ミゲル2

「なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ……!」


 一晩牢の中で過ごしたミゲルは、早朝の街を一人歩いていた。

 昨日のうちにバース子爵に連絡はいっているはずだが、子爵は迎えを寄越さなかった。

 反省しろということだろう。

 子爵は自身の利益を考えてナタリーの婚約破棄の申出にすぐ同意したが、一つ予想外なことがあった。

 ミゲルのナタリーへの執着だ。

 まさかここまでナタリーとの婚約破棄を拒否するとは思わず、日に日に憔悴していく息子を、はっきり言って持て余していた。

 たかが平民の娘だと何度言っても聞き入れず、逆に何故婚約破棄に同意したのかと詰め寄られ、子爵の方が参っているくらいだった。


 ミゲルは父親のことが全く分からなかった。

 せっかく婚約破棄が不承認になったのだから、そのままミゲルとナタリーが結婚すればいいだけのこと。

 なのに子爵は苦虫を噛み潰したような顔で、一体これからどうすべきかと悩んでいる。


 当然だ。

 これだけナタリーから拒絶をされている状況で婚約破棄が出来ないとなると、どうにかナタリーの怒りを収めて機嫌を取らなければならない。

 婚約を継続するとなれば、先に結んだ鉄道事業への費用補填の話は流れてしまうことになるだろうし、かと言って代わりの資金的援助を頼める状況ではない。

 今後の身の振り方について、子爵は文字通り頭を抱えていた。

 子爵は善良な人間とは言い難いが、かと言って非道な人間でもない。

 非人道的な方法で無理やりナタリーの金を搾り取るようなことは、考えていなかった。


 ミゲルはそうした子爵の苦悩を、一切理解していなかった。

 頭にあるのはどうすればナタリーが元に戻ってくるのかということだけ。

 本来、ミゲルは決して無能な人間ではない。

 自身をよく見せようと見栄を張ることが多く、欲望に流されやすいう欠点はあるものの、だからと言って理解力や状況把握能力が劣る訳ではない。

 だからこそ、今のミゲルの状態は異常だった。

 それだけ、ナタリーと一緒に生きるはずだった人生を失ったことが、ミゲルには耐えられなかったのだ。



 あの日からミゲルは、屍のように生きてきた。

 何故フィリップの話に乗ってしまったのか、サラとの関係を許容してしまったのかと、後悔してばかりいる。

 ナタリーのことを悪く言うつもりなどなかったし、全くもって心にない言葉ばかりを吐いていた。

 なんて愚かだったのだろうと、自身をさいなみ続けていた。



 そこに指した、一筋の光明。

 それは、フィリップの父であるボラード伯爵からの言葉だった。



『ミゲルくん。婚約者を取り戻したいかい?』


 一月ほど前、手紙で呼び出されたミゲルがボラード伯爵邸に訪れると、伯爵はそう言った。

 そこで聞いたのだ。

 ナタリーがケヴィンと婚約しようとしているということを。


 ミゲルは嫉妬で狂いそうになった。

 一体いつケヴィンと出会い、何故婚約をしようと決めたのか。

 これまで一緒に行ったパーティーで何度かケヴィンを見かけたことはあるが、二人が話したことなど一度もないはずだった。

 けれど、そう言えばフィリップとサラの結婚パーティーにもケヴィンが来ていたと思い出し、もしやあの日に二人は出会ったのでないか、と、まさしくミゲルは真実に辿り着いていた。


『あの二人の婚約はね、色々と都合が悪いんだ。それに、ファンネル嬢には君の方がお似合いだよ。長い月日を共にしたのだからね。だから、私が陛下に進言しようと思うんだ。君たちの婚約は破棄すべきではないと』


