、感謝を伝え部屋にも飾っていた。
けれど自身の好みからすると少々派手すぎる薔薇を部屋に飾っていると、つい苦笑してしまうこともあった。
薔薇は愛情を伝える花だから、ナタリーは自分が愛されている証だと思っていた。
しかし今考えると、ナタリー自身の好みなどどうでも良かったのではないかと思える。
ただ典型的な贈り物を押し付けていただけに過ぎないのだと。
「そう……。使用人のみんなで分けてくれる?」
「よろしいのですか?」
「ええ。花に罪はないのだし。でももう、それを視界に入れたくないの。早く持って行ってもらえる?」
「かしこまりました」
メイドが花束を抱えたままパタリとドアを閉めて出ていった。
薔薇の香りが残っている気がして、思わずナタリーは窓を開ける。
一刻も早く、この匂いを消し去りたいと思った。
それから、三日。
キールは期待通り、アンカー辺境伯家の情報を一通り仕入れてきた。
ケヴィンが十二の頃、彼の父である前辺境伯は魔獣との戦闘で命を失い、彼は幼くして辺境伯の地位を手に入れた。
剣の才能には恵まれていたが、それでもまだ未熟で、魔獣の討伐で顔に
美しい顔に負った深い傷への衝撃に、辺境伯の重圧も相まって、ケヴィンは領地からほとんど出ることがなくなった。
社交のシーズンには皇都に出てくることもあるが、ほとんど挨拶をするだけで帰ってしまうという。
噂通り、財政状況は芳しくない。
領地に産業がないために国から支払われる対魔獣用国防費が主な財源となっている。
ケヴィンから皇宮へ予算の増額を度々申請しているようだが、いつも上手いこと躱されているのが現状だった。
領地でのケヴィンの評判は悪くなく、皆に慕われている。
何らかの不正や悪事に手を染めることもなければ、皇都で聞くような『残虐』と罵られるような事実は何も出てこなかった。
前妻に関しては、得られる情報が少なかったと、キールはこぼした。
というのも、前妻はほとんど自室から出ることがなかったそうだ。
噂では初夜をケヴィンに拒否され絶望していたというが、どうやら拒否したのは彼女の方というのが正しいらしい。
日々泣き暮らし、ケヴィンともほとんど顔を合わせることがなかったという。
結局結婚後1年を経たずして、自ら城壁に登り、身を投げた。
何か直接的な原因があったにしては何も情報が出てこなかったため、アンカー辺境伯領自体もしくはケヴィン自身に忌避感があったのではないかと考える方が無難と言えよう。
そのせいか、屋敷での前妻の評判はかなり悪い。
それだけ、ケヴィンが慕われているということの現れでもあるのだろう。
キールの報告に、ナタリーは大いに満足した。
間違いない。彼しかいない。
「私、アンカー辺境伯様に結婚を申し込むわ」
「まあ。それって本気なの?」
真っ赤に塗った指先を口にあて、キールが呆れたように声を上げる。
今日のキールは、目が覚めるほどに美しい女性の姿だった。
相変わらずの不遜さでソファに寄りかかり、深いスリットの入ったスカートから組んだ艶めかしい足が覗いている。
ミゲルに『ペラペラ』と評されたナタリーとは真逆の体つきだ。
「本気よ。やっぱり私の人を見る目は確かね」
「自分の婚約者の本性を見抜けなかったのに、何言ってるの」
キールの軽口に、思わずナタリーは落ち込んでしまった。
その通りだった。ナタリーはこれまで人を見る目には自信があり、商売人としても自身のその能力を信頼していたにも関わらず、最も近くに居た人物の本性に気付かなかったのだ。
恋は盲目とは言うが、自信をなくすには十分すぎる出来事だった。
「もう。冗談よ。近すぎて見えないってこともあるものね」
「だといいのだけど……」
キールはナタリーの不安そうに揺れる瞳を見つめてくすりと笑い、一枚の紙を差し出した。
「じゃあ、いい物をあげる」
「これは?」
「アンカー辺境伯家の周辺の要注意人物リストよ。本当に行くなら、頭に入れておいた方がいいわ。サービスよ」
本来情報屋は、依頼された以外の情報は渡さない。当然だ。情報を制限し意図的に開示することで成り立つ仕事だというのに、対価なく情報を教えるのは御法度だと言える。
それでもナタリーにサービスと称して情報。与えたのは、キールがナタリーを気に入っているからに他ならなかった。
「いいの……?」
「ええ。相手を変えてもそっちでも苦労したら嫌じゃない」
「ありがとう。読ませてもらうわ」
満面の笑みで、ナタリーは紙を抱きしめた。
心が弱っているのだろう。人の優しさが妙に沁みる。
「そろそろ、あっちの方もどうにかした方がいいわよ。さすがに怪しんできてるわ」
「そうね。昨日もまた来ていたし」
『あっち』とはもちろんミゲルのことだ。
昨日もお見舞いとして家に来たが、3日前と同じ理由で追い返していた。
直接会うことを許さず、手紙も一切送っていないため、おかしいと思うのが普通だろう。
ただナタリーがメイドから聞いた限りでは、どちらかと言うと、そこまで体調が悪いのかと心配している様子だという。
愛はなくともそれだけの情はあるのだろうかと一瞬考え、いや、金のためにご苦労なことだとは首を振った。
仮に本当に心配していたとして、だから何だとも思う。
ナタリーがやることは、何も変わらない。
「大丈夫。あとはこれを出すだけだから」
そう言ってナタリーは、一通の封筒と紙の束をキールに見せたのだった。
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