拝啓、婚約者様。私は怪物伯爵と仲良くやっていくので貴方はもういりません
九重ツクモ
第1隻
色とりどりのドレスがくるくると舞っている。
人々の談笑する声があちこちから聞こえ、煌びやかなシャンデリアは蝋燭の灯りを反射して会場に惜しみなく眩さを降り注ぐ。
まさに今、ボラード伯爵のタウンハウスで、伯爵子息の結婚を祝うパーティーの真っ最中だ。
(ミゲルはどこかしら……。まだ挨拶が終わっていないのに)
ナタリーは人の合間を縫い、アンバーの瞳をきょろきょろと動かして婚約者を探している。
もう小一時間、ミゲルの姿は見えない。
(またフィリップ様とシガーかしら。もう、いつもこうなんだから)
ナタリーは一人ため息をつくと、会場を後にした。
ナタリーはファンネル准男爵の一人娘である。
いや、だったと言った方がいい。この帝国の准男爵位は一代限りの爵位であり、その爵位を賜ったナタリーの父は、既にこの世を去っているからだ。
つまりナタリーは、単なる平民にすぎない。しかしその資産額はこの国一、皇室にも匹敵すると言われている。
蒸気機関を利用した画期的な造船技術により、この国の物流を50年は前進させたと言われる功績で、ナタリーの父が陞爵されたのは20年前のこと。その後も造船業から海運業、ひいては貿易業まで裾野を広げ、莫大な資産を築くに至った。
けれど3年前、不慮の事故によりナタリーの父は他界した。よって莫大な資産は全てナタリーが相続することとなった。
資産だけではない。父が興した商会も、全てナタリーのものとなったのだ。
病により母を亡くしてから、ナタリーは父と二人で助け合って生きてきた。
ナタリーは幼い頃から、父から商会の仕事を学んでいた。彼女の才覚は父に負けずとも劣らず、ナタリーの尽力によって、商会は父亡き後も揺らぐことはなかった。
もちろん、これほど大きな商会となっては既に父一人で全てを担っていた訳ではない。優秀な役員たちが揃っていたことも大きい。何はともあれ、ナタリーは見事に父の跡を継いだのである。
ナタリーには幼い時分より婚約者があった。
事業で付き合いのあったバース子爵の一人息子ミゲルである。
バース子爵は古い歴史のある名家ではあるが、先代子爵の領地経営の失敗により、経済的に困窮していた。
貴族と縁を結びたいファンネル家と、経済的支援を欲したバース子爵家との間で利害が一致した結果の婚約だった。
とはいえ、ナタリーとミゲルの仲が良かったことが、婚約の大きな要因となったのは間違いない。
本来であれば3年前、ナタリーの成人をもって二人は結婚するはずであったが、ナタリーの父の死によってそれどころではなくなり、商会を安定させるまではと延期されて今に至る。
しかし今年、ついに結婚の目処が立ったところであった。
会場を抜け出し、人通りの少ない廊下を歩く。
このボラード伯爵家には何度か訪れたことがある。
今日のパーティーの主役であるボラード伯爵子息のフィリップがミゲルの親しい友人である為だ。
二人は学園の同窓生で、学生の頃から仲がいい。
昔から大人びた魅力のあるフィリップにミゲルが腰巾着よろしく付いて回っているだけとも言えるが、フィリップはフィリップでそんなミゲルに心を許している節もあった。
その証拠に、学園を卒業しても二人の交友関係は続いている。
今日のようなパーティーの場では、いつしかシガーを理由に二人で抜け出し話し込んでいることも多い。
男同士の気さくな仲が心地よいのだろうけれど、もっと社交にも力を入れてもらいたいと、ナタリーは嘆息してばかりだ。
休憩の為に用意されている部屋の並ぶ廊下に入り、使用人にミゲルの所在を尋ねる。
教えられた部屋をノックをしようと扉に近付くと、中から声が聞こえてきた。
「結婚なんてこんなものさ。君はいいね。惚れてくれている婚約者が居て」
「やめてくれ。商売好きの平民女だ。背ばっかり高くて体なんかペラペラだぜ? サラの方がずっと良い」
聞こえてきた言葉に、ナタリーは固まった。
今、『商売好きの平民女』と蔑んだ、あの声。
よく知っている、あの声は——
あれはまさしく、ミゲルの声だった。
もう一人の声はフィリップだろう。
