第25隻

「随分大変なことになってしまいましたね。大丈夫ですか? ナタリーさん」


 ナタリーの自宅の執務室。

 デスクの前に置かれた応接用のソファーに礼儀正しく座り、優雅に紅茶を口に運ぶ男。

 人懐っこそうな目に優しい表情。それでいて印象に残らない。

 ただ人畜無害を絵に描いたようなこの茶髪の青年は、情報屋キールのもう一つの姿だ。

 いつぞやの金髪姿とほぼ同じ状況で話しているのに、印象が180度違う。

 本当に彼——もしくは彼女——の変装はどうなっているのかと、毎回ナタリーは感心する。


 あの日、ボラード伯爵の真意を探るべく、ナタリーはすぐにキールへ依頼した。

 そしてロレインから婚約破棄不承認の話を聞いてから、2日後の今日。

 キールは無事情報を集めてきたのである。

 ナタリーはキールに渡された書類を眺めると、深く溜息を吐いた。


「まさか、バース小子爵がそんな手紙を書いていただなんて……」

「どうやら元婚約者様は相当ナタリーさんに入れ込んでいるようですね。ナタリーさんを如何に愛しているかというくだりが長くて皇帝に辟易とされたそうですよ」

「それを愛と呼ぶのかは、分からないけれどね……」


 確かに愛はあったのかもしれないとナタリーも思う。

 だがあの異様な様子は、もう愛云々ではなく、ただの執着だろう。


「そもそも不貞行為はなかったという前提で、私が皇都に残った方が、国にとって有益だと説いた訳ね」

「そういうことですね。皇帝はさして悩まずに結論を出したそうです。それだけ上手い誘導だったのでしょう」

「たかが評判のために……。本当に、私を馬鹿にしているわね……」


 ナタリーは怒りが込み上げてきた。人をなんだと思っているのかと。

 フィリップとサラの所業は確かに批判されるだろうが、ボラード伯爵家に致命的な打撃を与えるほどのものではないはずだ。

 なのに、皇帝まで動かして回避する。

 それほどまでに、自身の評判が大事なのだろう。

 驕慢きょうまんとはまさにこのことだ。



「それがですね。どうやらそれだけではないようですよ」


 キールは一言そう言うと、こくりと一口紅茶で喉を潤した。


「ボラード伯爵、どうやら悪事に手を染めているようです」


 ナタリーの瞳を見つめながら声をひそめてそう言うと、手にしていたカップをソーサーに戻した。


「悪事というと……業者からの賄賂のことかしら。証拠を掴んだの?」

「ああ。そういうこともしているみたいですね。ですが、私が言っているのはこれです」


 キールは一枚の書類をナタリーに差し出した。


「これは……国費の決算書?」

「ええ。その公表されていない細目ですね。それと、これは現物支給品を納品している業者の帳簿です」

「ちょっと。業者の帳簿まで持ってきたの!?」

「あはは。それが仕事ですから」


 この世にキールが持って来られない情報はないのではないだろうか。

 一体何をどうやって入手しているのか、ナタリーは不思議でたまらなかった。

 もちろん、その分依頼料は高額であるのだが。


 ナタリーは気を取り直して、二つの書類を見比べた。

 デスクから東の島国で使われる計算機を取り出す。

 ナタリーの必需品だ。


 ぱっと見は何もおかしな所はない。

 しかししばらくぱちぱちと玉を動かしていくと、やがてナタリーの指が止まった。


「おかしい。金額が合わないわ」


 国費の決算書に記されている武具や防具など現物支給品の内訳。

 業者の帳簿に記載されている納品物の種類や数は、決算書と齟齬がない。

 だが、計算すると合わないのだ。決算書の総支払い額と、業者の帳簿に記載されている収入額が。


「これはつまり……横領?」

「そうでしょうね」


 なんということだろう。

 つまり、本来の額よりも安価な価格で業者に物品を製作させ、差額を懐に入れているということだ。

 あまりにも専横せんおうが過ぎる。

 元々限られた物の中で必死に国を守っているケヴィンたちに対して、あまりにこれは酷い。

 現物支給の武具や防具の質が悪くなったとケヴィンが言っていたのも、然りということだ。

 単に賄賂を受け取り不慣れな業者に任せているというだけではなかったのだ。

 ボラード伯爵は賄賂を受け取っているだけでなく、国の予算も横領して私腹を肥やしている。


 いや。これだけではまだ、横領に加担した範囲が分からない。

 流石に国費の決算は一領地のそれとは異なり、多くの人の目に晒されながら作成するものだ。

 最終的に財務大臣の承認も必要になる。

 最悪の場合、組織ぐるみの犯行であることもあり得る。


「もしかして……私がアンカー辺境伯家に嫁いだら、いずれバレると思ったのかしら」


 戦いにしか脳のないケヴィンたちは騙せても、ファンネル家の商会長は騙せない。

 そう思ったのかもしれない。


「その可能性が高いでしょう。だからどうしても、ナタリーさんをアンカー辺境伯家に嫁がせたくなかった。ついでにボラード伯爵家の評判も落とさぬように、元の鞘に収めるよう画策したのではないでしょうか」

