第29隻

 翌朝。

 久々にケヴィンと長く語らったナタリーは、気分よく目覚めた。

 今日もたくさんの業務をこなさなければならない。

 そろそろ地質調査の調査結果を基に、基本設計へと進みたい。ファンネル商会の決裁案件も溜まってきているし、バース子爵家の鉄道事業の進捗もそろそろ情報を入手したいところだ。


 今日やるべきことを一つ一つ思い返しながら、そろそろ自分にも秘書が必要ではないかと思い始める。

 奇しくも運河を完成させなければ結婚は出来なくなったため、アンカー辺境伯家の家事はしばらくユリウスが引き続き担うことになっている。

 かと言って、いつまでもユリウス任せではいられないだろう。

 そもそも運河の完成は一体いつになるのか。

 ナタリーの頭はあらゆる情報で破裂寸前だった。



 コンコン、とノックの音がナタリーの執務室に響いた。

 自身のデスクでひたすらに書類を捌いていたナタリーは、「どうぞ」と視線を上げずにそのまま応える。


「失礼します」


 ベティの声だった。

 今ナミルは騎士団の仕事で席を外しており、代わりに若い騎士が警護に付いている。

 ナミルはソファーでだらりとしていることばかりだが、若い騎士は職務に忠実に、ずっと入口付近に立っていた。

 騎士が扉を開けると、ベティはティーセットと茶菓子を乗せた盆を手にしていた。


「少し休憩なさいませんか。体に障ります」


 静かにナタリーのデスクまでやってきたと思うと、淡々と、しかし気遣わしげな様子でベティはデスクに茶菓子の皿を置く。

 最初の頃からは考えられない態度だ。

 理由は分からないが、好意的になってくれるのはいいことだ。

 にこりと笑顔で「ありがとう」と言ってから、ナタリーはすぐにまた書類に視線を移した。


「でも、悪いけれど、あちらの応接スペースにおいてくれる? 今デスクに置かれると書類が汚れてしまうわ」

「そんなことおっしゃって、また寝る間も惜しむつもりですか? さあ、休憩にしましょう」

「いえ、これを片付けてからでないと」


 尚もデスクにティーカップを置こうとするベティに断りを入れようと、カップを手で軽く押し返した、その時。


「きゃーーっ!! 熱い! 何をなさるのですかナタリー様!!!」

「え!?」


 ベティのつんざくような叫び声が部屋に響いた。

 持っていたティーポットをひっくり返し、中の紅茶を腹部に浴びてしまったのだ。

 ナタリーは軽く、ごく軽くカップを手で押し返しただけだ。

 確かに書類に集中していてその瞬間は見ていない。

 今の状況を見れば、自分のせいだということは明白に思えた。


「大丈夫ベティ! いやだごめんなさい!」

「酷いですナタリー様! 何故このようなことを!?」

「わざとじゃないの! 早く冷やさないと!」


 淹れたての紅茶は熱湯だ。

 それを浴びたとあっては、大火傷になっているに違いない。

 ナタリーは慌てふためいて、棚の上に置いてあった水差しの水をベティに浴びせかけた。


「きゃあ! 何するんですか!」


「これ以上は見ていられません! わざとベティさんの手を払い除けて、さらに追い打ちをかけるのですか!?」


 唐突に、まるで糾弾するような声の調子で護衛に付いていた騎士が言う。

 しかし当然、ナタリーには心当たりがなかった。


「何言ってるの? 私そんなことしてないわ!」

「忙しさに気が立っていらっしゃたのですよね? だからってこのような……」


 ついにベティはしゃがみ込み、涙を流し始めた。

 ナタリーは完全に混乱していた。

 火傷を冷やそうと水をかけたのを、まるで嫌がらせかのように思われているらしい。

