ベティ

 屋敷の地下牢で、ベティは膝を抱えていた。


「ケヴィン様……私を一生愛すると言ってくれたのに……なんで? そうよ。あの女が悪いんだわ。あの女がケヴィン様をそそのかしたのよ……」


 うつろな瞳でぶつぶつと独り言を繰り返す。

 その異様な様は、まるで悪霊に取り憑かれているかのようだった。




 ベティ・バラストは、生まれた時からアンカー辺境伯家で生きてきた。

 辺境伯家の侍女であった母と共にこの屋敷の中で過ごし、一度もこの屋敷から出たことがない。

 父には会ったことがない。母の話では父は出入りの商人で、ベティが生まれる前に仕事中の事故で亡くなったという話だった。


 ずっとこの屋敷の中で生きて来たベティにとって、ケヴィンはとても特別な存在だった。

 それはベティだけがそう思っていたのではなく、事実特別なのだ。

 この辺境伯家の一人息子で、次代の辺境伯家を背負っていく存在。

 けれどその地位をひけらかすことも鼻にかけることもなく、使用人たちにも優しく接するような少年だった。


 ケヴィンはとりわけ美しい少年だった。

 漆黒の髪に映える翠色の瞳が妖精を思わせるような神秘性を漂わせ、浮世離れした雰囲気を醸し出していた。

 ベティはよく、宗教画の中から出て来たのではないだろうかと本気で思うほどだった。

 時折木にもたれて読書をするケヴィンを盗み見ては、その光景の美しさにうっとり見惚れることもあった。

 ケヴィンが微笑めば花が咲き誇り、ケヴィンが涙すればその涙すら宝石のようだと。

 小さな箱庭の中に居た幼いベティにとって、ケヴィンはこの世でもっとも美しいものだった。

 幼い少女が、美しい貝殻を宝箱に大切に仕舞いこんではうっとり眺めるような、そんな可愛らしい恋だった。



 ケヴィンの両親が亡くなってからしばらくして、ベティの母も病に倒れた。

 言わずもがな辺境伯家は大変な混乱の中にあり、金銭的にも体制的にも、ベティが周囲に助けを求めることは出来なかった。

 決して見捨てられた訳ではない。だが、手厚い看護が受けられたかといえば、そうとは言えなかった。

 結局、ベティの母は静かに息を引き取った。

 ベティにとっての唯一の肉親。母としても侍女としても尊敬する存在が消えていくという経験は、ベティにとって耐え難いものだった。



『私がもっと辺境伯としてしっかりしていたら……。彼女には世話になった。惜しい人だった。これからは、彼女の代わりに、私が君を守るよ』


 当時まだ少年だったケヴィンは、涙に暮れるベティをそう慰めた。

 ベティの母は侍女として優秀で、辺境伯家の中でも中心的な存在だった。

 まだ見習い執事だったユリウスもよく慕っていたし、誰もが彼女の死に後悔と悲しみを感じていた。

 ケヴィン自身も、彼女の死を心から悼んだ。

 そんな彼女の遺した娘を、憐れむのは当然のことだ。

 同時に、ケヴィンは天涯孤独となってしまったベティのことを、自身に重ね合わせてもいた。

 だからこそ、辺境伯として、母を失ったベティのことを守ると誓ったのだ。


 そう。ケヴィンはあくまで、辺境伯として使用人を守る責任を果たすという意味で、その言葉を口にした。

 ケヴィンの言葉には覚悟と決意が籠ってはいたけれど、それ以上でも以下でもなかった。


 だが、ベティはそうは捉えなかった。


(ああ……夢みたい……。まさかケヴィン様に、愛してもらえるなんて……)


