第6隻

 ナタリーが家に辿り着く頃には、空に星が輝いていた。

 ここ数日でたくさんの環境の変化があった為に、体に疲労が蓄積しているのを感じる。すぐに風呂に入って寝ようと重い体を引き摺り玄関の扉を開けると、メイドが慌てて駆け寄ってきた。


「お帰りなさいませご主人様。お客様が客間でお待ちになっています」


 その言葉を聞いた瞬間、ナタリーの口から思わず深いため息が漏れた。

 ついに顔を合わせなければならないようだと腹に力を込める。

 ゆっくり休むのは、まだお預けだ。


「そう。ミゲルね」

「いいえ。バース小子爵様もいらっしゃっていましたが、ご主人様の帰りが遅いと諦めてお帰りになりました。今いらっしゃっているのは、ボラード小伯爵夫人でございます」


 なんということだろう。

 まさかサラが訪ねて来ると思っていなかったナタリーは、思わず目を見開いた。

 てっきりミゲルやバース子爵と話して婚約破棄をまとめるだけだと思っていた為に、心構えが出来ていない。

 サラは女性のナタリーでも艶かしいと感じるような美人だ。ナタリーとは対極の位置に居るような女性である。

 そんなサラと不倫をしたのなら、つまりミゲルの好みは本来そういう女性なのだろう。

 正直、サラはナタリーの劣等感を刺激する。

 キールも女性の姿の時は同じように豊満な体を持っているが、中身がああなので気にはならない。

 サラのそれは、男を惹きつけるための意図を感じる。

 ミゲルとの関係を知る前から、苦手な部類の女性だった。


「そう……。いつから?」

「半刻ほど前からになります」


 それならば日が暮れてから来たことになる。前触れもなく非常識と言えるが、ナタリーもアンカー辺境伯家に対し似たようなものだったため人のことは言えない。

 ナタリーが婚約破棄の書類をバース子爵家に送った時間から考えれば、ミゲルから何某かの連絡を受けてすぐに訪問したのだろう。

 一体彼女が何を言いに来たのか分からない。だが、不倫はサラの方から持ちかけたことなのだ。

 一言文句を言うくらい、してもいいかもしれないとナタリーは思った。



「お待たせいたしました」

「急にごめんなさい。お会いできて光栄だわ」


 蠱惑的こわくてきな女性というのは、彼女のことを言うのだろう。吊り目がちな赤い瞳も艶めかしい体のラインも、全てから色気が漂うようだ。

 元はビット伯爵家の令嬢で、ナタリーも彼女の男絡みの噂をいくつも聞いたことがある。10代の頃から浮いた話の絶えない女性だ。フィリップ自身も女遊びが激しいようだし、ある意味似たもの夫婦だと言える。

 このまま結婚して二人とも落ち着くのかと思いきや、まさか自身の婚約者が毒牙にかかることになろうとは、思ってもいなかった。


「やはりファンネル家の当主ともなられると、お忙しいのね。こんな時間になるまでお仕事だなんて」


 一見ナタリーを気遣うような素振りであるが、要は女でありながらこんな時間まで働くなんて考えられないと言いたいのだろう。どうにも貴族は働く女への偏見が強い。

 更に「お肌の手入れが大変そうだわ」と続けるものだから、ナタリーの怒りのゲージは順調に上がっていく。


「そうですね。これくらいの規模の商会になりますと、とても手が足りないくらいでして。その分、とても繁盛させて頂いております。それで……本日はどのような?」

「私っ! ナタリー様に謝りに来たのです!」


 サラは急にどこからともなくハンカチを取り出し涙を流し始めた。あまりに器用である。いつでも簡単に涙を流せるなら、書類を見つめ続けても目が乾く心配もなさそうだとナタリーは感心した。


「今朝、ミゲルから……ごめんなさい! ミゲル様から手紙が届きましたの。あなたが、私と彼の関係を知ってしまったと」


 わざとらしく呼び方を言い直す様がナタリーの癇に触る。いや、ナタリーでなくとも大概の女性の癇に触るだろう。沸々と怒りが込み上げてくる。

 すると、涙が一筋、サラの頬を流れる。

 恐ろしく計算し尽くされた演出に、彼女は役者になるべきではないかしらとナタリーは思った。


「申し訳ありません……! いけないことと分かりながら、ミゲル様に言い寄られ、つい心を許してしまったのですわ。その……ミゲル様は色々と思う所があったようですから……」

「思う所とはなんなのです?」


 上目遣いでちらちらと視線を送りつつ、わざと「言っても良いのかしら」といった様子で間を取るサラに、ナタリーはつい尖った声を出してしまった。いよいよ怒りが抑えられなくなってきている。

