第5隻
「今……なんと?」
「私と結婚してくださいと申し上げました」
アンカー辺境伯家の客間。
急な訪問にも関わらず、意外にもナタリーはすんなりと中に案内された。出掛けにタウンハウスに返した連絡を聞いたのかもしれない。
決して豪華とは言えないが、手入れの行き届いた客間に案内されしばらく待つと、ケヴィン・アンカーその人が現れた。
あの日は状況が状況で、しかも夜だったこともあり、ナタリーはケヴィンの顔以外の外見をあまり覚えていなかった。
改めて目にするケヴィンは、魔獣との戦いで鍛えられているのかかなりがっしりとした体格をしている。皇都の騎士団など目ではないだろう。女性にしては背の高いナタリーが首が痛くなりそうなほど、背が高かった。
前回と同じように鼻から首までぴたりと沿う黒いマスクを着用しており、同じく黒い服と黒髪というのが威圧感を増している。
しかし、前髪から覗く瞳は美しい翡翠色だった。
ケヴィンはその美しい瞳に警戒と困惑の色を載せて、一体今自分は何を言われたのかとナタリーを見つめていた。
「何故、私があなたと結婚を?」
「現在伯爵様は婚約者をお探しだとか。私は准男爵の娘……つまりただの平民ですが、莫大な資産と商会があります。私と結婚していただければ、ここは私の家になる。私にはもう家族がありませんから、アンカー辺境伯家とその領地の為に尽力することが出来るでしょう。失礼ですが、伯爵様にもこの領地にも、必要なものではないでしょうか」
「……確かに、我が家は経済的に苦しい。だが、あなたには何の得がある。それにあなたには婚約者が居るのではなかったか」
ナタリーは思わずきょとりと目を
とはいえ、ナタリーがかなりの有名人であることも確か。噂が彼の耳にまで入ったのだろうと自分で納得した。
「おっしゃる通り、私には婚約者が居ます。ですがもうすぐ、居なくなる予定です。こちらを訪ねる前に、婚約破棄の申出をしてきましたから」
そろそろ書類を目にして、焦ってナタリーの家に押しかけている頃だろう。
婚約破棄が一筋縄でいかないことは、ナタリーとて重々承知している。けれど彼女には父親仕込みの交渉術があった。
何もただミゲルの不貞を
バース子爵は決して無能な人間ではない。すんなりとはいかないだろうが、交渉次第で引き際を見定めるだろう。
「婚約破棄……。またどうして」
「私の婚約者が、不倫をしていたのです。しかも、彼の親友の妻と。私たちは政略結婚というよりも、恋愛結婚に近い関係でした。私は彼を愛していたし、彼も私を愛していると信じていたのです。だからこそ、彼の裏切りには耐えられませんでした。ですが私もなにぶん持っているものが大きいですから、いつまでも未婚でいるのは危険です。そこで、自分の身を守るため、伯爵様にお願いに参った次第です」
「つまり、私を防波堤にしたいと。そいうことか」
ケヴィンの声が固くなる。
「愛した男に裏切られたから、お前が代わりに私を守れ」と言っているいようなものだ。
良い気分になる男はいないだろう。
「災難だったとは思う。あなたの婚約者が男の風上にも置けない人物なのは間違いないが、些か礼を失しているのではないか?」
あの日の夜に見た柔らかな雰囲気とは異なる、厳しい目。
さすが『北の怪物』と恐れられるだけある。その眼光は相手を一瞬で萎縮させる力があった。
ナタリーは、恐怖で震えそうになる手をぎゅっと握り締め、再度口を開いた。
「失礼は百も承知です。ですが大きな取引だと思ってくださいませ。あなたは妻を娶り、領地を守れるだけの財を得る。私は身を守りつつ婚約破棄が出来る。これほど理に適った取引もございません。私以上にアンカー伯爵家に利益をもたらせられる者も存在しないかと思われますが、いかがでしょうか」
ナタリーは自分という商品を取引する商談のつもりでケヴィンに迫った。
自分で言いながら、実際のところ自信はなかった。辺境伯ともあろう男が、平民など妻に迎え入れるだろうかと不安があったからだ。
それでなくとも、自分に女としての魅力がないのは重々分かっていた。
ミゲルに『ペラペラ』と揶揄された体が恨めしい。背ばかり高くて凹凸が少ないことは自分がよく知っている。
もっと美しければ、それだけで交渉材料になったのに、とナタリーは
だからナタリーに切れるカードは、金しかない。
これは、一種の賭けだった。
ケヴィンはじっとナタリーの瞳を見つめた。その翡翠色の瞳で見つめられると、ナタリーは全て見透かされたような気分になる。
しかし目を逸らしてはならないと、決して視線を外すことはなかった。
しばらくして、ふっと、ケヴィンの瞳が緩んだ。
「…………いいだろう。その申し出、受け入れる」
「ほ、本当ですか!」
自分で持ちかけながら、ナタリーは驚いてしまった。まさかその日のうちに決断してくれるとは思わなかったのだ。
「近頃、身を固めろと周りがうるさくてな。それにあなたの言うように、あのファンネル家の資産が魅力的なのは間違いない。悪くない取引だ」
「ありがとうございます……!」
空気が和らいだ所を好機と見たのか、メイドが冷めた紅茶を淹れ直した。
その流れるような一連の流れを見つめ、ナタリーは緊張の糸が解れるのを感じた。
湯気が立ちぼるカップに口を付け、カラカラになった喉を潤す。
ケヴィンはせっかく新しくなった紅茶を見つめるだけで口を付けず、足を組み替えた。
「しかし、本当にいいのか。私とあなたで、その……子を成すことになるのだぞ」
「……もちろんです。貴族の方々はみな利害関係で結婚し、子を成すものですよね。覚悟は出来ています」
「
ケヴィンが小さく独り言ちる。
その呟きは、ナタリーの耳に入ることはなかった。
「ならば、伯爵夫人としての対外的な勤めは不要だ。後継者が出来ればそれでいい。商会ももちろんそのまま続けてくれて構わない。あなたに最大限の自由を与えよう」
ナタリーは思わず拍子抜けして固まった。
てっきり結婚するなら貴族夫人としての勤めはしっかり果たせと言われるものかと思っていたのだ。商会に関しては、このまま商会長を続けられるよう交渉するつもりでいたのだが、まさかその必要もないとは。あまりにもナタリーに都合のいい話だ。
それとも、平民ごときに貴族の真似事は期待しないということだろうか。
「ただ、愛だの恋だのは期待しないでくれ」
「問題ありません。愛がなければ傷付きませんもの」
何はともあれ交渉が上手くいったと晴れやかな顔のナタリー。
反対に、彼女の歯に物を着せぬ言い振り苦笑するケヴィン。
どうにも噛み合っていないように見えて、存外空気は穏やかだ。
「よろしく頼む」
「では契約書を
「あ、ああ……」
まるで止まることを知らない激流のような喋りである。
ケヴィンは完全にナタリーの圧に押さていた。可憐な見た目に反して、生粋の商人らしく言葉に淀みがない。
こうなったらナタリーの独壇場だ。
あれよあれよという間に契約書が認められ、あっという間に決め事がまとめられてしまった。
「それでは一度ファンネル家に戻り、諸々揃えてまたこちらに戻って参ります。その頃には、正式に今の婚約を破棄して、伯爵様の婚約者となっていることでしょう」
認めた書類を綺麗にまとめ、机でトントンと叩きながら、にこりと笑った。
「不祥ナタリー・ファンネル、アンカー伯爵夫人を精一杯務めさせていただきますわ」
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