第2隻
ナタリーの自宅は、皇都の中心街にある商会の事務所を兼ねた建物の3階にある。
1、2階は商会で使用しており、3階部分を住居としている。
大規模なパーティーが開けるほどの豪邸には違いないが、それでも貴族の屋敷に比べれば可愛いものだ。
ファンネル家の資産をもってすれば、何倍も大きい屋敷を建てることも出来るだろう。だが合理的でないと准男爵もナタリーも現状を変えることはなかった。そこは貴族と商人の違いであろう。
あの後ナタリーは、そのまま馬車に乗って帰宅した。
誰にも何も言わずに帰ってきてしまったが、体調が悪かったのだと誤魔化そうと考える。
ナタリーは馬車を降りると、着替えもそこそこに執務室へと駆け込んだ。
馬車に揺られる中で、ナタリーの心は少しばかり冷静さを取り戻していた。
今やるべきことは、今日聞いた話が本当のことなのかどうか。それを確かめることだ。
ナタリーは半ば力任せにデスクの
女性が使うには華やかさの欠片もない、それでいて仕事に使うにはそぐわない濃紺の紙。
別の抽斗から白く発光したようなインクを取り出し、一心不乱にペンを走らせる。
濃紺の紙に白い文字を踊らせると、それをデスクの上に置いてあったカラフェの水で湿らせた。すぐに、白い文字は消え去っていった。
ナタリーはおもむろに立ち上がると、デスクの背後にある右から2番目の窓を開けた。
すると、すぐさま控えめな羽音が聞こえ、窓枠に小ぶりなキジバトが一羽、止まった。
慣れた手付きで鳩の足に手紙を括り付けると、鳩はあっという間に飛び立っていった。
ナタリーはこの帝国随一の商会の会長だ。
商売は、情報が命。
この国で名を上げている商会は、どこもお抱えの情報屋がいる。
ナタリーが特殊な紙とインクで出した手紙も、その情報屋に向けて送ったものだ。
本来であればこのように私的な用途で使用することはないが、今回は事が事だ。
ミゲルを愛した故に深く傷付いた女としてのナタリーが居ると同時に、自身の結婚が商会に与える影響を冷静に分析する商会長としてのナタリーも居る。
正直に言って、バース子爵家との結婚にさほど旨味はない。
しかし貴族と平民が結婚できることなどそうそうないということと、利は少なくとも害はないと判断されての婚約だったのだ。
ナタリーがミゲルを愛していたから。ミゲルもそうだと思っていたから。
だから、それで良かったのだ。
けれどそれが嘘であったなら、話は大きく変わる。
もっといい条件の相手は、居るはずだ。
(キールに頼んでおけば、明日には分かるかしら)
今日の話が、事実なのかどうか。
本当は信じたくない、何かの間違いであってほしいという気持ちが次から次へと溢れ出てくる。
どうか今日の話がただの聞き間違いで、本当は全く別のことを話していたのだと、もしくは中にいたのがミゲルではなかったのだと、そう思いたかった。
翌日。
情報屋であるキールからもたらされたのは、ナタリーの淡い期待を、全て打ち砕くものだった。
「残念だったね。あんたの婚約者は黒。それも真っ黒だよ。少なくとも、2年は続いてるね」
ナタリーの執務室。
デスクの前に置かれた応接用のソファーにどかりと座り、足を組んで我が物顔でクッキーを口に放り込んでいる人物。
情報屋のキールだ。
黄色に近い金髪をつんつんと逆立たせ、切長の金の瞳はまるで猛獣のよう。情報屋にしてはあまりに目立つ容姿だが、問題は何もない。
これは、彼の本来の姿ではないのだから。
今月、ナタリーが彼のこの姿を見たのは3回目。時に人畜無害そうな茶髪の青年、時に年老いた貧弱な老人、時に妖艶な美女の姿で現れる。
それぞれ別の人物であると言われた方がすんなりくるほどの違いだ。
彼、もしくは彼女の本当の姿を誰も知らない。それがキールだ。
ナタリーの父の代から、キールはお抱えの情報屋をやっている。
仕事は非常に優秀。これまで彼が依頼を受けて取ってこれなかった情報はない。
この姿の時は無礼極まりないが、それを許せるだけの能力を持った人物だった。
