第30隻

 ナタリーは窓の外を眺めていた。

 窓下には、泣き喚きながら引き摺られるようにして門に向かっていくベティが居る。

 ベティを両脇に抱える使用人たちの表情はよく見えないが、俯きがちに居た堪れないような雰囲気を醸し出している。

 胸を引っ掻かれたような痛みを感じ、ナタリーはふいと窓から離れた。


 最初から最後まで、ベティはナタリーを恨んでいたのだ。

 そのことがナタリーの胸を締め付けた。

 彼女を尋問したユリウスとナミルの話では、要領を得ないものの、ケヴィンへの歪んだ愛情がそうさせたのだろうことは窺い知れたという。

 ナタリーはそれを聞いた時、とても驚いた。

 ベティはケヴィンを恐れていると思っていたからだ。

 人前では立派な侍女然として自身の内面を出さなかったベティは、ケヴィンの前では些か感情的になった。

 だがそれは、恋をしているといった陽の感情とは違う。まるで苦手なものを視界に入れないようにしているといった表現が正しい。

 最近来たばかりのナタリーでも気付くくらいなのだから、他の皆も感じていたことだろう。


 後からケヴィンに聞いた所では、同じように認識していたという。

 初めて顔の傷をベティに見せた時の表情は、悍ましいものを見たという恐怖に満ちていたと。

 それ以来、ベティがケヴィンの顔を直視することはなくなり、それでも決して仕事の手を抜くことはなく、きくばりもしっかりしていたから、致し方ないと諦めていたのだと。

 ケヴィンはそう語った。


『彼女はご主人様に憧れていましたから。ご主人様の怪我が余程ショックだったのだろうと、そう思っていたのですが……』


 そう語尾を小さくしたのはユリウスだ。

 彼はベティが昔ケヴィンに憧れていた事実を知っていたらしい。

 子供の頃からこの屋敷で育った使用人同士、ナタリーが考える以上に近しい存在だったのかもしれない。



 ユリウスとナミルがベティの不穏な言葉を聞いてすぐ、二人はケヴィンに事の顛末を伝えた。

 ケヴィンは急いで馬を走らせ帰ってきた。

 ケヴィンは自らベティの尋問を行い、この領地からの追放を決めたという。

 今の段階でベティがやったことは、ナタリーにやられたと偽ってぬるい紅茶を自ら浴びたことだけ。

 本来なら解雇するだけで事足りるようなことだが、彼女の尋問を行った三人が三人とも、彼女の異常性を察するに至った。

 結果、二度とナタリーやケヴィンの前に姿を現すことが禁じられたのである。

 今後万一二人の前に現れることがあれば、その時は命はないものと思うように、とケヴィンは伝えたという。

 長年ケヴィンを慕ってきたベティにとって、最も辛い罰になったかもしれない。


 ベティの言葉に踊らされて嘘の偽証をした若い騎士は除籍となった。

 ベティに騙されたという点では被害者であるが、あまりに軽率が過ぎたと言わざるを得ない。

 いかにケヴィンを思った故の行動であっても、これも致し方ない処分だろう。




 ただでさえ多忙を極め殺伐としていたナタリーは、どっと疲れを感じ、デスクの椅子の背に深くもたれかかった。

 深く息を吐き出しながら、天井を仰ぐ。

 仕事をする気が起きない。

 やらなければならないことは山積みだというのに、どうしてもそんな気にならないのだ。

 商売をしていれば、人から恨まれることは珍しいことではない。

 ファンネル商会ほどの大きな商会なら尚更だ。

 蒸気機関は画期的な技術ではあるが、その分従来の帆船を所有する商会の取引量は減ってしまった。

 ファンネル商会に海上輸送の依頼が集まれば集まるほど、その割を食う商会の恨みは募る。

 これまでナタリーは、卵をぶつけられたことだってあった。

 けれど、その時でもここまで落ち込んだりはしなかった。

 それはきっと、その恨みの理由に納得出来たからだ。自分の受容するものに対する責任の一つだと、そう受け入れられたから、自分の中で整理が出来ていた。


 けれど、ベティは違う。

 ただケヴィンを愛する故だと思えば納得も出来る。愛する男を取られたというのなら、半ば強引に婚約者の地位に居座ったナタリーのことが憎いだろうと、そう思える。

 だがどうにもしっくり来ないのだ。

 本当にベティはケヴィンを愛していたのだろうか。

 ベティに殺したいと思われるほど、彼女は自分に嫉妬していたのだろうか。

 そんなことをナタリーが考えたとて詮方ない。

 けれど、どうしてもそんなことをつらつらと考えてしまい、ナタリーは自分でも不思議なほど落ち込んでいた。

 落ち込む理由はないはずなのに、ナタリーは自分でも説明の付かない感情に沈んでしまった。



 コンコンとノックの音がして、ナタリーは体勢を元に戻した。

