第16隻

 なだらかな坂を下っていくと、眼下に入江が見えた。

 漁船がいくつかぷかりぷかりと浮いている。

 視線を右にやれば、坂の斜面にいくつかの家が点在している。

 ここがレセップス地峡にある漁村の一つなのだろう。


「この辺りが一番陸地が狭い所だな。この西海側の入江から東海側まではほとんど平地だ。村はこれより以北には存在しない。最北の村だ」


 ナタリーは興奮気味に体を前に乗り出した。

 確かに入江から続く谷は西海側から東海まで遮るものがない。

 低木がぽつぽつと生えていて、所々草が茂るところもあるが、それ以外は地表がむき出しになっている。

 何やらヤギのような動物が転々と数少ない草を食んでいる。あれが村の家畜だろうか。

 南北はなだらかな丘になっており、かつては海で陸地が隔てられていたのであろうと思えた。

 確かに、南側の丘には家らしいものは存在しない。


「なぜこちら側の丘にだけ民家があるのでしょう」

「ここは海抜が低くてな。嵐になると、平地は波で洗われるんだ。度々陸地が分断されるゆえ、向こう側には何も建てないのだそうだ」

「なるほど。……素晴らしいわ! 運河を通すのに最適じゃない!」

「確かに。これまで考えたことがなかったが、そういう視点で見るとそうだな」


 ケヴィンは馬を走らせ、丘を下り入江まで降りる。ナミルたちもそれに続いた。

 ナタリーは馬を降り、土を軽く掘ってみる。水気が多いかと思えばそうでもない。

 少なからず、見るからに難がある土壌ではなさそうだ。


「アンカー伯爵様。今度専門家をこちらに派遣してもよろしいですか。本格的に地質調査を行いましょう。西海側と東海側の高低差も気になります」

「分かった。やるだけのことはやってみよう。この村の者たちにも、話をせねばな」


 ここで生きる者たちの生活は変わるだろう。少なからずこの入江はなくなってしまうから。

 運河沿いに施設を建設するのであれば、別の場所に移住させるのが最適だ。

 住み慣れた土地を離れるのは抵抗があるだろうが、説得を重ね、十分な補償をすることで実現させるしかない。

 元々貧しい生活をしているというのであれば、交渉の余地はある。


「悪くありません。かなり現実的になってきました! むしろ何故今まで気付かなかったのかしら!!」


 もちろん本格的な調査をしてみなければ、分からないことも多い。

 だが、少なからず、目に見える大きな障害は今のところなさそうだ。

 最北の陸の孤島。魔獣蠢く大地の隣、打ち捨てられた荒れた大地。

 そんな印象がこれまで人々の目を塞いでいたのだろう。ナタリーは金脈を探り当てたような気分になった。



 丘の上にある村——名をギシャール村という——は、アンカー辺境伯領の北から三分の一ほどの場所に位置している。

 どうせレセップス地峡に行くのなら、最北の要塞も見ておこうと決めて出発していた。

 アンカー辺境伯の城から最北の要塞まで、馬で一日。

 今日はここで一晩明かそうと、ギシャール村の人々に断り、丘の上でテントを広げることにした。


「すまないな。何せ無骨な騎士用のテントなものだから……」


 真っ先に建てられた紺色のテントの中で、ナタリーは折りたたみ式の簡易ベッドに腰掛ける。そんなナタリーを、ケヴィンは見下ろしていた。

 結婚しているならまだしも、婚約者の身分ではケヴィンと一緒に眠ることは憚られる。ナタリーは普段ケヴィンが使用しているテントを一人で使用することになった。


 静心なくベッドに座るナタリーを見て、ケヴィンは眉を下げた。

 これまで贅沢な暮らしをしてきたに違いないナタリーに申し訳なく思ったのだ。

 けれど、ナタリーは実際気にしていなかった。

 父に付いて色々な所に商談で出かけていたナタリーだ。野営の経験はこれまでにもある。

 それにケヴィンのテントは一領主が使うものだけあって、広さも十分あり、上質な布で小綺麗だった。

 むしろ貴族であるケヴィンを追い出して、自分がこのテントを使用することを申し訳なく思っていた。


「いえ、とんでもありません。むしろ私一人で使わせていただき申し訳ないです」

「女性なのだから当然のことだ。気にするな」

「はい……すみません、ありがとうございます」


「団長〜! 晩めしできましたよ〜! 俺たちは他のテントの準備するんで、未来の奥様と先食べてくださ〜い!」


 唐突に入り口の幕がめくられ、ナミルが飄々とした様子で顔を出した。

「晩めし」の言葉に、途端、ナタリーは空腹を感じる。

 確かに昼は軽く食べただけだったと思い出した。


「おい! 女性のテントに急に入ってくるやつがあるか!」

「あーすみません。つい癖で。いやぁ村の人に魚とヤギのミルクを分けてもらったんで、豪勢に海鮮クリームシチューにしたもんだから」

「まあ! それは美味しそうね! でも食料を分けてもらって大丈夫なのかしら……」

「騎士団から受け取った食料への謝礼のつもりなのだろう。有難いことだ」


 騎士団が要塞に赴く際には、レセップス地峡の村々に小麦や肉などを配給している。

 アンカー辺境伯家からの援助だ。

 と同時に、今日のように村の敷地で野営をすることが多々あるため、その謝礼の意味も兼ねている。

 今回も、急な出発だったというのにユリウスが手際よく配給品を用意していた。

 村人たちはそんな騎士団に感謝し、なけなしの食料を分けてくれることがあるのだという。


「まあ……。何て義理堅い方々なのかしら」

「ああ。本当に」


 ケヴィンはどこか、誇らしい気持ちになった。

