第36隻

 地を揺るがすような魔獣の唸り声。

 その瞬間、ナタリーは死を覚悟した。

 一切何も状況が把握出来ていないのに、だ。

 強烈な魔素によるものなのか、魔獣の存在自体がそうなのか。

 とにかく本能的に、死を悟ったのだ。


 死の間際に人生の走馬灯が見えると言うが、ナタリーはケヴィンと一緒に過ごしたこの1年のことを思い出していた。

 いや、一緒に過ごしたと言うには、時間が足りなさすぎる。

 それでも不思議と、思い出すのはケヴィンのことばかりだった。

 ミゲルと共に過ごした時間の方がずっと長いというのに、どういう訳かミゲルのことはちらりとも思い出さなかった。


(ああ、ケヴィン様……!)


 ナタリーは心の中で、ケヴィンの名前を呼び、目を瞑った。



 グオオオオオ!!!



 一際大きく、魔獣の咆哮が響いた。

 先ほど聞いた唸り声とは違う。

 まるで生への激しい執着を訴えるような声だった。


 ナタリーはゆっくりと目を開く。

 まず目に入ったのは、黒いマントだ。

 見慣れたあの、黒いマント。

 ケヴィンがゆっくりと腕を左から右に振っている。

 手には、剣が握られていた。

 その切先が魔獣の首に深々と突き刺さり、まるで果実をそっと割るようにゆっくりと喉を切り裂いていく。

 いや、ゆっくりだと思ったのはナタリーだけだ。

 実際には、刹那のことだった。


 突如、強烈な血の匂いがナタリーを襲う。

 あまりの匂いに眩暈がして、思わずまた目を閉じた。

 途端、どすん、という大きな音が響いた。

 一体何が起きたのかと恐る恐る目を開けば、首筋から血を流したウルフォックが、地面に倒れ絶命していた。


「大丈夫かナタリー!!!」


 ケヴィンは必死の様子で振り返る。

 その顔にはマスクがなかった。

 残骸と思しき布が首に引っかかっており、ウルフォックの鉤爪がマスクを切り裂いたのだろうことが分かる。

 よく見れば、ケヴィンの右頬にうっすら赤い線が走っている。


 ナタリーはその顔を見た途端、安堵してへたり込んでしまった。

 死を覚悟した瞬間、見たかったのはこの顔だ。

 どんなに恐ろしいと、どんなに醜いと言われようと、ナタリーはこの顔が見たかった。

 愛しい、この顔が。


「どうした!? どこか怪我でも!?」

「いえ……。安心したら腰が抜けてしまって……」


 ナタリーはいまだ震える両手を握り合わせる。

 恐怖によるものなのか、魔素への忌避感によるものなのか、どうにも震えが止まらない。

 小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとする。


 ケヴィンがナタリーを起き上がらせようとして、自身の手にべっとりと魔獣の血が付いてることに気付き、慌てて手を引っ込めた。


 ナタリーは思わず、ケヴィンに向かって手を差し出した。

「私を起き上がらせて」というように。

 まるで自身の手をけがれたもののように扱ってほしくなかった。

 それに何より、ナタリー自身が、一刻も早くケヴィンに触れたいと思った。


 一瞬戸惑いに視線を迷わせながらも、ケヴィンは恐る恐るその手を握る。

 ナタリーの手を汚してしまわなかいと慎重に。

 反対に、ナタリーは力強くその手を握り返した。

 ケヴィンはナタリーの腕を痛めないよう慎重に起き上がらせる。

 しかし元より力の強いケヴィンだ。

 思いの外勢いよくナタリーの体は起き上がり、まるでケヴィンが抱き締める形になってしまった。


「す、すまない……」

「いえ、ありがとうございます。起こしていただいて」


 違う意味でどきりとしたからか、ケヴィンの存在を近くに感じられたからか、些か冷静さを取り戻したナタリーは、ようやく周りを見回した。