「そうね。私もそう思うわ」


 ボラード伯爵の失態は、ナタリーを侮ったことだ。

 正確には、ナタリーが抱えている情報屋の手腕を。

 国費の決算書の明細は、普通手に入らないものだ。業者の帳簿も然り。それをたった2日で持ち出されることになろうとは、思いもよらなかっただろう。


「それで、どうするつもりです? 落としにいくんですか?」


 人畜無害そうな顔をにやりと歪め、キールは悪戯を仕掛ける子供のように笑った。

 この表情は金髪の時のキールと同じだな、とナタリーは頭の片隅で思う。


「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。けれど、放っておけないわね。ケヴィン様と相談するわ」

「おや、ご自身では決めないのですか」


 珍しいこともあるものだと、キールが茶化す。

 ナタリーはそれに苦笑いで応えた。


「横領の件の被害者はアンカー辺境伯家だもの。ケヴィン様に意見を聞くべきだわ。それに、不承認の件と横領の件は、分けて考えた方が良さそうよ。問題は、陛下がボラード伯爵の言葉に踊らされて、私とバース小子爵が結婚すべきだと思っていることだもの。仮にボラード伯爵がその地位を退いても、陛下の御心を変えない限り意味がないわ」


 ナタリーはまた頭の中で算段を始める。

 やはり当初の予定通り、運河建設を押し出す方がいいだろう。

 ボラード伯爵の罪を暴くのは、その後だ。


 そうと決まれば、早速ケヴィンと会って作戦会議をした方がいい。

 時刻は昼前。

 もうすぐケヴィンが迎えに来て、一緒に食事をする傍ら話し合いをする手筈になっている。


 ナタリーはキールに報酬を渡そうと、デスクの抽斗ひきだしを開けた。


「そういえば、医師の話なのですが」


 ふと、キールがナタリーに声をかける。

 そこでハッと思い出した。


(そうだったわ。ケヴィン様の傷を治せる医師がいないか、探すよう依頼したんだった)


 あまりに色々なことがありすぎて忘れてしまっていたことを、ナタリーは恥じる。

 ケヴィンのために出来ることは何でもしようと、そう誓ったはずなのに。


「ええ。どう? 誰かいい医師は居そうかしら」


 気を取り直して、ナタリーは尋ねる。

 正直、キールがこれだけの期間をかけて何も報告に来なかったということは、結果は望み薄だろうと思えた。

 それでも、一縷の望みにかける。


「この帝国には居ないようですね。一度治った皮膚を接合するのは、なかなか難しいらしい」

「やっぱり……」

「ですが、良い噂を聞いたんですよ。いや、良いというのはおかしいかな。西の国に伝わる『口なしマーヴ』という怪談話はご存知ですか?」


 唐突な話に、ナタリーは目をぱちぱちと瞬いた。


「いいえ。それが一体何の関係が?」

「まあ聞いてください。その噂によると、とある科学者が『皮膚を溶かして形状を変える薬』を開発していた時、助手であるマーヴが誤って薬をひっくり返してしまったそうです。すると、なんと飛んだ薬が唇に付着して、マーヴの口が完全に消え去ってしまった。それ以来、口なしマーヴが夜な夜な人々の口を奪うため襲っている、という話です」

「何だか怖いわ……。まさか、その『皮膚を溶かして形状を変える薬』が現存しているとでも言うの?」

「それが、案外ありそうなんですよ。実際噂になっている場所には昔研究所があって、何らかの実験をしていたという話ですし」


 ナタリーはどうも信憑性に欠ける話だと思った。

 よくある巷の怪談話の類としか思えない。

 けれど、そんな話を拾ってこなければならないほど、難しい依頼ということなのだろう。


「いくら私と言えども、西の国まで行くには時間がかかりますから。この最近のごたごたが落ち着くまで、真偽を確かめるのは後にしてもうよろしいですか?」


 本当にそんな薬が存在するのか、ナタリーは半信半疑だ。

 それでもそれに賭けるしかないのなら、確かめるほかないだろう。

 けれど、今は時期が悪い。まだキールには色々と働いてもらわなければならないだろう。


「そうね。致し方ないわ」


 ナタリーの言葉に「かしこまりました」と返すと、キールは紅茶を一口ぐいと飲んで席を立つ。


「ではそのように。もうそろそろアンカー辺境伯がいらっしゃるでしょう。私はこれで失礼します」


 ぺこりと頭を下げて、キールはまた右から2番目の窓から体を翻して去っていった。

 相変わらずの身のこなし。彼なら西の国まで、一晩で行ってしまいそうだとナタリーは思った。


 キールが窓の外に消えたとほぼ同時に、こんこんと扉をノックする音がした。

 扉を開ければ、やはりケヴィンがそこに立っていた。


 ケヴィンの顔を見るだけでホッとする。出来るならまた二人でゆっくり乗馬がしたい。

 けれど、今はそうも言っていられないだろう。

 一つ一つ、ケヴィンに話さなければならないことを考える。

 どうせ話すならもっと楽しいことがいいのにと思いながら、ナタリーは口を開くのだった。

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