 ボラード伯爵は軍事大臣だ。

 軍事大臣が何故そんなことを進言するのかと一瞬不思議に思うも、話の内容に衝撃を受け、そんなことはどうでもよくなっていた。


『ほ、本当ですか……?』

『もちろんだとも。昔から君たち二人を見てきたからね。ああ、この二人は一緒にならなければ駄目だと思ったんだ』


 伯爵の言葉を聞いて、ミゲルは心底嬉しかった。

 他者から見てもそういう風に見えていたのかと誇らしくもなる。

 目の前に居るボラード伯爵が、ミゲルには救世主に見えた。


『それでだが、我が家の嫁との関係は、なかったことにしてくれたまえ。愚息が何やら世迷いごとを言ったかもしれないが、それもだ。全部忘れてくれるかい?』

『それは……どういう?』

『ファンネル嬢を取り戻すには必要なことさ。君に落ち度は何もないとなれば、婚約を破棄する必要もないだろう?』

『……全部なかったことにする、ということですか? そんなこと出来るでしょうか』

『出来るさ! 陛下にあれは誤解だったと手紙を書いてくれればそれでいいんだ。 もちろん息子と嫁にも書かせるから。ファンネル嬢の気を引きたくて嘘を吐いたとでも言えばいいじゃないか』

『本当にそれで、婚約破棄はなくなりますか……?』

『もちろんだとも。それさえ書いてくれれば、あとは私がなんとかしよう。任せてくれ』


 伯爵にそう言われると、ミゲルは何だか本当にそう出来るような気がしてきた。

 既に一度不倫の事実を認め破棄の書類まで認めたというのに、今更そんな道理が通るのか、という真っ当な疑問は、ナタリーとの再婚約に目が眩んだミゲルには、起こりえなかった。


 ミゲルとサラの不倫は事実だ。

 それは当事者であれば誤魔化しようがないことであるし、ナタリーにも一度全て暴露している。

 それでも皇帝からの不承認が下り、正式に「そんな事実はなかった」とされれば、周囲になんとでも言えるだろうとボラード伯爵は考えたのだ。

 その後のナタリーとミゲル、そしてバース子爵家がどうなろうと、どうでも良かった。

 今回の件はあくまでボラード伯爵家は無関係。ミゲルとナタリーの間の不和が原因だということにしようとしていた。


 ミゲルは嬉々として虚偽の手紙を書いた。

 あとはボラード伯爵が皇帝に上手く伝えると言われ、それを信じた。

 ボラード伯爵が何故そこまでするのかという疑問も、たかが子爵家の婚約破棄がそんな手紙一つで覆るはずもないということも、一度も考えることはなかった。


 それから、ミゲルはまんじりともしない時間を過ごした。本当に婚約破棄がなくなるのかどうか、気が気ではなかった。

 そして、今日。

 ついに送られてきた不承認通知を手に取り、ミゲルは歓喜した。

 これまでそんな事例は聞いたことがない。だというのに本当に不承認になるとは、つまり自分とナタリーは別れるべきではないのだと、運命なのだと、ミゲルはそう思った。

 これから、またナタリーと共に人生を歩んでいける。

 そう思えば、全身で叫び出したいほどに嬉しかった。



(なのに……あいつ……!!)


 まるでナタリーの隣には自分が相応しいとばかりに居座る、あの男。

 図体がでかいだけで、陰鬱な雰囲気でマスクの下は相当に醜いという。

 剣の腕はいいと聞いたことがあるが、この時代に剣が振るえたところで何になる。

 それよりも、金を稼ぐ力の方が価値がある。

 二束三文の土地の領主でしかないケヴィンよりも、子爵に代わり炭鉱の運営をし、ゆくゆくは鉄道事業にも関わっていく自分の方が、何倍も優秀だ。

 ミゲルは、本気でそう思っていた。


 花の一つも買わなそうな大男と何故ナタリーが、と考えるにつけ、きっとケヴィンがナタリーの傷心に付け込んだのだろうと邪推する。

 きっとナタリーの金が目当てで、あの純粋なナタリーを騙しているのだろう、と。


(あんな奴にナタリーは任せておけない。俺が、俺がしっかりしなくちゃ)


