ミゲル4ー2

「顔を見に……? たったそれだけの為に呼び出したっていうのか?」


 サラの言葉が信じられず、思わずミゲルは聞き返した。

 今のこの状況を、彼女は分かっていないのだろうか。

 サラ自身、これ以上愚行を重ねるようなことがあれば、いよいよフィリップと離婚になる可能性も高い。

 あの身分主義で極端に面子を気にするビット伯爵が、不埒な娘の出戻りを許すとは思えないのだが。

 ミゲルは酷く混乱した。


「ええ。いいじゃない。私、あなたの顔好きなの」

「いい加減にしてくれ! 俺とお前は終わった! これは何があろうと変わらない不動の事実なんだ!」

「終わった? やめてよ。『終わらせた』の間違いじゃない。あなたが一方的に」


 それまでの泰然とした雰囲気を一気に尖らせて、サラが早口で捲し立てる。

 ミゲルを睨む吊り目がちな赤い瞳には、いっそ憎しみがこもっている様に見えた。

 一瞬、ミゲルは怯む。

 けれどミゲルにも譲れないものはある。

 ナタリーとサラを比較して、サラを取ることは、万に一つもないのだから。


「僕が間違っていた。こんな関係を始めるべきではなかったんだ。悪いけれど、今後は二人で会うつもりもない」

「あの准男爵の娘がそんなに良いのね。確かにお金をたくさん持っているし、物好きな一部の男性に人気があるのは知っているわ。けれど、あの女が没落してボロボロになっても、同じように愛せるの?」

「お前……ナタリーに何をする気だ!?」

「嫌ね。例えばの話よ」


 小さく笑い飛ばしながら、サラはティーカップを手に取り口を付けた。


 ミゲルにはただの冗談のようには思えなかった。

 嫌な予感がする。今目の間にいるサラはゆったりと紅茶を飲んでいるだけなのに、どうにも危うさを感じて仕方がない。


「頼む。ナタリーには手を出さないでくれ。責任は全て僕にある」

「私が何かすると思っているの? 彼女は今アンカー辺境伯領に居るんでしょう? そんな所、私行きたくないわ」


 サラは美しく首を傾げ、困ったように眉を寄せる。

 とぼけているようにも、本心からそう言っているようにも見えた。


「本当に……?」

「信用ないわね。あなたって本当……」


 その先の言葉を紅茶で喉に流し込み、サラはティーカップをソーサーに戻した。

 かちゃり、という音と共に、ゆっくりと立ち上がる。

 その表情は、髪に隠れてミゲルからはよく見えなかった。


「ありがとう。顔が見られて良かったわ」

「もう行くのか?」

「私の顔がもっと見たい? そんなことないでしょう?」


 サラはまるで自嘲するように笑う。

 どこか、何かを諦めたかのような顔だとミゲルは思った。

 今日の為に着飾ってきたのだろう美しい赤いドレスを翻し、サラは振り返ることなく、店の外へと歩いて行った。


 店員が開け放った扉の隙間から、一台の馬車が垣間見えた。

 ミゲルがやってきた時には居なかったはずだが、随分と見窄らしい。

 腰を折る店員の体越しに、粗末な服を着た男が馬車の扉を開けるのが見える。

 きっとサラも隠れてミゲルに会いに来たのだろう。

 躊躇することなく、するりとその中に滑り込んで去って行った。


 食い入るように一連の流れを見ていたミゲルは、心が粟立つのを感じていた。

 不穏なサラの言葉そのものよりも、第六感的な感覚の方が近い。

 けれど、きっと勘違いだろうと思い直す。

 ナタリーのことに過敏になりすぎて、考えすぎたのだろうと。

 それでもどうしても気になり、ナタリーに気をつけるよう進言するため、アンカー辺境伯領を訪れることにした。



 そして偶然出会でくわしたのだ。

 恐ろしい魔獣に。


 ミゲルがシャンクの街に着いてすぐ、何やら騒がしいことに気が付いた。

 人々が急ぎ逃げていくその先を見れば、居た。

 これまで見た全てのものの中で最もおぞましく、最も恐ろしい、生き物が。


 ミゲルと魔獣の間には十分な距離があった。

 けれどその存在の禍々しさは圧倒的で、思わずその場にへたり込みそうになってしまった。

 それでも逃げ惑う人々の流れに乗って、どうにか遠くへと足を動かす。


「中央教会へ! スラスター騎士団が守ります!」


 途中、大声を上げて人々を誘導する騎士と出会った。

 住民たちは大人しくその言葉に従っている。

 ただ必死に足を動かすミゲルも、ほぼ反射的にその声に従った。


(そこに行けばナタリーに会えるかもしれない)


 こんな状況では、むしろナタリーはここに居ない方がいい。だがナタリーならば、率先してこの場にやってくるだろう。

 走りながら、ミゲルはそう考えた。

 ナタリーが居るのではと考えると、もう居ても立っても居られなかった。

 今すぐ無事な姿を確かめないと不安で仕方がない。


(一体何故魔獣がこんな街中に……。要塞を新しくしたんじゃなかったのか? アンカー辺境伯は一体何をしてるんだ!)


 教会を目指してひた走る。

 建物の影からようやくその入り口が見えた。

 と、そこで、何か違和感を覚えた。

 思わず足を止め、一体何だと周囲を見回す。

 何かが、視界の端に引っかかった。

 急足で教会へ向かう人々。

 騒然とした街の中、建物の影に立って様子を窺う人物が一人。


(あれは……どこかで……)


 記憶の糸を手繰り寄せ、そしてハッとした。

 あの路地裏のカフェに、サラを迎えに来ていた、粗末な服の男。


(まさか……あの魔獣は、サラが……?)


 一体何故。どうやって。

 考えたところで、今のミゲルには何も分からない。

 分からないが、一つだけ、分かることがある。

 きっと、この事態は自分のせいだ、ということだ。



「魔獣は倒せたかしら」

「ご心配には及びません。ナミル副団長も居ますし、すぐに討伐出来るはずです」

「そうよね。大丈夫よね」


 遠くから聞き慣れた声がして、ミゲルは慌てて視線を向ける。

 するとそこには。

 最悪なことに、ナタリーが居た。


 魔獣が何かに弾かれたようにナタリーに向かって走り出す。

 彼らはそれに気付いていない。


「ナタリー!!!」


 ミゲルは駆けた。

 頭で考えるよりも先に、体が動いた。

 それでも魔獣の動きに比べれば遅すぎる。


(間に合わない……!!)


 瞬間。

 一陣の風が吹き抜けた。

 いや、風ではない。

 風のような速さで駆け抜けた、黒い怪物。


 怪物が剣を振るう。

 同時に、ほとばしる赤。


 あまりにも刹那の出来事に、ミゲルは呆然として固まった。


「大丈夫かナタリー!!!」


 ケヴィンが叫ぶ。

 その声に、ミゲルはハッと意識が浮上した。


 ケヴィンに抱きしめられ——少なからず、ミゲルからはそう見えた——安堵の表情を浮かべるナタリー。

 そんなナタリーを、優しく見つめるケヴィン。


 ミゲルは思い知った。

 自分の無力さを。

 あの二人の間に自分が入る隙間など、ないのだと。


 他の魔獣が居るかもしれないということも考えられず、ふらふらとミゲルはその場を後にした。



 街の外れまで歩く。

 人の気配がなくなり、先程の騒動などまるでなかったかのように、木々が風にささめいている。

 そこでミゲルはふと立ち止まり、こうべを上げた。


「せめてサラは。彼女のことは、僕が止めないと」


 ミゲルは独り言ち、また駆け出した。

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