 それに確かにカップを押し返しはしたが、決してティーポットをひっくり返すような強さではなかったはずだ。

 はずだが……ナタリーは分からなかった。

 書類から視線を外さなかったが故に、一体どういう状況でこうなったのか判然とせず、絶対に自分のせいではないとも言い切れない。

 けれど、ナタリーは酷い違和感を覚えた。

 まるで自分だけ役割の分かっていない舞台に上げられたような気分だった。



 不意に、ガチャリ、と音がして扉が開いた。

 ナミルが戻ってきたのだ。

 眉間に皺を寄せ、ナタリーを睨んでいる。

 思わず、ナタリーは手にしていた水差しをデスクに置く。

 嫌な予感がした。


「これは、何があったんだ?」

「ナミル様! それが……!」

「ベティさん傷に障ります。僕が話しますから。ベティさんがデスクに紅茶を置こうとしたところ、ナタリー様が『邪魔!』と言ってその手を払いのけたんです。それでティーポットの紅茶がこぼれてベティさんがかぶってしまって……。更に痛みに叫んだベティさんに『うるさい!』と水までかけて!」

「私はそんなこと言ってないししてないわ!」

「嘘つかないでください! 僕は見てたんですから!」


 ナタリーは訳がわからなかった。

 今一体何がどうなっているのか、さっぱり分からない。

 仮に自分のせいでベティに紅茶がかかったとして、それは事故以外の何ものでもない。

 だが騎士の言う通りであれば、まるでナタリーが故意にベティを傷付けたようではないか。

 水を掛けたのだって、ベティを助けようとしてのこと。

 なのに何故こんな嘘をつかれなければならないのか。


 ふとベティの様子が気になり、顔を盗み見る。

 そこで気付いた。

 ベティが不敵に口角を上げているのを。


 やられた。


 ナタリーはそう思った。

 ベティに受け入れられたのかもしれないだなどと思っていた自分が恥ずかしかった。

 ただ手法を変えただけだったのだ。

 この護衛の若い騎士もグルなのだろう。

 ナタリーは人に苛立ちをぶつけて故意に危害を加えるような女なのだと、ナミルに思わせることが目的だったのだ。


「そうだな。嘘はよくない」


 ナミルはより鋭い瞳で、ナタリーを睨む。

 いつもの飄々としたナミルではない。厳しい、スラスター騎士団副団長の顔だ。

 悔しさと悲しさと怒りで、ナタリーは震えた。


 ……いや。

 違う。ナミルはナタリーを睨んでいるのではない。

 ナミルは、ベティを睨んでいる。


「ところでベティ。火傷は冷やさなくて大丈夫なのか?」

「いえ! 早く冷やさないいけません。痛くて痛くて……失礼してもよろしいでしょうか」

「そうだな。火傷は早く冷やさないと」


 ナミルはナタリーのデスクに歩いて来たかと思うと、床に転がっているティーポットを拾い上げた。


「まあ、こんな温度で火傷になるなら、だけどな」


 そう言って、ことり、とデスクの上にティーカップを置いた。

 ナタリーは恐る恐る、ティーポットに触れる。

 すると、熱湯が入っていたとは思えないほど、ポットはぬるかった。


「何をおっしゃるんです!? 私はお茶の作法に精通しています。そんなぬるい温度で紅茶を淹れるはずがありません! きっともうポットが冷めたんですよ」

「この部屋から悲鳴が聞こえて、俺が駆けつけるまでどれくらい時間が掛かったと思う? ものの数分だろ? その間にこんなにポットが冷えるのか? それにそれだけの量の熱湯を浴びて、そんなにじっとしてられる訳がないだろ。未来の奥様が水を浴びせかけたって言うが、見たところ水がかかってるのは紅茶のかかったところだけ。普通に考えて、火傷を冷やそうとしたと考えるのが普通だろうが」