 これからは、また自分がナタリーの婚約者なのだから。

 ぶつぶつと口の中で呟きながら、朝焼けに沈む街を歩いていく。



 ふと、がらがらと音を立てて馬車が近づいてくるのに気付いた。

 紋章も何もない質素な馬車だ。

 ミゲルはさして気にも留めなかったが、馬車はそろりと彼の隣に停車する。

 一体なんだと馬車に目をやれば、徐に馬車の扉が開いた。


「ミゲル……!」


 中から顔を出したのは、サラだった。


「お願い、乗って」

「なんのつもりだ。俺たちは終わったはずだろう」

「そんなこと言わないで。まだ早朝ですもの。誰も見てないわ。子爵家まで距離があるでしょう?」


 確かに、ここから子爵家まで歩くとなるとかなりの距離がある。

 ミゲルは周りを見回し、確かに誰も見ていなそうだと思うと、致し方ないとばかりに馬車に乗り込んだ。


「聞いたわ。あのアンカー辺境伯とやり合ったのでしょう? それであなたを牢に入れるなんて……酷すぎるわ」


 サラは眉間に皺を寄せて吐き捨てる。

 心から本当にそう思っているようだ。


「大変! 口の端が切れてるじゃない」


 そう言ってサラはミゲルの顔に手を伸ばす。

 が、ミゲルはその手を叩き落とした。


「やめろ。もうその手で触れないでくれ」

「なんでそんなことを言うの? 私はあなたのことが心配で」

「元はと言えば、お前のせいだろう! わざわざフィリップと結婚までして俺に近づいて! 俺はお前なんかの為にナタリーを失いかけたんだぞ!」


 格上の小伯爵夫人を前にしているということさえ忘れて、ミゲルはサラを罵る。

 その言葉は、ナイフのようにサラの胸に突き刺さった。

 確かに近付いたのはサラであるが、それに応じたのはミゲル。それさえ忘れているかのようだった。

 ミゲルは深く後悔をしていたが、それ以上にサラに憎しみを抱いていた。


「それに、お前も陛下に手紙を書いたんだろう? ならその通りにしてくれ。無関係だったんだ俺たちは」

「私が……! 私が、あれをどんな気持ちで書いたと思う? お義父様に狭い部屋に閉じ込められて、水も食事も与えられなくて、『それを書き終えるまではそこから出られないと思え』と言われたのよ! あなたとの日々を否定することが、どれだけ苦痛だったか……!」

「そんなの、さっさと書いてしまえば良かっただろう」


 ミゲルはサラにまるで興味がないとでもいうように、視線を窓の外に外したまま淡々と告げる。

 サラはぎゅっとドレスを両手で握りしめ、涙が流れるのを必死に堪えていた。


「私は……本当にあなたのことを愛していたのよ」

「俺は、お前のことを愛したことは一度もない」


 ちらりとサラに視線をやると、まるで汚いものでも見たかのように顔を歪め、ミゲルはまた窓の外に視線を外した。

 やがて馬車はバース子爵家の屋敷に近づき、少し離れた所に止まるようミゲルは御者に指示をする。

 馬車は屋敷から一本離れた路地に停車した。

 ミゲルは尚もぐっと唇を噛み締めているサラを一瞥すると、自ら馬車の扉を開けて外に降りた。


「もう俺の前に姿を現さないでくれ」


 まるでとどめのような一言を、サラに突き刺す。

 愛はなくとも情を交わした仲だというのに、あまりにも残酷に。


 扉が閉まると同時に、馬車の中からわっと泣き声が響いた。



(なんとしてでも、ナタリーの心を取り戻さないと)


 ミゲルは決意する。

 彼の頭の中には、サラの存在など、もはや欠片も残っていなかった。

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