第7隻
サラが帰った後、ナタリーは疲れ果ててドレスのままベッドに横になり、そのまま朝を迎えた。
ドレスが皺になると小言を言うメイドに苦笑で
メイドが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「お食事中申し訳ありません。その、小子爵様と子爵様、子爵夫人がいらっしゃいました」
「えっもう!?」
少し遅いとはいえ、他人の家に訪問するにはまだ些か早すぎる時間だ。
昨日はいくら待てども帰らないナタリーに焦れたのだろう。今日は逃すまいと朝一で押しかけてきたらしい。
ナタリーは体の中の酸素を全て出し切るのではないかと思えるほどの深いため息をついた。
予想していたことではあるが、よりにもよって朝から総出で来るか、とナタリーは暗澹たる気分になる。
「そう。すぐに支度をするわ」
ナタリーはオムレツを紅茶で流し込むと、気合を入れてドレスルームへと向かう。
彼らが一体何を口にするのか。ミゲルは、どう言い訳をするつもりなのか。
けれど、ナタリーの心は決まっている。願うなら、ミゲルを前に決心が揺らがことがないことを祈るばかりだ。
「お待たせいたしました」
「ナタリー!!」
ナタリーが客間に顔を覗かせてすぐ、ミゲルはソファーから勢いよく立ち上がった。笑顔ではあるが、どこかその表情にナタリーは違和感を覚えた。申し訳ないと表情を暗くするものでもなく、やましいことがバレてしまったという焦りも感じられない。かと言って晴れやかな笑顔という訳でもない。
ミゲルが今何を考えているのか、ナタリーには分からなかった。
「ナタリー、もう体調は大丈夫なの?」
「ええ、もう大丈夫よ。婚約者の不貞で精神的に参っていただけだもの」
ナタリーは柔らかさなど一切ない冷たい視線をミゲルに投げかける。
これまでミゲルが見てきたのは、優しく慈愛に満ちた瞳ばかりだった。
その視線に怯んだのか、ミゲルは顔を蒼ざめさせ、ストンとソファーに座った。
「朝からすまないね。君からの手紙を読んで、居ても立っても居られなくてな。息子が大変申し訳ないことをした。君が怒るのも無理はないよ」
ミゲルの様子を見兼ねたのか、子爵が口を開いた。
いつもどこか人を小馬鹿にするような態度をとるバース子爵には珍しく、丁重にナタリーに謝罪の言葉を述べる。
子爵が謝罪をするということは、不倫の事実を認めるということなのだろう。ともすればナタリーの聞き間違いだと誤魔化すことも考えられたが、思ったよりも誠実な対応だ。もちろんそんなことをすれば、ナタリーは徹底抗戦する構えだった訳だが。
キールが集めた証拠を使わずとも、昨日サラ自ら訪ねてきている時点で、彼らはどうしようもなかった。結果賢い選択だったと言える。
しかし、ナタリーはどうにも不愉快だった。
困ったように眉を寄せているが、変にニヤついている。罪悪感のある者がする表情ではない。ミゲルとは異なり、ナタリーには子爵の気持ちが手に取るように分かった。
「君は本当に息子を愛しているのだね。余程驚いたのだろう。けれど、結婚前の火遊びだ。息子の心は君一筋なんだよ。寛大な心で許してやってくれ」
一見優しいように見えるが、こう言っておけば小娘など簡単に丸め込めるという思いが透けて見えるようだった。
果たして結婚前の火遊びに親友の妻を選ぶだろうか。サラの方からミゲルに近付き、それを夫であるフィリップ公認で、むしろ自身の夫婦関係を隠れ蓑に使っていたという、これは果たして『遊び』と言えるのだろうか。
少なからずサラは『遊び』などで片付けるつもりはないようであるし、ボラード伯爵家との関係が今後も続いて行く以上、そんな簡単なものとして片付けられるものではない。
バース子爵とてそんなことは分かっているはずである。それでも尚そのような言い回しをするのは、ナタリーを侮っているのに他ならない。
「ナタリー。男の人が外で遊ぶことはよくあることよ。むしろ、そうじゃない人の方が少ないわ。そんな男の人を許してあげる寛大さこそ、貴族令嬢の品格というものなのよ」
どこか諭すような口調で、子爵夫人が
子爵夫人の言葉に内心うんざりしながら、ナタリーは首を横に振った。
「何を言われようと、私の気持ちは変わりません」