酒が入り気が大きくなっているのか、扉越しでも十分に分かるほどの声量だ。
「なんだ。最初はあんまり乗り気じゃなかったのに、案外具合が良かったのか?」
「ああ、最高だね。サラの胸を揉んだ後にナタリーを見るとげんなりするよ。君もそうだろう?」
信じられない。この下世話な会話を、あのミゲルとフィリップがしているというのだろうか。
まさか。そんなことがあるはずはない。
ナタリーは自問自答を繰り返した。
何故なら『サラ』とは、このパーティーで結婚を発表した、フィリップの妻の名前なのだから。
「僕はサラみたいに派手な女は趣味じゃないんだよ。君に近付きたくて契約結婚を提案するような豪胆さは、面白いけどね。まあ僕は、結婚さえしてしまえば父を黙らせられるから。妻公認で存分に遊べて言うことはないよ。君の婚約者殿は、そうはいかないだろ」
「はあ、最悪だ。金がなけりゃ、あんな女と結婚なんかしないよ」
ナタリーはハンマーで頭を殴られたような衝撃を感じた。
あまりの衝撃に、ブルブルと震えながら、その場から走り去ってしまった。
普段なら、「准男爵の娘」と揶揄されないよう、人一倍体裁には気をつけいるナタリーだ。そんな彼女が、淑女らしさの欠片もない早さで駆けていくほど、あまりにも残酷で、あまりにも信じられない言葉だった。
(私たち、愛し合ってると思ってたのに……。ミゲル、そんな風に思っていたの?)
悲しみと絶望で心が嵐のように吹き荒れていた。涙が次から次へと頬を伝い、せっかく整えた化粧は溶け去っている。ナタリーはそのまま屋敷を飛び出し、待たせていた帰りの馬車まで走っていった。
「キャッ!」
馬車まであと少しという所で、何かに激しくぶつかった。
ナタリーは咄嗟に手を伸ばし、指に何かを引っ掛ける。けれど抵抗虚しく、反動でナタリーは尻餅を付いてしまった。
流れる涙もそのままに、ナタリーが顔を上げると、
大きくて、恐ろしい顔の化け物が、ナタリーを見下ろしていた。
「ッ……!!」
あまりの恐怖に、悲鳴すら上げられず
ぶつかったのは、顔に大きな傷を負った男性だった。
「すまない。怪我はないか」
「っ申し訳ございません! とんだご無礼を!」
「いや。怪我がないなら、良い」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、男は気遣わしげな瞳でナタリーを観察する。怪我はないようだと胸を撫で下ろした所で、マスクが外れていることにはたと気付き、慌てて鼻の上まで引きあげた。
「……すまない」
男はポツリと、ナタリーから視線を外して呟いた。
それは、ナタリーと衝突してしまったことに対する謝罪か。それとも醜い顔を晒してしまったことへの恐縮なのか。
いずれにしても、彼に責がないのは明白だった。
「こちらこそ、本当に申し訳ございませんでした。前を見ていなかったものですから……」
「いや、本当なら君の気配に気付けたはずなんだが、久々の社交に緊張していたらしい。すまなかった」
「いえ私こそ」
そう言ってナタリーと男は、しばらくお互いに謝罪の応酬を繰り返した。
だんだんとそれがおかしくなってしまい、思わずナタリーは吹き出してしまった。
「っごめんなさい。なんだかお互い謝ってばかりでおかしくって」
「そうだな」
男はふっと目を細めて小さく笑った。
どこか危うさを感じさせる男の柔らかな表情に、ナタリーは一瞬どきりとする。
マスクの下の傷を見てもなお、美しいと思えた。
「ああ、服が汚れている。これを」
男は徐に胸元からハンカチを取り出し、ナタリーに差し出した。
羽ばたく鷹が刺繍されたダークグレーのハンカチだ。
(この紋章。どこかで……)
「ありがとうございます。洗ってお返しします」
「いやいい。気にしないでくれ。何枚もあるから」
そう言ってハンカチをナタリーに握らせると、男は黒いマントを翻してパーテー会場の方へと去っていった。
「今の方……もしかして、アンカー辺境伯?」
ナタリーはミゲルの裏切りによる胸の痛みをしばし忘れ、ハンカチを握りしめ男の背中を見送った。
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