 地面に横たわるウルフォックの周りに、騎士たちが集まってる。

 改めて見るとかなり大きい。

 恐ろしいほどに尖った牙を見て、もしこの口で噛まれていたら間違いなく命はなかっただろうとナタリーは思った。


 ナミルたち先発隊の騎士たちがぞろぞろとやって来る。

 かなり重傷を負っているだろう騎士たちもおり、ナミルも頭から血を流していた。

 右に目をやると、魔獣を倒そうと剣を抜いていたらしきユージーンが、剣を鞘に収めながら下唇を噛み締めている。

 自分が近くに居ながら、自分の刃よりも先にケヴィンが魔獣を切り捨てたことを不甲斐なく思っているようだ。


「俺が出ていながら……面目ない」


 顔にへばりついた血を腕で雑に拭きながら、ナミルがケヴィンの前に進み出る。

 その表情には、悔しさが滲んでいた。


「ナミル。ウルフォック一体にこの体たらくとは。見損なった」

「それがこいつ普通じゃなかったんだ。動きが普通のウルフォックと全然違うわ、狭い路地に入り込むわで……いや。それはただの言い訳だ。住民とナタリー様を危険に晒したこと、大変申し訳ございませんでした。謹んで処分をお受けします」


 地面に膝を突き、ナミルが頭を下げる。

 その姿はまさに騎士そのもの。

 自分の落ち度は落ち度として認める潔さがあった。


「それなら私も! まさかあの距離からここまでウルフォックが来るとは思わず、一瞬反応が遅れてしまいました!」


 同じくユージーンが膝を突き、頭を下げる。

 こちらは痛々しい空気が滲んでいる。

 余程屈辱だったのだろう。


「いい。それは追って考える。今は怪我人の治療と住民の無事の確認だ。動ける騎士たちは急ぎ街を回れ! 他に魔獣の残党がいないか、負傷している住民がいないか探すんだ!」

「は!!」


 ケヴィンの指示に毅然とした声で答えると、ナミルとユージーンは機敏な動きで散っていった。


「怪我をしている方はこちらへ! 教会に救護班が来ています!」


 ナタリーは視線でケヴィンに許可を取ると、負傷した騎士たちを教会の中に誘導する。

 ケヴィンは騎士たちと見回りに出発した。

 本当はナミルの怪我が気になったが、目の前のこと集中するしかないとナタリーは脇目も振らず必死に動き回った。

 怯える住民たちに魔獣は倒されたことを伝え、処置がされていない者がいないか確認する。

 周囲を見回す余裕など、ナタリーにはなかった。



 住民たちの対応に忙しなく動き回るナタリーを、少し離れた所からじっと見ていた青い瞳が揺れる。

 そのまましばらくナタリーを見つめた後、静かにその場から消えたのだった。




 他の魔獣はいないということが確認され、一通りの怪我人の治療が終わると、住民たちは家に帰っていった。

 シャンクの街の住民も、魔獣を見るのは初めてだったのだ。

 あまりの恐怖に、皆一様に怯えていた。

 スラスター騎士団が数を増やして街を巡回するということで、皆ひとまずは安心した形だ。

 住民たちの中で重傷を負ったのは三名。みな崩れた壁に下敷きになった者たちだ。

 しかし、命に別状のあるものはいなかった。

 ナタリーが見たウルフォックの近くに留まっていた住民たちは、魔素の濃さと恐怖で動けなくなっていただけで、怪我はなかったということだ。

 重傷を負った騎士たちも、長らく安静にすれば治るという話で、ナミルなど頭に包帯を巻きながも安静にすることなく、いつもと何ら変わりがなかった。

 大きな混乱を招いた割に、被害は想像以上に小さく済んだのだ。

 いっそ不自然なほどに。



「ちょうど騎士の巡回時間に現れたのが、被害が抑えられた原因だろう。あのウルフォックはまだ若い個体だった。そのためか経験が浅く、戦いに不慣れだったというのもある。それが余計に騎士たちにはやりにくかったようだが……」


