第35隻
「魔獣がシャンクの街に!?」
ナタリーは混乱する。
言葉の意味が頭に入ってこない。
城壁は今まさに出来たばかり。
改修前ならいざ知らず、あれだけ完璧に仕上げられていて、何故魔獣が城壁の中に居るのか。
工事中にもそんな話は出ていなかったはずであるし、そもそもレセップス地峡を越えてシャンクの街に現れたというのが、全く意味が分からない。
「モルドラのことではないんだな?」
「はい! ウルフォックが一体です!」
城壁が崩れた時に現れた、あの魔獣。獰猛なウルフォックだ。
ナミルは若手の騎士からそう聞くと、すぐさまナタリーに向き合った。
「今すぐ住民の避難をさせよう。ウルフォックは凶暴な魔獣だ。このままでは甚大な被害になる」
「ええ。原因究明は後ね。今すぐ向かうわ。ナミル、騎士たちの指揮をお願いできるかしら」
「それは危険だ。今ナタリー様が一人になるのはまずい」
いつものふざけた調子をやめ、ナタリーを名前で呼んだナミルは苦しそうな顔をした。
本当は今すぐにでも駆けつけたいところ、ナタリーから離れられずに葛藤しているのだろう。
「問題ないわ。私も街に行くから」
「なんだって!? それじゃあ余計に危ない!」
「あなたの信頼する騎士を何人か付けて。それに、ケヴィン様が居ない今、私が責任を持たなくちゃ」
いわば、今ナタリーは領主代理のようなものだ。
明日にはケヴィンも到着するだろうが、それまで待っている時間はない。
とにかく、被害を最小限に抑えなければ。
「ナミルはとにかく行ってウルフォックの討伐に! 私は教会の尖塔の上から誘導するわ!」
シャンクの街のゲートが設置されている教会にある尖塔。
そこならば、正確に魔獣の位置が分かるかもしれない。
「とにかく急がないと! 行きましょう!!」
「……ああ!」
事は一刻を争う。
現状がどうなっているのか分からない。被害状況も分からない。
ナミルは知らせを伝えに来た騎士に二言三言指示を出すと、ナタリーに「くれぐれも気をつけて」と言って、風の如く去っていった。
「ナタリー様。私と一緒に行きましょう。下に騎士たちが控えています」
「分かったわ。彼らと合流したら、あなたは医療班をありったけ連れて後から来てくれる?」
「はい!」
「キール! あなたもお願いだから来てちょうだい!」
それまで静かにしていたキールが、急に話を振られて仰け反った。
「うええ!? 俺もぉ!?」
「まだあなたの報告をい聞いていないもの。急ぐから、後で話してちょうだい」
そう言い終わらないうちに、ナタリーは応接間の外に出ていった。
キールは頭をガシガシと掻くと、仕方ないとばかりにナタリーを追いかける。
ナタリーは気付いていた。
先ほど若手の騎士が部屋に入ってきた時、キールが額に手をやって「しまった」という顔で天を仰いでいたのを。
キールが掴んだ情報は、きっとこのことに関係があるのだ。
屋敷の外に出ると、若手の騎士が言っていたように、今すぐに出発できるように騎士たちが馬を引いて待っていた。
1人の人物が進んでナタリーを出迎える。
昨年最北の要塞の責任者をしていたユージーン・バウ隊長だ。
「ナタリー様お久しぶりです! スターン副団長よりこの場の責任者を任されました!」
「よろしくユージーン。早速だけど馬に乗せてちょうだい」
「はい!」
元気のいい声と共に、ナタリーをひょいと馬の上まで担ぎ上げる。
いくら騎士と言えどすごい力だ。
本当にどこまでもこの幼い見た目にそぐわない男である。
「キール。あなたは1人で馬に乗れるわよね?」
「ああ、俺は馬はいいよ。車があるから」
キールはくいっと親指で門の方を示す。
そこには、最近開発されたばかりの自動車が停められていた。
ファンネル商会の蒸気機関を使用した、最新の乗り物だ。
「あなたいつの間にあれを……!? ……今はそれはいいわ。早く行くわよ!」
ナタリーの声と共に、馬が駆け出す。
後ろから、車のエンジンが掛かる音がした。
今はとにかく尖塔を目指すしかない。
ナミルは既に一足早く、何人かの騎士たちを引き連れて街に向かったようだ。
ナタリーも早く行って状況を確認しなければ。
その一心で、駆ける馬の背にしがみつく。
ここまで早く走る馬に乗るのは初めてだ。
それでも怖くはなかった。
それ以上に、逸る気持ちを抑えるのに必死だった。
シャンクの街に辿り着くと、そこは阿鼻叫喚だった。
完全に冷静さを失った街の人々が、あちらこちらから逃げてくる。
「このままじゃ危険だ。我々が尖塔を登って状況を確認して指示を出す。そうしたらお前たちはすぐに住民の誘導を!」
「は!」
隊長らしくユージーンが騎士たちに指示を出す。
尖塔には、ナタリー、ユージーン、他数人の騎士とキールが登る。
かなり高い塔ではあるが、そんな弱音は言っていられない。
ナタリーたちは急いで階段を駆け上がった。
目が回りそうなほどぐるぐると階段を登っていく。
このまま永遠に着かないのではないかと思えて来た頃、急に視界が開けた。
風が強い。
急な肌寒さに、ナタリーは腕を抱きしめる。
元々この尖塔は、神官が神の意志に近づくために籠るためのもので、自然や世界との繋がりを重んずるこの国の宗教観により、壁が抜かれ柱だけで鋭利な三角形の屋根を支えている。
申し訳程度の柵はあるが、視界がほぼ360度全て見回せるのだ。
その不思議な空間に、ナタリーはまるで空に浮かんでいるような錯覚を覚えた。
ナタリーは柵から慎重に体を乗り出して、魔獣の位置を確認する。
