第24隻

「ミゲル……どうしてここに?」

「不承認の通知を受け取ってすぐに来たんだ。君がここにいないことは知っていたけれど、もしかしたら会えるんじゃないかと思って……。そしたらやっぱり会えた! 僕たちは運命で結ばれているんだよ!」

「やめて!!」


 はたと、ナタリーは周囲の目が気になった。通行人がちらちらとナタリーたちを見ている。

 あのファンネル商会の事務所の前で、当人が大声を出していればそれは気になるだろう。

 仕方なく、ナタリーはミゲルを自宅の中に招き入れることにした。

 久々に帰ってきた家主に使用人たちは俄かに色めき立ち、更にミゲルが入ってきたことで騒めきに変わる。

 メイドに部屋の扉を開けその前で立っているよう小声で指示し、ナタリーは応接室へと向かった。


 ミゲルは始終笑顔だ。異様なほどに。

 最後にナタリーが見た時よりも、ずっとやつれている。

 身なりが汚らしいということはないが、どこか精彩さを欠いていた。

 ナタリーは背中がぞわりとするのを感じながら、ミゲルと向かい合って座った。


「あれからすごく考えて、反省して、ずっと後悔していたんだ。一時的な快楽のために君を深く傷つけて、本当に許されないことをしたと思っている。君の愛情がなくなってしまったとしても、何もおかしなことじゃない。けど! それでも僕は君のことを愛している! 今後は絶対に君を傷つけるようなことはしない! 絶対にだ! もう一度やり直させてくれ。君の言うことに全て従うよ!」