 ベティはケヴィンの言葉を、愛の告白だと捉えた。

 ケヴィンは男として、ベティを守ると言ってくれたのだと、そう思ったのだ。


『ありがとうございます……。私も、一生あなたについて行きます』

『ああ。ありがとう』


 当然、ケヴィンは部下として「ついて行く」と言われたのだと思った。

 けれどベティにとっては、生涯を誓い合ったと、そう認識していた。


 普通ならば、幼い少女の勘違いで済む話だ。

 ケヴィンと接し成長するにつれ、あれは勘違いだったのだと、後から赤面すれば終わる話だった。


 だが、そうはならなかった。

 母を亡くし憔悴していた時期。

 アンカー辺境伯家全体が混沌していた時期。

 そんな暗闇の中に差した、一筋の光。

 それがベティにとっては、一種宗教的な深い感動に似た強い感情を引き起こしたのだ。

 自分が、神の愛し子のような特別な存在になった気分であった。

 それ以来、ベティはほとんどケヴィンのことを神格化していった。

 ケヴィンへの感情は、純粋な愛情よりも信仰に近い強い感情になっていった。



 そしてそれは、ケヴィンが顔に大きな傷を負ったことで、歪んでいくことになる。



 美しかったケヴィンの顔が崩れ、かつての容貌など見る影もなくなってしまった。

 これはベティにとって天地を揺るがす大きな衝撃だった。

 まるで信仰していた神が地に落ちたような、泥で汚されたような気分だった。

 初めて傷を負ったケヴィンの顔を見た時、正直に言って化け物だと思った。

 ベティは傷を負ったケヴィンのことを、どうしても受け入れることが出来なかった。


 その頃から、ケヴィンにも変化が訪れていた。

 優しく朗らかだった少年は、傷を負って自分の殻に閉じこもり、まるで手負の狼のような刺々しさを纏うようになった。


 いつしかベティは、今のケヴィンは偽りの姿なのだという幻想に囚われていった。

 本来のあの美しく神々しいケヴィンが俗世に汚されぬよう、醜い怪物の皮を被っているのだと。

 今は醜い姿をしているけれど、自分だけはその中に隠された美しい姿を知っているのだと。

 そんな妄想が彼女を支配した。

 ベティの中で、ケヴィンはいつまでも美しいあの頃の姿のまま時を止めた。

「君を守る」と言ったケヴィンの言葉は、いつまでも過去になることはなかった。


 他人がそんな彼女の妄想を垣間見れば、ただ現実を受け入れていないだけだと失笑するか、きちんと目を開けと叱咤したことだろう。

 だがベティは、彼女の内面を外に出すことはなかった。幼い頃から母に倣って身に付けた侍女としての作法が、彼女の異常性を隠してしまった。

 ベティはその妄想から抜け出す機会を得ることなく、大人になったのだ。



あの女・・・の時は上手くいったのに……。なんで……?」


 ぶつぶつと、ベティは独り言を呟き続ける。

 本当のケヴィンを知っているのは、心からケヴィンを慕っているのは自分だけだとベティは信じて疑わない。

 決して伯爵夫人になりたいとか、そういうことではないのだ。

 そんなことはどうでも良かった。

 自分とケヴィンの間には、そんな目に見える形にこだわらない、深い愛情があるのだと思っていた。

 だが、ケヴィンの隣に別の女が居るのは、気に食わない。


 だから人知れず追い詰めた。

 ケヴィンの前妻を。


 畏れ多くもケヴィンの妻の地位を得ておきながら、不満を持つ前妻をベティは憎んでいた。

 今のケヴィンを受け入れられない、自身のことを省みず。


『あの顔、恐ろしいわよね。でもあなたはこの北の領地から出られないのよ。生きている間、ずっとね。可哀想な人。一生あの怪物の顔を見て生きていかなきゃいけないのよ』


 哀れにもこの女は、ケヴィンの本当の姿を知ることはないのだ。その思いがベティを饒舌にさせた。

 あの怪物じみた偽りの顔しか見られないなんて、きっと死にたくなるだろうと内心嘲笑した。


 元々自分の悲劇に酔う気質だった前妻は、ベティの言葉にどんどんと絶望し、やがて精神を病み、自ら命を絶った。


 その時ベティは、笑いが止まらなかった。

 目障りな女が消え、清々した気分だった。



 なのに。

 ナタリー相手にはなかなか上手くいかない。

 そもそも自ら望んでケヴィンの婚約者に名乗りを上げたということも、ケヴィンやアンカー辺境伯家に積極的に関わりにいく所も、何もかも前妻とは勝手が違った。

 最初はナタリーに辛く当たり、歓迎されていないと思わせることが出来ればいいと思った。だがそれも不完全に終わってしまった。

 引きこもり最小限の交友関係しか持たなかった前妻に近付くのは簡単だったが、昼間はユリウスと事務作業をしているし、更にナミルも護衛に付いてしまった。

 ナミルとユリウスはケヴィンの大切な友人である。この二人の信用だけは絶対に失う訳にはいかなかった。

 二人に不審に思われないよう慎重に策を巡らせた。

 だが今度は最北の要塞や皇都に行くためナタリーが屋敷を離れてしまったが為に、ベティはその間為す術がなかった。

 ナタリーが屋敷に帰ってきた頃には、ナミルたちとより打ち解けて、手が出しづらくなっていた。


 いっそ毒でも盛ってしまおうかとも思ったが、それだけでは気が済まなかった。

 ケヴィンからも、屋敷の面々からも、もう思い出したくないと顔を顰められるようになってほしかった。まるで前妻のように。

 だからこそ、今回のような回りくどいことを始めたのだ。

 本当は今回の紅茶の件を皮切りに、ナタリーからの仕打ちを徐々に浸透させ、最終的にベティ自身が階段から突き落とされるという筋書きを描いていた。

 それで自身が怪我を負えば、ケヴィンは黙っていないだろうと。

 それがまさか、こんなに早い段階でナミルとユリウスに勘付かれていたとは思わなかった。


 ベティの誤算は、ナタリーが想像以上にナミルたちの信頼を勝ち取っていたことだ。

 運河の建設を思い付く前の段階であれば、もしかすれば上手くいくこともあったかもしれない。

 だが今となっては、ベティ自身の周囲からの信頼をもってしても、ナタリーの評判を落とすことは難しくなっていたのだ。




 ぶつぶつ。ぶつぶつ。

 ベティは爪を噛み呟き続ける。


「本当は自死して欲しかったけど、こうなるなら殺してしまえば良かった……」


「今の言葉は本心か?」


 自分の世界に入り込んでいたベティはハッと意識を浮上させる。

 声のした方におそるおそる目を向ければ、格子の向こう、牢の外に、いつの間にかナミルとユリウスが立っていた。


「ベティ。今回のことだけであれば、あなたをメイドに降格させるだけで済んだのですが……。今の発言を聞いては、そういう訳にはいきません。……あなたの母上には大変お世話になりましたから、本当に残念です……」


 ユリウスは言葉の通り、本当に残念そうに眉を下げた。

 ユリウスにとって、ベティの母は自身の母も同様だったのだ。


「これから団長に知らせる。処分は追って下されるだろう。……少なからず、この屋敷に留まれるとは思わない方がいいだろうな」

「嫌よ!! 絶対にケヴィン様から離れてなるものですか! そんなのケヴィン様だって許すはずないわ!!」


 ナミルの言葉が終わらない内に、ベティは格子にしがみ付き唾を飛ばす。

 その血走った瞳に、二人は初めてベティの中の狂気を垣間見ることになった。


「あり得ないわ! そんなの許されないのよ!!」


 衝撃を受け口を閉ざすナミルとユリウスを尻目に、尚もベティは叫び続けたのだった。

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