 そんなナタリーに、サラは手で顔を隠しながら、見下すような顔を見せた。


「……ナタリー様に申し上げるには気が引けますけれど、どうやらミゲル様はナタリー様のその控えめなお体に物足りないようですの。いくら裕福でも身分が不相応ですし……。しかも女の身でありながら商売まで……あっ、勘違いなさらないでね。決して私が言っているのではなく、ミゲル様がおっしゃっていたのですわ」


 随分とよく回る口だとナタリーは感心する。

 謝罪と言いながら出てくるのはナタリーを貶める言葉ばかり。

 怒りで血管が焼き切れそうになりながら、それと同時に冷静に現状を分析しているナタリーが居た。

 サラは一体何のためにここに来たのか。わざわざナタリーを貶めるためだけに来たのではあるまい。

 彼女がミゲルからの連絡を受けてここに来たのだとしたら、もしや。


「あなた、ミゲルに『もう会わない』とでも言われて慌てていらっしゃるの?」

「っ!!!」

「やはりそうなのですね。けれどおかしいわ。私とミゲルが婚約を破棄すれば、自分がその座に収まれるとお思いですか? フィリップ様という旦那様がいらっしゃるのに。あぁ、ですがフィリップ様とは契約関係なのですよね。あなたの目当てはミゲルなのでしょう?」


 みるみるサラの顔が赤くなる。淹れたばかりの紅茶のように湯気でも出てきそうだ。

 サラはナタリーが何を聞いたのか知らなかったのだろう。ましてや情報屋に調べさせた後だとは、思っていないかった。

 そうでなければ、無謀にもこうして訪ねてくる訳がない。

 あの時ナタリーが聞いたように、サラはミゲルに近付くためにフィリップと結婚することにした。ミゲルが狙いなのだ。

 キールは恋愛感情によるものか他の意図があるのかは分からないと言っていたが、サラ本人を前にして、ナタリーは前者だろうと直感的に思った。


 けれど何故、そんな遠回りなことをするのか。直接ミゲルに近付けば良いものを。

 それはミゲルにナタリーという婚約者が居たことよりも、ビット伯爵が下位貴族との婚約を決して許さなかったことが原因だろう。

 ビット伯爵は有名な身分至上主義者だ。決して伯爵位より下の貴族たちと交流を持つことはない。ただ長いばかりの歴史にプライドを持ち、現在は目立った功績も地位も富もないにも関わらず、だ。

 当然、ビット伯爵は自身の娘の結婚相手も、伯爵家以上の者を求めた。

 サラはいくつも男関係の噂が囁かれたが、どれも長続きはしなかった。相手が高位貴族の場合は単なる遊びであり、相手が下位貴族の場合はビット伯爵に邪魔をされてきたからだ。

 ミゲルについても、普通に近づけば他の男たちのようにすぐに終わるはずだった。だからこそ遠回りな方法を取った。

 つまりそれだけ、ミゲルに本気だったとも言えよう。

 これはナタリーの想像ではあるが、当たらずとも遠からず、といったところだろう。


「失礼な! 私とフィリップは歴とした夫婦だわ。それに先ほども言ったように、ミゲルの方が私を求めてきたの! あなたのようなたかが金持ちの平民にミゲルは勿体無いわ! 早く彼を解放してあげて!」


 何という言い草だろうか。

 まるでナタリーがミゲルに縋り付いているようだ。実際、サラの認識ではそうなのだろう。

 だからこそここに来た。サラとの関係を解消するようミゲルに迫ったとでも思っているのだろう。

 この婚約はナタリーの希望ではあったけれど、元々はバース子爵家の方が望んで叶ったものだというのに。


「ご安心を。ご希望の通り、私は婚約を破棄する予定です。けれど、だからと言ってミゲルとあなたがどうにかなれるとは思えません。ビット伯爵もバース子爵も、許すとは思えませんもの」

「っ!!」


 ミゲルの父であるバース子爵は、一族の名誉や誇りといったものより実利を取る人物だ。でなければ、准男爵の娘と一人息子を婚約させはしなかっただろう。

 バース子爵家にとって、サラとの結婚は何の利益ももたらさない。子どもでもできていれば別だろうが、そうでなければフィリップと離縁したサラを迎え入れるとは思えなかった。

 身分至上主義のビット伯爵とて、許容できるものではないだろう。


 結果、サラは「いい気にならないでよね!」という捨て台詞と共に、憤懣やる方ないといった様子で帰っていった。

 何故自分がそんなことを言われなければならないのか、ナタリーにはさっぱり分からなかった。

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