 アンカー辺境伯家の屋敷。

 談話室でナタリーと向き合いながら、ケヴィンはそう言った。

 ナタリーには何の怪我もなかったというのに、毛布を肩に掛けさせ気分が落ち着くハーブティを至急用意するようユリウスに伝えていた。

 心配してくれているのは分かるが、少々過保護だとナタリーは思った。


「私の方で一つ入手した情報があります。今回の魔獣の件、ボラード伯爵が関わっている可能性が高いです」


 ナタリーはキールから入手した情報をケヴィンに伝えた。

 まだ確固たる証拠はない。

 だが、現在キールにビット伯爵領に魔獣が持ち込まれた証拠がないか探らせているところだ。

 一体どうやって魔獣を捕まえたのか、どうやってシャンクの街まで運んだのか、その方法は一切不明ではある。

 だがそれなりに大掛かりな設備が必要であろうし、証拠を隠滅するにしてもまだ完全には出来ていないのではないかと期待している。


「もし本当にそうなのだとしたら、絶対に許してはおけない。我が領民を何だと思っているんだ」

「きっと魔獣を制御できなかったとして新しくなった要塞やスラスター騎士団の信用を落とすことが目的なんでしょう。レセップス運河は安全とは言えないと。アンカー辺境伯家に責任追及がされれば尚よしといったところでしょうか。既に自身の不正は暴かれているのに、これはただの逆恨みですよ」


 そう、既に自身の不正が暴かれている以上、保身のためにやったのではない。

 ナタリーやケヴィンを恨んでのことだろう。

 自分をこんな目に遭わせておきながら、2人を成功させたりはしないといったところか。

 全く反省の色が見えない。

 つくづく厄介な男だ。


「けれど、今回の件は私にも責任があります。申し訳ありません……」

「何故あなたが謝る必要がある。あなたに責任などありはしない」

「ですがバース小伯爵の不倫相手である、ボラード小伯爵夫人が関与している可能性が高いのです。彼女も私に恨みを持っているかもしれないですから……」


 ナタリーは最後にサラと会った時のことを思い出す。

 恨みのこもった瞳でキッと睨みつけながら、「いい気にならないでよね!」と吐き捨てていった彼女のことを。

 どうやらミゲルとサラは既に別れているようだが、あのサラの様子を見るとすんなり別れられたとは思えない。

 どこかミゲルへの執着のようなものをナタリーは感じていた。

 ミゲルとの別れによって、怒りの矛先がナタリーに向いていたとしても、おかしくはない。


「それこそあなたの責任ではないだろう。責任があるのだとしたら、上手く彼女と別れられなかったバース小子爵と、彼女を利用しているボラード伯爵だ」

「それはそうなんですが……」

「あなたは何も気に病む必要はない。決して自分を責めないでくれ」


 優しい声色でナタリーを落ち着かせるようにそう言うと、ケヴィンはナタリーの前に跪き、そっと手に触れた。


「あなたがここに来てくれて本当によかった。心からそう思う」

「ケヴィン様……。ありがとうございます」


 思わず、ナタリーの瞳が潤む。

 威圧感を感じるはずの黒い瞳に、心が癒やされていくようだった。


「それに、まだどうにも違和感がある」

「違和感ですか……? 何か他にも真相があるということでしょうか」

「ああ。私も伝手つてを使って調べてみる。今はとりあえず、ゆっくり休んでくれ」

「でも怪我は何もないですよ?」

「魔獣に襲われかけたんだ。騎士だって初めて魔獣と対峙する時は、しばらく悪夢にうなされる。想像以上に精神的な負担になっているはずだ。お願いだから、温かいミルクでも飲んで休んでほしい」


 いっそ懇願するようなケヴィンの様子に、ナタリーは素直に首を縦に振った。

 ケヴィンを安心させたいという思いと、事実ケヴィンの言う通りかもしれないと思ったからだ。

 今でもあの魔獣の牙を思い出すと体が震えそうになる。

 自分で思っている以上に、深い心の傷になっているのかもしれない。


「分かりました。そうさせてもらいます。ですが、それはシャンクの街の住人たちも同じこと。どうか早く全ての原因を究明して、安心させてあげてください」

「ああ。必ず」


 ナタリーの手を両手で握りしめ、ケヴィンは力強く頷いた。

 黒い瞳には、怒りにも似た強い意志がこもっていた。






 アンカー辺境伯領と他領を隔てる山脈。

 そこから広がる森の中。

 一台の馬車が、かなりの速度を出して走っている。


「サラ……なんてことを……!」


 握りしめた両の手の指を忙しなく動かしながら、ミゲルは独り言ちた。

 その眉間には、深い皺が刻まれている。


「俺がなんとかしないと……」


 その声色には、覚悟が滲み出ていた。

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