 一歩一歩、ナミルは若手の騎士に近付いていく。

 若手の騎士は、焦ったように顔を歪ませている。

 鼻先が付きそうなほどにナミルが近付くと、思わず一歩後ずさった。


「お前が今証言したこと。スラスター騎士団の名誉にかけて誓えるか」


 静かに、低い声でナミルは騎士の目を見て言った。

 若手の騎士は唇を噛み締め拳を握りしめたかと思うと、しばしの間を置き、まるで崩れ落ちるように膝をついた。


「申し訳ありません……!」


 首を垂れ、絞り出すように声を発する騎士を見つめ、ナタリーは呆然としていた。


「どういうことなの? ベティ、あなたが仕組んだの……?」


 ナタリーの言葉に、床に座り込んでいたベティがむくりと起き上がる。

 そしてキッとナタリーを睨みつけた。


「あんたなんか」

「え?」

「あんたなんか! お金しかないくせにケヴィン様の妻の座に収まるなんて! 目障りなのよ!」


 唾を飛ばし、目を見開いて激しく罵る。

 ベティの顔は、ナタリーへの憎悪で満ち溢れていた。


「おい何言ってんだおまえ! 未来の奥様になんてことを!」

「ナミル様もナミル様です! こんな女の策略にまんまと騙されて! 言葉では何とでも言えますよ。どうせ心の中ではケヴィン様のことを醜い怪物だと蔑んでいるに決まっています! 前の女のように!」


 ベティはナミルにも激しい非難の目を向ける。

 前の女、とは、ケヴィンの前妻のことだろう。


「僕は、ナタリー様が裏で団長のことを悪様あしざまに言っているとベティさんから聞いて……。化けの皮を剥がしてやろうと……」


 消え入りそうなか細い声で、若手の騎士は項垂れる。

 先ほどの「どうせ心の中では蔑んでいるに決まっている」というベティの言葉で、ナタリーがそう言っていた訳ではないというのが分かったのだろう。

 簡単に騙されてしまった自分を恥じるかのように、体を丸めている。


「ベティ。お前、使用人の間でそれとなく、未来の奥様から嫌がらせを受けていると話していたな」


 ナタリーは目を丸くして驚いた。

 そんな事実は全くの初耳だったからだ。


 だが、ナミルの言葉は本当だった。

 見えるところに包帯を巻いてみたり、お気に入りのリボンが駄目になってしまったと落ち込んでみせたり、決して名前は出さずに、それとなく誰かに嫌がらせをされている様に匂わせていた。

 一体誰がベティにそんなことをするのか、使用人たちの間でもっぱら話題になっていたのだ。急にベティに嫌がらせをするような者は屋敷にいない。皆昔から一緒に働いてきた仲間だからだ。

 ただ一人、ナタリーを除いて。


 その事実を聞き、ナタリーは激しい羞恥心に襲われた。

 何も気付いていなかった自分を恥じたのだ。

 あまりに多忙を極め、自分の周りのことが疎かになっていた。

 忙しさなど、言い訳にしてはいけないのに。


「ベティ……。一体何故? 何故、そんなに私を毛嫌いするの? 私は本当にケヴィン様のことを尊敬しているわ」

「ぽっと出のあんたなんかには分からないわ。私以外、ケヴィン様のことを本当に理解できる女はいないのよ」


 どこか恍惚と、何かに酔っているかのようにベティは告げる。

 その様子に、ナタリーは既視感を覚えた。


「大きな声が聞こえましたが、どうなさいましたか!?」


 ベティの言葉に重なるように、開いていた扉からユリウスが中に飛び込んできた。

 呆然と立ちすくんでいるナタリーと、部屋の中で項垂れる騎士、びしょ濡れで顔を歪めているベティ。

 状況を一瞥いちべつして、何か察したのだろう。

 さも落胆したかのように、ユリウスはベティを見つめた。


「二人は牢に連れて行く。そこで話をゆっくり聞こう」

「そうですね。……残念です、ベティ」


 二人はナミルに連れられ、部屋から連れ出されていった。

 憔悴したように項垂うなだれる騎士とは対照的に、ベティは最後までナタリーを睨みつけていた。


「少し、落ち着かれてください。今飲み物をお持ちします」


 気遣わしげにナタリーにそう言うと、ユリウスは心配そうに振り返りながら、一旦部屋から出ていった。


 嵐が過ぎ去ったような部屋の中で、ナタリーは呆然としたまま、ソファーに座り込んだのだった。

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