 この領地で誇れる資源は何もないが、人は素晴らしいと自負している。


「ささ、焚き火のとこに用意してあるんで、どうぞ」

「あなたは先に行って食べてくれ。俺は他の騎士と一緒に食べる」

「どうしてですか? 何かすることでも?」

「いや……忘れたんだ」

「え?」

「忘れたんだ。食事用のマスクを」


 ナタリーはきょとんとして固まった。

 ナミルは「あちゃーそれはまずい」と額に手をやって天を仰いでいる。

 食事用のマスク、とは、ナタリーを迎えるにあたり新調した、スヌード状のマスクのことだ。

 今はいつも通り、首から鼻の上までぴたりと肌に沿うマスクを着用している。

 そこでナタリーはようやく、あれは食事に特化したマスクだったのだと思い至った。


「あのマスクがないと、何か困るのですか?」

「……このマスクでは、食事の時、顎の下まで下げないといけないだろう」


 ふむ、とナタリーは考える。

 ケヴィンの素顔は一度だけ、しかもほんの一瞬しか見ていない。

 だが確かに、あの口では食事をするのが難しいということもあるかもしれない。

 スヌード状のマスクには何か仕掛けがしてあって、それがないと上手く食事ができないということだろうか。

 そう言えば、今日の昼はケヴィンが食事をするところを見ていない。

 どこかに見回りにでも行ったのかと思っていたが、食事が出来ない故に、ナタリーたちに気を遣わせないよう席を外していたのかもしれない。

 そう、ナタリーは思った。


「それでは、アンカー伯爵様は何も食べられないのですか? これから要塞で数日過ごす予定なのですよね……? それは無理です! ならば戻りましょう!」

「いや、食事は問題なく出来る。大丈夫だ」

「そうなのですか? なら何故……もしかして……傷を見られたくない、ということでしょうか」


 人相が変わってしまうほどの大きな傷。

 しかも、傷を負う前のケヴィンは美しい顔をしていたらしい。

 それならば、顔を人に見られたくないと思うのも分かる気がした。


「見られたくない、というよりも、あなたに嫌な思いをさせるのではないかと……」

「私が? 何故です?」


 またもやナタリーはきょとんとして首を傾げる。

 初めて傷を目にするなら驚くこともあるだろうが、なにせ初対面で目にしている。

 ケヴィンが嫌な思いをするなら分かるが、自分が嫌な思いをする訳がないと思った。


 ナタリーのその様子に、ケヴィンは戸惑った。

 まさかそんな反応が返ってくるとは思わなかったのだ。


「団長。どうやら、大丈夫みたいですよ」


 いつものどこか軽薄な調子とは異なる、真剣な声。

 ナミルは何かを噛み締めるようにケヴィンを見つめた。

 まるで今にも泣きそうな表情だ。


「団長! 未来の奥様と『一緒に』食事ですよ!」


 ナミルは泣き笑いの表情でそう言うと、勢いよくテントを出て行った。


 ナミルが出て行った幕をしばし見つめた後、ケヴィンはゆっくりとナタリーを振り返った。


「本当に、構わないのか。醜い傷跡を目にすることになるのだぞ」

「醜いだなんて思いません。伯爵様が、命を懸けて国を守った証ですから」


 嘘偽りのない、ナタリーの本心だった。

 大きな傷の分だけ、ケヴィンは戦ってきたのだ。

 この国のため、領地のため、人々のために。

 その傷を、何があっても醜いとは、ナタリーには思えなかった。


「そうか……。そうなんだな……」


 ケヴィンはまるで独り言を呟くように繰り返すと、ゆっくりと、ナタリーに視線を合わせた。


「行こう。一緒に、食事をしてくれるか」

「はい!」


 にこりと、ナタリーは笑顔で頷いた。



 ケヴィンと共にテントを出て、焚き火の周りに置かれた丸太に腰掛け、騎士からスープを受け取る。

 ほかほかとした湯気が魚介のいい香りと共に鼻腔をくすぐった。


 ケヴィンはマスクに指をかけ、一瞬、逡巡したものの、マスクを顎の下まで一気に引き下した。

 右頬の傷が、顕になる。

 既に空は群青色に染まっているが、焚き火に照らされて傷がはっきりとナタリーの目に入る。


「……痛くはないのですか?」

「ああ。痛みはない。ただ口が閉まらないから不便ではあるな」


 ケヴィンはスプーンでスープを一掬いすると、まるで喉に直接流し込むように口の奥までスプーンを入れた。

 なるほど、そうしないとスープが漏れてしまうのかとナタリーは思った。

 続いて野菜を掬い、口に入れる。すぐに咀嚼せず、スプーンを持った右手で頬を押さえながら咀嚼している。


「とても大変そうです。せめてもう少し傷が小さく出来ないか、医師に聞いてみてはいかがでしょうか」

「当時一応縫合はしたんだが、戦闘中薬が十分でなくてな。縫ったところが開いてこうなったんだ。一度医師に聞いたことがあるが、ここまで傷口が塞がっていると難しいと言われたよ」

「そうですか……」


 この広い帝国中を探せば、どうにか出来る医師が一人くらいはいるのではないか。

 ナタリーはそう思った。

 医療は完全に門外漢であるし、何も心当たりなどなかったが、方法を探すくらい、ナタリーがしてもいいだろう。


(キールに聞いてみようかしら。その方が確実ね)


 慎重に、ゆっくりと食事を進めるケヴィンを眺めながら、ナタリーは密かに決意する。

 ケヴィンのために、自分ができる精一杯のことをしたいと、心から思った。

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