 ミゲルは一気に捲し立てたと思うと、ナタリーの右手を取った。


「それに……陛下は僕たちの婚約を継続するべきだとおっしゃているんだ。こればかりは君も無視できないだろう?」


 眉尻を下げ、ギラついた目を見開き口を歪めている。

 ミゲルのその顔は、狂気に満ちていた。


 ナタリーは足元から恐怖が迫り上がるのを感じる。

 これまで長い時間を過ごしてきたミゲルとは違う、恐ろしい化け物に対峙しているような気分だった。


「バース小子爵! 痛いわ離して!」

「そんな他人行儀な呼び方やめてくれよ! さっき君はミゲルと呼んでくれたじゃないか!」

「あれは……!」


 あまりに不意にミゲルが現れたために、ついこれまで通りの呼び方をしてしまったことが悔やまれる。

 けれどもう、ナタリーはミゲルという名を親しみを込めて呼ぶことはできない。


「バース小子爵。私は今回の不承認に、意義を申し立てるつもりです。何があっても、あなたとやり直すことなんてないわ」


 ナタリーは言い放つ。

 その言葉を聞いたミゲルは、感情の抜け落ちた目でナタリーを見返したと思うと、ぶるぶると体を震わせ始めた。


「無駄だ! 俺たちの結婚は絶対だ! 君には俺しかいないし俺にも君しかいない! そう決まってるんだよ!」


 声を荒げ、ナタリーの手首を思い切り掴んで引っ張る。

 ナタリーは痛みに顔をしかめた。

 視界の端に、慌てて人を呼びに行くメイドが見えた。誰か男性を連れてこようとしているのだろう。


「痛い! やめて!」

「なんで分かってくれないんだ! こんなに愛してるのに!」


 ソファーにナタリーを押し倒し、ミゲルが上から覆い被さる。

 ナタリーは恐怖で声を上げることさえ出来なかった。

 じわりと涙で視界が滲む。


「お願い……やめて……」

「君は俺のものだ!」


「今すぐそこをどけ」


 恐ろしいほどに、低い声。

 ここにいるはずのない人の声に、ナタリーは自分が幻聴を聞いているのかと思った。

 途端、ナタリーに覆い被さっていたミゲルの体が宙に浮く。

 そしてガシャーンッと音を立ててテーブルに投げ出された。


「大丈夫かナタリー!」

「ケ、ケヴィン様……」


 目の前には、ケヴィンが立っていた。

 慌てて走ってきたのか、せっかくセットした前髪が崩れて額にかかっている。


「ッ何をする!!」

「か弱い女性に、お前こそ何をしているんだ!!!」


 ビリビリと、空気が震えるほどの大きな声。

 それはまさしく、野生動物が威嚇をするような、そんな激しさで。

 自分が怒鳴られた訳でもないのに、ナタリーは一瞬縮み上がるほどの恐怖を覚えた。

 けれどミゲルは、ナタリーの比ではなかった。

 蛇に睨まれた蛙のように、真っ青な顔でただ恐怖に身を震わせている。

 本能的にそれ以外の動きを何も取ることが出来なかった。

『北の怪物』にとって、ミゲルなど蛙にも満たない小物に過ぎないが。


「大丈夫だったかナタリー。怪我はないか」

「ええ……大丈っ」


 『大丈夫』と言いかけて、手首に痛みが走るのに気付く。

 どうやらミゲルに掴まれ、手首を痛めてしまったようだ。


「痛めたのか? 大変だ…! すぐに手当をしよう」

「ええ……」


 優しくケヴィンの大きな掌で包み込まれ、ナタリーは痛みが引くような錯覚を覚えた。

 ちらりと、ケヴィン越しにミゲルを眺める。

 上半身を起こし、羞恥と怒り、嫉妬に顔を歪めてケヴィンを睨みつけている。

 あの、フィリップとサラの結婚パーティー以来、ナタリーはこれまで見たことのない表情ばかり見ているなと無感情に思った。


「ナタリー! 話は終わってないよ!」

「いい加減にしろ。彼女は怪我をしているんだぞ」


 ケヴィンの怒気を孕んだ声は、聞いているものに底知れない威圧感を与える。

 だというのに、ミゲルは止まらなかった。


「お前には聞いていない! ナタリー、話をしよう。今日は急いでいたから持って来れなかったけれど、また薔薇を贈るよ。僕たちはただすれ違っているだけさ」

「もう何も話すことはないわ。全て終わったの。もう私の前に姿を見せないで!」

「なんでだよ! なんでなんだよ!!」


 尚も掴みかかろうとするミゲルを躱し、ケヴィンはナタリーの背を庇いながら部屋を出る。同時に、入り口でハラハラと状況を見守っていた男の使用人たちが、一斉にミゲルに飛びかかった。


「お前ら! 俺を誰だと思っている!! 気安く触るな!!」

「彼らには私がそうするよう命じたんだ。子爵家と辺境伯家では、どちらの言葉が優先か誰でも分かるだろう」

「この!! 醜い『北の怪物』が!!!」


 ミゲルの言葉は止まらない。

 その罵詈雑言の雨から逃れるように、二人は足早に応接室を離れた。



 メイドに応急手当の用意をことづけて、小さな部屋へと入る。

 ホールの脇にある、パーティーの際に休憩室として使われる部屋だ。

 ナタリーはケヴィンを振り返り、頭を下げた。


「申し訳ありません……! 私のせいで、嫌な思いをさせてしまいました……」


 消え入るように、声が小さくなっていく。

 悔しいやら情けないやらで、ナタリーは今すぐ消えてしまいたいような衝動に駆られていた。


「何を言う。あなたのせいではないだろう」

「いえ、私がちゃんと上手く対処出来なかったせいです。婚約破棄も不承認にされてしまったし、それもこれも私の見通しが甘かったせいで……」

「ナタリー。落ち着け。あなたは何も悪くない」


 ケヴィンはそっと、ガラス細工を扱うような優しい仕草で、ナタリーの手に触れる。

 そこで、ナタリーは自分の手が震えていることに気が付いた。

 怖かったのだ。

 ミゲルに押し倒され、何も抵抗できなかったことが。

 ミゲルは細身な方ではあるけれど、力では一切敵わなかった。


 そう認識した途端、じわじわと瞳から涙があふれてきた。

 やがて涙はとめどなくこぼれ出し、ナタリーは声を上げて泣いた。

 自分が何故泣いているのか分からなかった。けれど、涙は次から次へととどまることはない。

 ケヴィンは逡巡し、おそるおそる、ナタリーの頭を抱きしめた。

 本当に自分がこんなことをしてもいいのか。そんな葛藤を感じるような抱きしめ方だった。


「怖かっただろう。私は何を言われても構わない。慣れているしな。そのことであなたが気に病むことはない。自分のことだけを慰めてほしい」


 先ほどの威圧的な印象の全くない、優しい声。

 その声がどうしようもなく心地よく感じ、ナタリーはケヴィンの背中に腕を回して泣き続けた。


(このままいっそ、ずっとこの人の腕の中に入れたらいいのに……)


 ケヴィンの少し早い鼓動が、ナタリーの鼓膜を打つ。

 ナタリーは心が安らいでいくのを感じた。



 コンコンとノックの音が聞こえ、メイドが顔を覗かせた。

 手には救急箱が収まっている。

 ナタリーは離れがたい気持ちを抑えて、ゆっくりとケヴィンの胸から頭を離した。

 メイドから救急箱を受け取ると、ケヴィンは慣れた手付きでナタリーの手首に薬を塗り、包帯を巻いた。

 普段から自分で手当をすることが多いのだろう。とても美しい仕上がりだった。


「小子爵だが、君に暴力を振るった現行犯で、治安部隊に引き渡そうと思う。きっと一晩牢に留め置かれる程度だろうが、被害はきっちり訴えた方がいい。……いいか?」


 とても言いにくそうに、ケヴィンは尋ねた。

 ナタリーの心境を心配してのことだろう。


「はい。もちろんです」


 迷いなく、ナタリーは頷く。

 もしかしたらこれで、婚約破棄をしやすい状況になったかもしれない。

 通常であればナタリーは平民、ミゲルは貴族で、しかもナタリーは女だ。

 大した問題にならないことがほとんどだが、今回はケヴィンが証人だ。

 バース子爵家とアンカー辺境伯家では、流石にアンカー辺境伯家の方が権限が強い。

 少しでもこちらが有利になればいいと、ナタリーは願った。


「ケヴィン様。私、絶対にあなたと婚約します」


 ナタリーは決意を込めて、ケヴィンの瞳を見つめた。

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