 返事をすれば、ケヴィンが扉から顔を出す。


「ナタリー。少しいいか」

「ええもちろん。なんだか仕事が手に付かなくて」


 きまりの悪い笑顔で頬を掻くと、ナタリーは羞恥心を覚えた。

 ショックなのはケヴィンの方だろう。

 長い付き合いであるし、自分自身がベティの凶行の原因だと言われたのだ。

 それに、騎士が加担していたのである。

 スラスター騎士団の面々を信頼しているからこそ、その心労は計り知れない。

 そう思いじっとケヴィンの顔を眺めて見ても、その感情はよく分からなかった。

 ただ、少し疲れているなと感じた。


「すまない。あなたを守るはずの騎士が、あなたに害を及ぼすなんて」

「いえ、私はなんともありませんでしたから」

「ベティはあのまま放っておいたらあなたに危害を加えた可能性が高い。なんともなかったのはただの結果論だ。彼女の内心に気付かず、あなたを危険に晒してしまった……」


 ケヴィンは本当に申し訳なさそうに、視線を下げた。


(こんな時でも、私のことを考えてくれるのね……)


 ナタリーはそんなケヴィンを愛しいと思った。

 いや愛しいとはまた違うかもしれない。だが他に今のナタリーの感情を表すのに相応しい言葉が見つからない。

 今すぐ目の前のこの大男を抱きしめてあげたいような衝動に駆られていた。


「私は大丈夫です。ケヴィン様こそ、辛い決断だったことでしょう。どうか無理をなさらないでください」


 ナタリーは立ち上がり、ケヴィンの腕にそっと触れる。

 どうか自分の悲しみや怒りといった感情を、押さえ込まないでほしいと思った。


「ありがとう……。大丈夫だ」


 ケヴィンはナタリーの手に自身の手のひらを重ねて、目を細める。


 しばし、二人の間に沈黙が落ちる。

 その間、二人とも互いの瞳から目を逸らすことはなかった。


 最初に目を逸らしたのはケヴィンの方だった。

 我に帰って手を離すと、自身の赤い顔を隠すように横を向く。


「そ、それでだな。あなたに提案しにきたんだ。これから一緒にシャンクの街に行かないか。今はちょうど秋の豊作を祈る祭りがやっている。皇都の祭りに比べれば華がないかもしれないが、この領地が最も賑わう時なんだ」

「ユリウスもそう言っていました! でも……ケヴィン様もお忙しいのに、大丈夫でしょうか……」

「魔獣はまだ活発化していないし、一日くらいは大丈夫だろう。それにあなたも、ここ最近ずっと働き詰めだったんだ。ベティのことも……。少し気分転換をした方がいいのではないかと思ったが……駄目か?」


 大きな男がしゅんと肩を落とす様が、まるで大型犬が尻尾を垂れているようだとナタリーはくすりと笑う。

 最初の頃に比べ、ケヴィンは色々な表情をナタリーに見せるようになった。

 ユリウスも「最近のご主人様は、表情が明るくなられました」と言っていた。

 それが自分の影響なのであれば、とても嬉しいとナタリーは面映いような気分になった。


 ナタリーはちらりとデスクの上にある書類を見る。

 どれもこれ急ぎではあるが、今日中というものはない。

 それに、このままでは仕事は手につきそうもない。

 確かにここで気分転換に出掛けてみてもいいかもしれない。

 そんな理由を並べずとも、尻尾の垂れた大型犬のようなケヴィンの提案を退けることは、ナタリーには出来る気がしなかった。


「そうですね。気分転換も必要ですもの。行きましょう」

「そうか……! なら準備をしてホールで落ち合おう」

「はい! わかりました!」


 目に見えて顔が明るくなったケヴィンを見て、ナタリーはまたしてもくすりと笑う。

 そもそもここ最近、離れて過ごしていた為に会うのも久しぶりだ。

 自分でも驚くほど、気分が浮ついていることに気付く。


(そう言えば……これって初デートになるのかしら)


 ふとそう考えて、ナタリーは思わず赤面する。

 途端に意識してしまったのだ。

 そうこうしている内に、ケヴィンと交代でベティの代わりの侍女が部屋にやってきて、あれやこれやとクローゼットから出してくる。

 正式な婚約者になったことで、ナタリーはケヴィンの部屋の隣の伯爵夫人が使う部屋に移動していた。

 さすが伯爵夫人の部屋だけあって、クローゼットはぐんと広くなった。

 その分ドレスが増えた訳ではないが、いくつか元々持っていたものを皇都から送ったため、幾分か充実している。

 ナタリーは新しい侍女と真剣に服や靴を選んだ。

 少しでも、ケヴィンに綺麗だと思って欲しかったから。


 ナタリーの顔にはいつの間にか、笑顔が戻ってきていた。

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