ユージーンたちもそれぞれに目を凝らした。
「居ました! あそこです!」
ユージーンが指さす先に、ナタリーは目を凝らした。
アンカー辺境伯家を背にしてちょうど目の前。
街の外れに近い路地に、何やら人だかりが見える。
「確かに! あれね!」
目を細めて身を乗る出すナタリーに、キールが双眼鏡を差し出した。
一体どこに隠し持っていたのか、抜け目のない男だ。
双眼鏡を覗き込むと、ウルフォックと騎士たちが戦闘を繰り広げている。
狭い路地での戦闘に苦戦しているようだ。
すぐ近くに住民の姿もちらほらと見える。
負傷して動けなくなったのかもしれない。
それ以外に逃げ遅れた住民は居なそうだ。
「この教会を避難所にしましょう! ウルフォックからは十分距離があるし、大丈夫よね」
「そうですね。この距離なら問題ないかと思います」
言いながら、ユージーンは腰に下げていたラッパ状の物体を手に取る。
『ユージーン・バウから騎士各位! 住民を中央教会へ誘導を! 繰り返す! 中央教会へ誘導を!』
その大きな声に、ナタリーは目を丸くした。
どうやら声を拡幅させるアンティークの魔道具らしい。
これもかつて前皇帝に下賜されたものだろう。
「ちょうど良かった! 医療班もちょうど着いたわね!」
双眼鏡で医療班が到着したことを認めたナタリーは、キールたちを連れて階段を降りていく。
目の回りそうな階段も、下ならば余裕があるというものだ。
「キール。このことを知っていたの?」
ナタリーは階段を下りながら、ずっと気になっていたことを問いかけた。
ここまですんなりついてくる辺り、キールの方も情報を伝えるタイミングを待っていたのだろう。
「いや、ここまでのことを為出かすとは思っていなかった」
「今回の件、ボラード伯爵が関わっているのね」
キールは依頼したこと以上の情報を伝えることはまずない。
ナタリーがキールに依頼していたのは「ボラード伯爵が怪しい動きをした場合に知らせるように」ということだけ。
つまり今回ナタリーを訪ねてきたということは、ボラード伯爵絡みであるということだ。
「そう考えるのが自然だ。ずっとボラード伯爵を注視していたんだが、最近どうにも動きが怪しくてな。ビット伯爵の領地に出入りしていたんだ」
「領地に? タウンハウスではなく?」
サラの実家であるビット伯爵家は帝国の西側に領地を持っている。
しかしほとんど領地に帰ることはなく、皇都のタウンハウスで過ごすことが多い。
つまり、単純にビット伯爵と会うことが目的ではないということだ。
「ビット伯爵も一緒だったの?」
「いや。だがサラ・ボラードが一緒だった。多分ビット伯爵は何も知らない」
ビット伯爵領に行くのに、サラを案内人として付けたのだろうか。
ボラード伯爵とサラは揉めていたはずだが、和解したということだろうか。
いや。そもそも一体何の用があってそんな所に行く必要がある?
「ビット伯爵領に何が……。確か、あそこには目立った資源はないはずよね。盛んなのは、毛皮製品の製造だったかしら」
「ああ。広大な草原地帯があるからな。それに魔獣の毛皮も稀に扱うらしい。普通なら、魔素を抜いた魔獣の死体の皮を剥ぐわけだが、どうにも生きた魔獣がビット伯爵領に居るって話を耳にしてな」
「生きた魔獣が!? それが今回のウルフォックだというの!?」
「いや、どんな魔獣かは確認出来なかった。だがかなりきな臭かったんで、今日あんたに伝えにきたんだが……」
「一足遅かったという訳ね」
ナタリーの言葉が終わると同時に、一階まで辿り着いた。
礼拝堂に足を踏み入れると、既にこの教会の近くに居たらしい住民たちが集まってきている。
礼拝堂の椅子を退け騎士たちと医療体制を整える。
その間もどんどんと人が増えてくる。
「医薬品は惜しまず使って! 在庫は十分にあるから!」
ナタリーは医療班の面々に声を掛ける。
思ったよりも重症患者が少ないのは不幸中の幸いだ。
聞いた話では、ウルフォックが街に現れてすぐ、街を巡回していた騎士たちが駆けつけ戦闘を始めたために、ウルフォックに襲われたという住民は居ないらしい。
怪我人は皆、ウルフォックが破壊した壁に挟まれたり、逃げる際に転んだという者だった。
動ける住民は尖塔の階段部分にも腰掛けさせ、とにかく中に中に人を集める。
どんどんと狭くなっていく教会に、ナタリーは邪魔にならないようユージーンと共に外に出た。
「魔獣は倒せたかしら」
「ご心配には及びません。ナミル副団長も居ますし、すぐに討伐出来るはずです」
「そうよね。大丈夫よね」
ナタリーは気が気でなかった。
遠目でもウルフォックはとても大きく凶暴そうに見えた。モルドラやハムモットとは訳が違う。
あんなに恐ろしい魔獣と戦って、騎士たちは、ナミルは無事なのか。
ナミルたちのことは信じていても、どうしても嫌な想像をしてしまう。
不安が過ぎて、思わず手が震える。
ぞわりと鳥肌が立つような悪寒が走った。
……いや。
この悪寒は不安から来るものじゃない。
最北の要塞で感じたような、あの。
魔素に対する嫌悪感だ。
「ナタリー様!!」
遠くからナミルの声がする。
しかしナタリーの鼓膜が拾ったのは、その音ではなかった。
グオオオオォォォォォ!!
地を這うような、魔獣の唸り声。
いつの間にか、目の前に大きく口を開けたウルフォックが迫っていた。
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