「きっかけはお嬢さんが聞いた通り、サラ・ビット……ああ、昨日からサラ・ボラードか。とにかく彼女の方からだね。どうやら本当にフィリップ坊ちゃんとサラは契約結婚のようだ。目的は、あんたの婚約者で間違いない。ただその理由はもう少し調査をしてみないと分かんないね。恋なのか別の思惑があるのか……。最初はフィリップ坊ちゃんに言われて関係を始めたみたいだけど、あんたの婚約者もまんまとハマったみたいだよ」
「そう……そうなの……」
ナタリーは思わず俯き、スカートを両の手で握りしめる。
信じたくなかった。間違いであってほしかった。
けれど、ナタリーは完全に裏切られていたのだ。
「まあまあそんなに落ち込むなよ。男なんてこの世に五万といんだからさ。あ、俺でもいいよ?」
キールの軽口に、ナタリーは言葉を返すことが出来なかった。
男なんて五万といる。そんなことは分かっている。
けれど、ナタリーが幼い頃からずっと、人生の大半を共に過ごしてきたのは、ミゲルだけだ。
「……あんた、あいつのこと好きだったもんねー……」
どこかいじけたような様子で、クッキーを唇だけでサクサクと食べていく。
流石のキールも、今のナタリーにこれ以上の軽口を続ける事は出来なかった。
「……ありがとう。これ、報酬よ」
しばらく俯いていたナタリーは、気分を変えるようにバッと頭を上げて金貨の入った麻袋をキールに差し出した。
ナタリーの目尻には、薄らと涙が浮かんでいる。
「どうも。追加の調査はするか?」
「いえ……。あとは本人たちから聞くことにするわ」
「そ。んじゃあ、あんまりメソメソすんなよ。あと婚約破棄すんなら早めにな」
「ありがとう。随分優しいじゃない」
「べっつにー。いつものあんたの勢いがなくて調子狂うだけ」
キールは立ち上がってクッキーの屑を払うと、両手を頭の後ろで組んだまま、右から2番目の窓に向かう。
彼が出入りする時、出入り口は使わない。
まるで鳥のようにこの3階の窓から出ていくのだから、不思議なものだ。
「鳥……。あ、そうだわ! ねえキール。この紋章、どこの家門のものだったかしら」
ナタリーは抽斗から、昨日の男性から貰ったハンカチを取り出し、キールに渡した。
「ああ。こいつはアンカー辺境伯家の紋章だよ」
「やっぱり」
一瞥し、キールは即答する。
これまでナタリーは商会やバース子爵家と関わりのある家門の情報ばかりを仕入れていたため、付き合いのないアンカー辺境伯のことは噂程度しか知らない。
だから確信が持てなかったが、間違いなかったとハンカチを握りしめる。
アンカー辺境伯。
この帝国の最北端にある領地を守る伯爵のことだ。
その領地より更に北側は魔獣蠢く混沌の大地であり、魔獣たちがこの国に入り込まないよう、日々戦いの中にあるという。そんな辺境伯家の私兵であるスラスター騎士団は、この帝国最強だと誉高い。
大昔には一つの小さな国だったが、領地自体は寒く荒れた土地で目立った産業は何もなく、帝国の盾となる代わりに庇護下に入ることとなったのは、当然の結果だと言えた。
現辺境伯であるケヴィン・アンカーは、以前魔獣との戦闘により顔に大怪我を負ったことで知られている。
右側の唇が頬まで裂け、歯が露出して見えるのだ。普段はその傷を隠すように、鼻から首までぴたりと沿うようなマスクを着用している。
性格は、冷酷無比。
ケヴィンは一度妻を娶っている。しかし彼のあまりの残忍さに耐えられず、自害してしまったと当時大きな話題になった。
その恐ろしい容姿と残酷な性格から、『北の怪物』と恐れられている。それがケヴィン・アンカーとういう人物だ。
ハンカチに刺された鷹の紋章とあの顔の傷。間違いなく、彼がケヴィン・アンカーだろう。
(でも、そんなに恐ろしい人には見えなかったわ……)
ケヴィンの噂で良いものは存在しない。そのどれもが冷酷で残忍で恐ろしいというものばかりだ。
けれど、ナタリーにはそうは見えなかった。
ナタリーを気遣い、心配げに揺れていたあの瞳が、嘘だとは思えない。
パチリ。
そこで、ナタリーの頭に一瞬の閃きが駆け巡った。
「そうだわ! 私、アンカー辺境伯に嫁ぐのはどうかしら!」
「はあ!?」
既に窓枠に足をかけていたキールが驚きで振り返る。
しかしナタリーは、どこか興奮した顔で目を輝かせていた。
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