ミゲルに何の未練もないと言えば嘘になる。けれど既に愛情は消え、彼と信頼関係を結び直すのはもう無理だと断言できた。
彼のことを愛していたからこそ、見えないものがあったのだろうか。とはいえ、今から考えてももう遅い。
ナタリーにとっては、全て終わったことだ。
「ナタリー!! 悪かった! サラにはもう会わないと昨日手紙を出したんだ。もうしない。これからは一生君だけを愛すると誓うよ」
意思が固そうなナタリーに焦ったのか、ミゲルは手を掴まんばかりの勢いでナタリーに近寄った。
なるほど、サラはその手紙を見てナタリーの所にやってきたらしい。
(まったく。話す相手が違うじゃない。サラ様にも困ったものだわ)
二人の痴話喧嘩なのだから、自分を巻き込まないでほしいとげんなりする。
同時に、ミゲルの先ほどまでの変な笑顔はこれか、といっそ冷静になれた。
両親同様、ナタリーは嫉妬から感情的に婚約破棄を告げただけで、すぐに元通りになるという浅はかな期待を抱いていたに違いない。
「……バース子爵様、ミゲルと二人でお話をしても?」
「ああ! ああいいとも! 行くぞ」
ナタリーを上手く懐柔できそうだと思ったのか、満面の笑みで子爵と夫人は客間を出て行った。
出て行く間際、ミゲルの肩に手を置いて、何某か声をかけている。
大方、「上手くやるんだぞ」とでも言ったのだろう。
客間に、ナタリーとミゲルだけが残される。
向かい合う4人掛けソファーにそれぞれ座り、一瞬、沈黙が落ちる。
気持ちを落ち着かせるために、ナタリーはお茶を一口、こくりと飲んだ。
カップをソーサーに戻すや否や、ミゲルはナタリーの足元に跪き、大きな赤い薔薇の花束を差し出した。
「ナタリー。僕が愛しているのは君だけだ。分かってくれ!」
(また、薔薇……)
ミゲルと薔薇の花束を交互に眺め、ナタリーは漏れそうになる溜息をすんでの所で飲み込んだ。
この数日、ミゲルは見舞いに来るたびに赤い薔薇の花束を置いていった。
彼を愛していた時は、笑って受け入れただろう。
「もう、また薔薇なの?」などと軽口を言いながらも、すぐに感謝を述べて部屋に飾ったに違いない。
けれどもう、薔薇を視界に入れることにさえ嫌気がさしていた。
ナタリーが受け取らないと見ると、どこか傷付いた表情で、ミゲルはそっとナタリーの隣に花束を置いた。
そして何を思ったのか、急にナタリーを抱きしめた。
「なっ……! 離して!!」
ナタリーは全身に鳥肌が立つのを感じた。底知れぬ不快感が湧き上がる。
既に自身の愛が冷めたのだと、ミゲルに触れられるだけで不快になるのだと、改めて思い知る。
「すまなかった」
「サラ様と不倫をしたのはあなたよ! しかもフィリップ様と共謀して……信じられないわ!」
「君を傷付けてしまってごめん! けれど信じてほしい。僕には君だけだ!」
「嘘よ! あなたの本音はあの日全部聞いたもの!」
「あれは……! あれはただ……冗談を言っただけだ。全部嘘だよ。だから、機嫌を直してくれ」
涙が溢れそうになったところで、ナタリーはぴたりと動きを止めた。
『機嫌を直す』? 機嫌を直すとは、どういうことだ。本当に、嫉妬から臍を曲げているだけだと思っているのか。
しかも、あんな暴言が『冗談』などで済まされるものか。そんな子供騙しで誤魔化せると思ったのだとしたら、侮辱も甚だしい。
ナタリーは沸々と怒りが湧き上がるのを感じた。
確かにこれまで、ナタリーはミゲルへの愛を隠そうともしなかった。ミゲルは自分への愛をひしひしと感じていただろう。
だからこそ、ナタリーが本気で婚約破棄を言い渡すなど、思ってもいないのかもしれない。
ミゲルの気を引くためのはったりか、気持ちを試すための虚言だとでも思っているのだろうか。
ナタリーの中で、何かがぷつんと切れるのを感じた。
「ミゲル。はっきり言うわ。私はあなたを心底軽蔑する。もう、あなたを愛してないの」
「ナ、ナタリー……?」
「お願い。婚約を破棄して」
その時のナタリーの瞳に、愛がないことは誰の目にも明らかで。
ミゲルはその場で、まるで糸が切れた人形のように膝を突いた。
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